『エレベーター☆マジック』




「いってきまーす」
 眠たい目をこすりながらマンションのドアを開けた私は、ふと嫌な気配を隣に感じて思わず視線を動かした。
「あ……」
「……」
 そこには、同じ高校の制服を着た眼鏡男子が、同じくマンションのドアを今まさに閉めようとしていた。
「お……はよ」
「お……う」
 挨拶なんだか相槌なんだかよくわからない声を発して、根暗な眼鏡男子はエレベーターホールに向かって静かに歩いていく。
 うーん……。
 おそらく、『お』と『う』の間には小さな『はよ』があるんだろうなぁ。
 っていうか、一応お隣さんなんだから挨拶ぐらいちゃんとすればいいのに。
 去っていく後姿をぼんやりと見ながら、学校に遅刻しそうなことに気づいた私は慌てて眼鏡男子が去っていったエレベーターホールへ向かって足を速めた。



 私の名前は上條桜。この春地元の県立桜坂高等学校に入学したピカピカの一年生だ。
 って、もう六月も末なんだから、ピカピカってこともないけどね。高校生活にもなれてちょっとだれだしてる一年生ってとこかな。
 で、今私の目の前を音もなく歩いているのが幼なじみで同じ高校、挙句の果てに同じクラスの向井田楓。
 このマンションが建ったときに同時に引っ越してきたから、幼馴染暦はカレコレ……十五年?
 うっわ、もう十五年もお隣さんしてるのかぁ。
 そのわりに、私と向井田くんとの間には幼なじみならではの気安さはこれっぽっちもない。
 双方の親は仲良しなんだけど、なんとなく私たちはウマが合わない。
 っていうか、この男の考えていることが私にはさっぱりなんだよね。
 身長は私よりは高いけれど男子の中ではちびっ子の部類にはいるんだろうし、全く色をいじってない真っ黒な髪は真ん中分け、しかも眼鏡男子ブームのこのご時勢にありえない『のび太眼鏡』をかけている。
 男同士では普通にしゃべってるみたいだけど、無口でおとなしくて真面目な向井田くんが私はどうも苦手だ。
 小学生時代はまだちょこちょこ話していたような気もするけど、中学にあがった時ぐらいから一気に話さなくなったような気がする。
 話す必要性もないしね。
 と、そんなことをぼんやり考えていると、目の前のランプが緑色に点滅した。
 どうやらエレベーターが到着したみたい。
 私たちの家はこのマンションの六階だから、このエレベーターに乗らなきゃ下に降りれない。
 まぁ、別に階段使ってもいいんだろうけど、体力も時間もいるからわざわざ階段を使う馬鹿もいないわよね。
 ……でも。
 がらんとしたエレベーターホールで私は思わず階段がある非常口の扉に目をやる。
 目の前には到着したエレベーター。
 そして、そのエレベーターに今まさに乗ろうとしている向井田くん。
 以上。
 ……って、二人かよっ!
 やだなー。なんか気まずいんだよなぁ。ヘタに幼なじみとかだから余計に気まずい。
 でも、このエレベーターを逃すと遅刻しちゃいそうだしなぁ。
「……?」
 先に乗り込んで『開』のボタンを押してくれているらしい向井田くんが、私の顔を怪訝そうに見る。
 怪訝そうに……というよりは、迷惑そうに。
 乗るのか乗らないのかはっきりしてくれよ、っていう文字が顔に書いてある気がする……。
 うっわ、コワッ!
 乗りますっ! 乗りますってば!!
「ご、ごめんっ」
「……」
 慌てて口にした謝罪のセリフは、エレベーターの中でふわふわと宙に浮く。
 うっわ、返事なしですか?!
 ほんとこの人、何考えてんのかさっぱりわかんない。
 ま、一階に着くまでの辛抱だし、我慢我慢。
 そんなことを思いながら、カバンの中から携帯を取り出して手持ち無沙汰に触っていた私の体が、がくんっと大きく揺れた。
「え?!」
「……?」
 エレベーター特有の浮遊感が体から消えて、後に残ったのは明らかに動かなくなった箱を思わせる静けさ。
