眼鏡の代わりに
仁美は何着ようかとクローゼットの前で腕を組んでいた。悩みに悩んで、膝丈のダークグリーンのパンツに七部袖くらいの白いシャツにした。スニーカーにするかサンダルにするか、考えた結果スニーカーを選んだ。
六時少し前に携帯が鳴った。
「もしもし」
『おはよう。登録してないんだね。もう着くけど大丈夫?』
「はい、大丈夫です。でも、どうして分かったんですか? 登録してないって」
『声が警戒してた。準備が出来たら、出てきてくれる?』
「はい」
仁美は部屋の鍵を閉めて階段を下りてゆくとこの間と違う車が停まっていた。助手席側の窓が開いた。
「佐藤さん?」
「おはようございます」
「おはよ。乗って」
「はい」
仁美は助手席に座るとシートベルトを締めた。
「佐藤さん」
「はい」
「僕が今何を言おうとしてるか分かる?」
仁美は首をかしげて樹を見た。
「眼鏡外して……ですか?」
仁美が答えると樹は満足そうな顔をした。
「よく分かったね。正解。そして前髪は留めるか、耳にかけておいて」
スーツ以外の服装って初めて見た。
薄いピンクのシャツにカジュアルなスラックス。眼鏡もいつもと違うものをしていた。
「なに?」
じっと見ていたせいか樹が聞いた。
「社長って、おしゃれなんだなと思いまして」
「あのさ、役職名で呼ぶのは止めてよ。黒川 樹って名前があるんだから」
「黒川、さん」
「それでいい。樹って呼んで欲しいけどね」
「え」
まだ梅雨が明けていないせいか行楽に向かう車は少なかった。十時前には下田に着いていた。
「この先に小さな海岸がある」
「わぁ、キレイ」
車が停まると仁美は興奮気味に飛び出した。
「海の色が違う。青い。こういう海って沖縄じゃないと見られないと思ってた」
波打ち際まで行くと小さな魚まで見えた。梅雨時の空は明るいグレーだった。
「日が射したらもっと海は青く見える」
「そうなんですか。残念だな、見たかった」
仁美は波打ち際を歩きながら海を眺めた。
「海に入ってもいいですか?」
「冷たくないか?」
「足だけだから大丈夫です」
仁美は波のこないところでスニーカーを脱いだ。少しずつ波のかかる場所に歩いて行く。足の下の砂を波がさらっていく感触は目を閉じると眩暈がしそうだった。
「あんまり行くと波を被るよ」
樹の声に「気をつけます」と答えた。それでも気にせず歩いて行った。
グレーの空の合間から光が射した。弱々しい光だったか海に届くとそこだけ透き通るような青に見えた。
「きれい」
憑かれたように惹きつけられていた。膝丈のパンツの裾をぬらしていたが、それすら気に留める気配はなかった。
「佐藤さん!」
名前を呼ばれる同時に体を引かれた。仁美の腰と肩に樹の腕が回り、後ろから抱きすくめられてられていた。
「あ」
仁美は我に返った。
「私……何を?」
「見とれてただけだよ。海に」
耳元で樹が呟いた。ポツポツと雨が落ちてきていた。
「降り出したな。車に戻ろう」
樹に手を引かれながら歩いた。仁美の目に入った。樹の濡れた靴、ズボン。
「濡れてる。私が、私のせい」
「ん? ああ、すぐ乾く」
「でも」
「スニーカー忘れないようにね」
足についた砂を手で払って、スニーカーを履いた。本格的に降り出した雨だった。車につく頃にはかなり濡れていた。
樹はトランクを開けるとタオルを探しだした。
「髪だけでも拭いて」
「黒川さんも」
「まいったな。雨は予定外だ。とりあえず車に乗って」
樹は車を出した。迷いも無く運転する様子から土地勘があるように見えた。店が立ち並ぶエリアに出ると
「ちょっと待ってて」
と車を降りて行った。何分も待たされることなく樹は紙袋を手に戻ってきた。
山の方に上っていくと別荘地のようだった。門まであって守衛までいた。その人に樹はカードを差し出した。すると門が開いた。高級別荘地なのだろう大きな家々が点在していた。数分走ると山小屋風の別荘が現れた。ガレージの前に車をバックさせていくと扉が自動で開いた。
「凄い」
車がガレージに納まると扉は閉まった。
「降りて」
樹の後を追って家の中に入った。玄関からすぐリビングへと続き中央に階段。吹き抜けになっていた。
仁美はただ見上げていた。樹はどこかに行き、また戻ってきた。
「今、お湯を張ってるから風呂に入ってきて。これ着替え」
紙袋を手渡された。
「風邪引くから。早く――覗いたりしないから安心して。それとも一緒に入る?」
動こうとしない仁美を樹はからかった。
「い、いえ、結構です」
樹は豪快に笑っていた。
「ちゃんと温まってきてね」
予想外の出来事で何がなんだか混乱していた。
とりあえず言われた通りにしよう。
着替えといって渡された紙袋から服を取り出して絶句した。
なんで?