 え? あれ? なによ、ちょっと?!
「も……しかして、止まった?」
「……」
 シーンとなったエレベーター内で私は思わず向井田くんの顔を見る。
 普段は無表情な彼の顔にも驚きが浮かんでいる。
「え? 地震……とか、なかったよねぇ?」
「ああ」
「っていうか、なんで止まっちゃうの?! 私たちどうなっちゃうの?! 学校は?!」
「……んなこと、俺が知るかよ」
 思わずテンバっちゃった私の耳に、冷静なツッコミが聞こえてくる。
 うっわコワッ。っていうか、か弱い女の子がおびえてるんだから、もうちょっと言い方ってもんがあるでしょーっ?
「あ! そうだ携帯……っ」
 とりあえずお母さんに連絡! と思って携帯で自宅へ発信してみると――。
「つながんないじゃんっ!」
 無常にも二つ折りのシルバーピンクの携帯からは『ツー、ツー』という音が聴こえてくる。
「……」
 思わず一人ノリツッコミをした私の耳に、これ見よがしなため息が聞こえてくる。
 うっわ、嫌な奴! 知ってたけど再確認。やっぱり私はこの幼なじみが苦手だ!
「とりあえず――」
「えっ?!」
 焦りまくっている私の横で向井田くんが落ち着いた声で話しかけてきた、その瞬間。
「やっ……やだっ!!」
 がくん、と私たちを乗せたエレベーターが大きく一度揺れる。
 と、同時にこの場を照らしていた明かりがパッと消える。
 なっ! なんで電気が消えるのよーっ!!
 突然真っ暗だなんて、すっごい怖いじゃないっ!!
「おわっ!」
「あっ! ……ご、ごめんっ」
 慌てた私は、どうやら横にいたはずの向井田くんにぶつかったらしい。
 低い叫び声とともに、何かが床に落ちる音がする。
 え?
「あ、あの……だ、いじょう、ぶ?」
「……ああ」
 怖い!
 エレベーターに閉じ込められたのも暗闇も怖いけど、隣にいるこの眼鏡男子も怖いよぉぉ!
 低く抑えた声から怒りが伝わってくるっ。
「……携帯」
 と、とりあえず出来るだけ距離を置こう。うん。
 っていうかさ、普通こういう場面になればもうちょっと優しいもんじゃない?
 一応こんなんだけど幼なじみっていう間柄なんだし?
「上條さん、携帯」
 そういえば、同じクラスの園田さんとこなんてめっちゃ仲よさそうだしなぁ。あれこそまさに『幼なじみから発展する恋愛のかたち』って感じよね。
 ま、あそこは幼なじみの相手があの橘くんだもんなぁ。あれは反則だよね。かっこよすぎ。
「上條さん? 聞いてる?」
「うわぁぁっ!」
 思わず妄想モードオンになっていた私の耳元で、向井田くんが大きめの声で呼びかける。
「携帯、貸して」
「へ?」
 あービックリした。
 っていうか、なぜに携帯?
「……ここ、電波はいんないよ? さっき私が電話かけてるの横で見てたじゃん」
「わかってるよ」
 親切心で教えてあげたのに、そんなことはさも当然とばかりにあっさりと言葉を返す向井田楓十六歳(推定)。
 かっわいくなっ。
 っていうか、なんで私の携帯が必要なのよ。自分の使えばいいじゃん?
「向井田くん、携帯は?」
「俺のはカバンの中だから、この暗闇じゃ取り出せないだろ? とりあえず貸して」
「なんで私が貸さなくちゃなんないのよ?」
「上條さん、今手に持ってるだろ? 携帯」
 ……そりゃそうだけど。だからってなんでこの状況で私の携帯が必要になるのよっ。
「……ライト」
「へ?」
 いつまでたっても私が携帯を渡さないからどうやら痺れを切らしたらしい向井田くんは、ボソリと低い声で呟く。
 ライト? なんのことよ。
「とりあえず緊急用のインターホンの場所を知りたいから、手元を照らす明かりが欲しいって言ってんの」
「あー……」
 なるほどね。携帯の画面の明かりを使うのかぁ。
 んじゃ、最初っからそういえばいいじゃん。イチイチもったいぶるからややこしくなるのよねっ。
 ほんっとに無愛想な男よね。
 そんな文句を口の中でブツブツ呟きながら渡した携帯を、向井田くんは片手で開く。
 と、同時に向井田くんの手のひらの中からぼやっと淡い光があたりを照らす。
 へぇぇ。思ったよりも携帯の電光ってすごいんだなぁ。
 ちゃんと明かりの役目になるじゃん。
「……って、ええっ?!」
 自分が置かれている状況もすっかり忘れて感心していた私は、ふと視線を上げて目の前にある人物に思いっきりたじろいだ。
 っていうか、あんた誰?!
 私の携帯でインターホンを探しているこの人、誰よっ?!
「……なに?」
「い、いえ……。ナンデモ、ナイデス」
 思わずカタコトになったまま私は呆然と目の前の眼鏡男子を見る。
 ん? ちがうな。
 眼鏡を取った幼なじみを見る、かな。
 どうやらさっき私がぶつかった時に向井田くんが落としたのって、彼が四六時中かけてる『のび太眼鏡』だったみたいで。
 で、あのだっさい眼鏡の向こうに隠れていた素顔は、全然違うくて。
 いや、なんちゅーか。
 ぶっちゃけカッコカワイイんですけど?
 意外とお目目くりくりなんですけど?!
 マジ、いつものあの無愛想で根暗な眼鏡男子はどこに消えたのよ? 状態なんですけどっ?!
「あった」
 閉じ込められた怖さも忘れて思わず目の前の幼なじみの顔に見とれていた私に向かって、落ち着いた低音で話しかける向井田楓十六歳(推定)。
 見た目は変わっても声のトーンは一向に変わらず低い。
 っていうか、落ち着いてるっていうのかなぁ? こういう場合。
 ビーッ!!!
「うわっ!」
 そんなことをのらりくらりと考えていた私の耳に、突き刺すようなサイレンが飛び込む。
 え?! なになにっ?! 今度は何が起こったのっ?!
「あ、すみません。西館のエレベーターなんですが、中に閉じ込められているんですけどどうしたらいいですか?」
 ドギマギしつつ隣を見ると、そこにはエレベーターの非常ボタンを押して管理人室の人と冷静に会話をしている向井田くん。
 あ、今の音って非常ボタンの音だったのか。
 あービックリした。
 っていうか、非常ボタン押すならヒトコトぐらい言ってくれてもいいのにっ!
 突然あんな大きな音が出たらビックリするじゃないっ!!
「あ、はい。わかりました」
 そんな一人ツッコミをしつつ、私はまたも向井田くんの横顔を盗み見る。
 うーん。
 やっぱり、キレイな顔してると思う。
 普段はあのもっさーとした真ん中分けの黒髪&のび太眼鏡でわかんなかったけど、薄明かりの中でこうしてみると、意外と整った顔をしてる。
 うん?
 もしかして、薄明かりの中で見てるからか?
 プラス緊急事態だしね。
 ほら、俗に言う『ゲレンデで見ると男は普段の数倍かっこよく見える』っていうあれと同じ効果?
「……でもやっぱ、カッコカワイイよねぇ」
「は?」
「え?」
 心の中での呟きに、盗み見ていた向井田くんが反応してこっちを見る。
 え? あれ?
 もしかして今、声に出てた?
 うっかり声に出しちゃってましたか?!
「何?」
「え、い、いやねっ? ほら、えーっと……」
 こっちをじぃーっと見つめるその瞳が予想以上にキレイで。
 うっわー、やめて! やめてってばっ!
 何?! この胸のドキドキ何?!
「め……め、眼鏡! そう眼鏡っ! 落としちゃったんだよね?! ごめん!」
「あー…。別にいいよ。電気ついてから探すから」
「でも! ないと不便だろうし……私、今探すよ!」
「いいよ。ヘタに動かれて眼鏡踏まれても困るし」
「は?」
 へ?
 ナンデスカ? その冷たい言葉。
 ああ! 私に気を使ってくれてるの?
 そうよね。別にそんなこと気にすんなよってことよね?
「上條さん、粗忽者だから絶対に俺の眼鏡思いっきり踏みつけそうだし」
 は?
 ソコツモノ?
 それってば、何気に私のこと思いっきりけなしてる?
 私のささやかな親切心を思いっきりアタックして地べたにたたきつけた感じがしたんですけど?