百歩譲って下着まで用意してくれたことには感謝しようと思う。だけど、どうしたらサイズなんて分かるの?
「うー」
しかも服。真っ白いワンピース。こんなの着たことない。
混乱した頭をさらに混濁させて着替えを終えた。
「黒川さん?」
リビングにはいないみたい。二階? 階段を上りながら呼んだ。
「黒川さん?」
「こっち」
「お風呂空きましたけど」
ウォークインクローゼットの中をゴソゴソさせていた。
「おっかしいな。確かこの辺で見たはず……あ、これだ」
埃を被った箱を開けるとサンダルが入っていた。真紅のサンダル。
「靴用意してなかったから。その服でスニーカーはありえないし。これストラップ付きだし、多少サイズが合わなくても大丈夫だろうから」
「私が履くのですか? いいんですか? どなたかのじゃないんですか?」
「ここにあるってことは要らないものだから。僕も風呂入ってくる。家の探検でもしてて」
樹は階下に下りて行った。
ドアは五つあった。そのうちの一つはお手洗いだろう。一つ目の部屋はベッドが二つあるだけ。調度品もなくてシンプル。もう一つも同じようにシンプルだったが、部屋の大きさは違った。最後の部屋を開けた。
天窓。空が見える。夜は星空が見えるのかな。
その下に置かれたベッドはキングサイズのベッド。寝ながら星が眺めれる。天窓にはブラインドのようなものもあって光を遮ることもできそうだ。
窓も開くのかな?
ベッドの端に腰掛けて上を見上げると、星空が見えたような気がした。
「気に入った?」
声のした方に顔を向けると、部屋の入り口に樹が立っていた。
「星空を眺めながら眠れるって凄いですね」
「冬は結構見えるけど、夏は無理だね」
「そうなんですか。ちょっと残念」
「多少は見えるよ。でも満天の星空とはいかない」
樹は隣に腰掛けるとそのまま寝転んだ。その様子を見ながら、
「ここって黒川さんの別荘なんですか?」
「僕のじゃないよ。親のね」
「そうなんですか。だから土地勘があるんですね。海からの道、カーナビも見てなかったし」
「そうだね。迷いはしないかな」
樹は仁美を見つめた。
「なんですか?」
「思ったとおり白い服は似合う」
「そうですか?」
仁美は下着のことを思い出して顔を赤くした。
「どうかした?」
「なんでもないです」
樹は体を起こした。
「そういうふうに見えないよ。言いたいことがあったら言って」
「なんでもないです」
樹の鋭い視線。居た堪れなくて仁美は下を向いた。
「なんで分かったのかなと思って。下着のサイズとか」
樹はまた寝転んだ。
「まぐれだよ。感触でこのくらいかなって。そっか、当たったんだ」
感触って? 何? 触られたことない。海のこと? どひゃー
仁美は耳まで赤くなっていた。樹は面白そうに見ていた。
「もう一つ」
樹は仁美に手招きした。仁美が体を屈めると耳元で囁いた。
「男が女性に服を贈るのは、一般的には『その服を脱がせたい』という意味合いがあるって知ってた?」
仁美が目を見開いて樹から離れようとした。その腕を樹は掴んだ。
「だから僕以外から服を貰っちゃダメだよ」
仁美は樹の射るような眼差しに頷いてしまっていた。
「ところで、お腹すかない?」
「そういえば、空きました」
「じゃあ食べに行こう」
「はい」
車で向かった先はお店という雰囲気じゃなかった。
「ここですか?」
「そう。レストランじゃなくて、最近流行のオーベルジュっていうの。知ってる?」
勝手知ったるなんとかで樹は玄関を開けて奥に歩いていく。仁美は後を追った。
「びっくりしたな! 来るなら来るって言ってよ」
コックコートを着た人が驚いた顔で近づいてきた。体が大きくて熊みたいだと仁美は思った。
「驚かせるのって楽しいじゃない?」