 ――パチン――

 そんなことを思っていたら、チカチカと点滅してからエレベーター内の電気が点灯した。
「あ、ついた」
「……あった」
 明るくなったエレベーター内でほっと安心した私の横で、何よりも大切な眼鏡を拾う向井田楓十六歳(推定。あ、ちなみにしつこいぐらい『推定』って語尾につけてんのは、私が向井田くんの誕生日を知らないからだからね)。
 で、のび太眼鏡は無事向井田くんの顔に装着された。
 装着される瞬間、明るい蛍光灯の元で見た向井田くんの素顔はやっぱりカッコカワイイ気がしたけれど。
 でも、のび太眼鏡をかけた向井田くんはいつもの向井田くんで。
 そこにはパッと冴えないちびっ子眼鏡男子が立っていて。
 うーん。やっぱり気のせいか?
 ゲレンデ効果か?
 むぅ。よくわかんないなぁ。
「眼鏡、かけないほうがいいと思うんだけどな」
「?」
 ボソリと呟いた私の呟きに無言で反応を返してきたけれど。
 別に興味もなさそうだから、わざわざ言い直す気にもなれなくて。
「なんでもないよ」
 それに、眼鏡をかけた向井田くんはやっぱりしゃべりにくいし。
 なーんか、しゃべんなオーラが出てる気がすんのよね。
 ……もしかして、私のこと嫌いなのかなぁ。
 それって、結構ショックだなぁ。
 ん? あれ?
 なんで私、向井田くんが私のこと嫌ってるからってそんなにショック受けてるんだろう?
 別に関係ないのに。
 なんとなく胸のもやもやを消化できずにいた私は、少し離れた隣に立っている向井田くんをチラリと盗み見る。
 エレベーターが止まる前から変わらない冷静沈着な眼鏡男子。
 ああいう場面で取り乱さないのは、言い換えれば頼りがいがあるんだろうけど。
 そりゃ、非常用インターフォンで説明している向井田くんは確かにちょっとかっこよく見えたけど。
 眼鏡なしの瞳でこっちを見つめられた時は胸がドキドキしたけど。
 え? あれ?
 これってば、ちょっともしかしてアレじゃないの?
 ま、まさか……ね。
 幼なじみを好きになるとか、そういう『ザ☆少女マンガ』展開はいやだからね。
 しかも好きになるきっかけが『眼鏡を外した顔がめっちゃカッコカワイイから』とか、すっごいベタ展開過ぎるじゃん。
「……?」
 一階に到着したエレベーター内でウンウンと唸っていた私を、先に扉の向こうへと出た向井田くんが一度だけこっちを見て首を傾げる。
 そして、そのまま挨拶もなしに先に歩いて行ってしまう後姿を見つめながら、私はちらりと考える。
 もう一度、あの素顔を見てみたいなぁ。
 あの、眼鏡なしのくりくりお目目。
 予想外だったキレイな瞳は、幼なじみっていうのも名ばかりな関係だった隣ん家の男の子との距離を、ちょっとだけ縮めたくなった。
 ……ちょっとだけだけど。
 せめて、園田さんたちの半分でもいいから幼なじみっぽい関係になってみたいかもね。


 そんなことを考えつつ、手に持っていた携帯電話をバッグに仕舞った私は、慌ててマンションの入り口から外へと飛び出した。

《了》


前項

作者/真冬