樹は屈託のない笑顔になった。
「一人? なわけないか」
樹の影に隠れるように立っていた仁美に気が付いた。
「紹介するよ。村上さん。父の後輩だったかな? 大学出てから料理人になった変わり者。痛た、叩かれた。こちらは、佐藤さんで僕の秘書」
「え? いっちゃん、そりゃ職権乱用じゃないのか?」
村上は悪戯っぽい顔で樹を小突いた。
「それくらい許してもらわないとね。割が合わないよ。こき使われてるんだから」
「相変わらずなのか? おお、そうだ、こんなとこじゃなんだよな。食事に来たんだよな。悪い」
案内されたテーブルは個室だった。
「村上さんの声が大きいから。他のお客さんに迷惑にならないように、いつも個室なわけ」
「なんで分かるんですか? 私が思ったこと」
「顔に書いてあるっていうのはベタだけどそんな感じだよ」
フランス料理だと言ってたけど、気取ってなく、どこ産の何とか言わないんだと仁美は思った。
目の前の料理を食べきると仁美はナイフとフォークを揃えた。
「もう食べられないです」
「え? リタイア? デザートは入るよね?」
仁美は首を振った。
「入りません。残念ですけど諦めます」
「そうなの? 一口も無理?」
「無理です。苦しくて死にそうです」
樹は呆れたように息を吐いた。
「なんで、そこまで食べたの」
「残すの嫌だから……」
「持ち帰りにしてもらおう。次から無理に食べきらなくていいから」
「でも……」
「僕が食べるから。それならいいだろう?」
「はい」
樹は苦笑していた。
苦しい。これで車に揺られたら死んじゃう。
「すぐ帰りますか?」
「何か用事でもあるの?」
「いえ、今車に長時間乗るのいやだなと思って」
村上がケーキをワゴンに乗せてやってきた。
見るのもダメかも。
仁美のげんなりした顔を見て樹が笑い出した。
「村上さん、ケーキは持ち帰りにしてくれる? 彼女食べ過ぎで死んじゃうらしいから」
「そうなの? たくさん食べてもらおうと思ったのに。じゃあ、こうしない? 部屋に案内するから、ゆっくりしてさ。それでお茶の時間に食べてよ。明日、日曜日だし、何だったら泊まってくれてもいいよ」
村上が嬉々として楽しそうに言ったが、仁美はどう答えていいか分からず、言葉にならない声を上げた。
「えっと、あの」
「そうだね。そうさせてもらうよ。時間は充分あるし、今車に乗るのは体に悪そうだ」
樹が村上が案内してくれた部屋はセミスイートというかなり広い部屋だった。テラスがあって見晴らしもいい。雨でなければ海がよく見えると言う。
「最近は節約志向みたいでさ。安い方から埋まっていくんだ。だからここは滅多に使われない。ゆっくり休んでって。せっかく来てくれたのに、バタバタして申し訳ないけど。仕込み終わったらまた来る」
「気を遣わないでよ、勝手に押しかけてきたんだから」
「俺が構いたいんだよ。じっくりいっちゃんとも話したいしな。じゃ後で」
天蓋付きのベッド。さっきの空が見える方が好き。
そんなことを思いながら所在なげにぼんやり立っていた。
「座ったら?」
「苦しいから立ってます。この方が楽です」
「しょうがないな、本当に」
樹は苦笑しながら仁美を手招きした。
「いいからここに座って」
言われた通りにベッドの縁に座るとゆっくりと後ろに倒された。
「寝転んでたほうが楽だよ。少し寝てなさい」
「食べてすぐ寝ると牛になるって言いませんか?」
「一回くらいじゃならないよ」
「そうですか」
樹が噴出した。
「佐藤さんって真面目なんだかボケてるんだか分からないけど。可笑しすぎる」
「受けて貰えて嬉しいです」
お腹いっぱい。横になったら眠くなっちゃう。
気が付くと仁美は眠っていた。
話し声がする。誰だろう?
仁美が起き上がると大きな声がした。
「お姫様のお目覚めですな」
村上さんの声は確かに大きい。
「すいません。私寝ちゃったみたいで」
「気持ちよさそうに寝てたよ。疲れてたのかな?」
村上はカップにコーヒーを淹れると仁美に手渡した。
「ありがとうございます。疲れてるってことはないと思いますけど。普段、夢見が悪いんで」
仁美は言葉を濁して、コーヒーを口に運んだ。
「しっかし、ハノイにとはな。あの爺さんの強引さはなんだろうな」
村上は面白そうだった。村上の表情はコロコロと変わった。
喜怒哀楽が激しい人って初めてみたかも。
「本当にね、困ったものだよ。人のこと駒みたいに扱うからね。三年くらいは落ち着けると思ってたんだけど無理だったよ」
樹は残念そうな口ぶりだった。
「和紀くんだっけ? ってことは上手くいったのか」
「上手くね……どうだろう。掌の上で転がされただけのよな気もするけど」
「うははっ。そうだろうな! 何しろあの爺さんだからな。骨のある奴が見つかったって両手を上げて喜んでるだろうよ」
「かもね」
仁美には樹と村上の会話はほとんど分からなかった。無理に混ざる必要もないかとただ聞いていた。
「顔色あんまり良くないな。風邪引いた?」
樹の手が額に伸びてきた。
「全然、そんなことないです」
やんわりと手を避けた。
「気のせいか」
「です。もう、黒川さんって世話好きっていうか。心配性ですよね」
「そう?」
村上がお腹を抱えて笑ってた。
「言えてる。いっちゃんは基本、心配性」
「そう?」
「黒川さんってごきょうだいはいますか?」
「妹が一人いる」
なんからしい。
仁美がくすりと笑った。
「なに?」
「すいません。なんか凄く分かる気がしたんで」
「よく言われるけどね。女きょうだいが居そうってね」
仁美と樹の会話を聞いた村上が怪訝そうな顔をした。
「いっちゃん、もしかして、佐藤さん知らないの?」
樹は悪戯っぽい顔をしていた。
「え、何ですか?」
仁美は村上ではなく樹に尋ねた。
「何でもないよ」
村上は立ち上がった。
「さて、そろそろ俺は厨房に戻る。好きなだけゆっくりしてってくれよ。何だったら、夕飯食べてってくれていいし、泊まってっても構わないからね。ただ生憎部屋はここしか空いてないけど」
村上は不器用にウインクをしてみせた。一瞬置いてから意味が分かった仁美は慌てた。
「帰りますからご心配なく」
村上はニヤニヤしていた。
「だってさ。いっちゃん、残念だったね」
「黒川さん、さっきハノイって言ってましたよね。それに三年くらいは落ち着けると思ってたんだけどって。あれはどういう意味ですか?」
テラスに面した窓を見ていた樹の背に問いかけた。
「ちゃんと聞いてたんだ」
「聞こえましたけど。聞いちゃいけなかったですか?」
仁美が聞き返した。樹は振り返った。
「いや。遅かれ早かれ耳にするだろう。僕は来月、ハノイ支社へ異動になる」
「え」
樹の静かな声が響いた。
「社長に就任する前から予定されていたことでね。そもそも社長職も三年って期限付きだったから」
「どうして――三年なんですか」
「和紀の教育のため。和紀は会長の孫娘と婚約してて、結婚にあたり社長を引き継ぐことになってたわけ。短いと思うけど、あまり長くても意味ないし」
「そうだったんですか――」
仁美は納得したものの気持ちが沈んでいくのが自分でも分かった。
「寂しい?」
「はい、寂しいです。でも仕方ないですから」
口に出すとさらに増した気がした。そして仁美は心を静めるように目を伏せた。
「一緒にくる?」
仁美はえっと驚いて樹を見上げた。
「佐藤さんさえ良ければ、連れてゆくよ」
「無理です。英語できないし、私」
樹は笑った。
「そういう事じゃなくてね」
「え? 違うんですか?」
樹は少し目を細めると、仁美の肩に手を置き頬に唇を寄せた。
「こういう意味」
仁美は固まっていた。
「佐藤さん?」
「え、あの、えーっと」
仁美は慌てて後ずさった。樹の眼差しが痛い。
「落ち着いて」
「からかいました?」
「本気だよ」
「だって」
「僕のものにしたい。考えておいてくれる? 返事は行く前にくれると嬉しい」
仁美は小さく頷いた。
「いい返事待ってるよ」
仁美はその後のことを覚えていなかった。送ってもらったのだろうが、何も覚えていなかった。
夢だったのかな?
夢ではないことは確かだった。仁美は白いワンピースを着ていた。そして村上から持たされたであろうケーキがあった。
俊一との約束の日。久しぶりに実家に入ると掃除を始めた。何かに憑かれたかのように、無心に手を体を動かしていた仁美を訝しげに俊一は見ていた。
「仁美ちゃん?」
「あ、ごめんなさい」
「どうかした?」
俊一は仁美が壁に背を当てて座り込むのを見ていた。
「うん……あのね」
「好きな人でもできた?」
「よく分からない……」
仁美は不安そうに呟いた。
「その人といて楽しい?」
「うん」
即答した仁美に俊一は微笑んだ。
「安心する?」
「うん」
「ドキドキする?」
「え」
「しないの?」
俊一の問いに迷いながらも仁美は言った。
「ううん、する」
「それでいいじゃない? その気持ちを大切にすればいい」
「そうだね。ありがとう、俊くん」
掃除を終えると仏壇に花を飾りお供えをした。そしてローソクに火を点し線香を上げる。仁美は目を閉じて手をあわせた。俊一は仁美の背を見守るように黙って座っていた。
「仁美ちゃん、愛美も呼んでいいか?」
仁美は振り返らずに大きく頷いた。
「ありがと」
俊一が立ち上がる気配がした。
「俊くん、私こそありがとう。本当は私が呼ばなくちゃいけないのに」
「仁美ちゃんは精一杯してる。それは俺も、愛美も分かってるから」
俊一が部屋を出て行くと仁美はひとしきり泣いた。
俊一は愛美と共に戻ってきて線香を上げた。仁美はぼんやりとその様を見ていた。愛美とは言葉を交わすことはなかった。
「送ってくるから」
俊一の言葉に頷いて二人を玄関で見送った。背を向けて歩き出した愛美に仁美は呟いた。
「ごめんなさい。愛美ちゃん」
愛美の背中が揺れて振り返った。
「一番辛かったのは仁美ちゃんなんだよ? 謝ること何にもないんだよ」
仁美は首を振ってた。愛美は仁美に抱きついた。
「私も俊一も仁美ちゃんのこと家族のように思ってるんだから。頼ってよ」
「愛美ちゃん……」
その日は夜まで明かりが灯され、話し声が絶えなかった。
コーヒー豆の買い置きが無いのに気が付いたのは出社してすぐだった。午前中はなんとかなりそうだったが、午後は会議もあるので足りないのは歴然だった。仁美は買い走った。
「暑い」
梅雨の合間とはいえ、真昼間に歩きは辛かった。仁美は汗を拭った。眼鏡を外すと蔓についた汗も丁寧に拭いた。名前を呼ばれた気がして振り返ると樹が歩いていた。
歩きなんて珍しい。えっ?
樹の後ろを乱暴な運転の車がクラクションを鳴らしながら猛スピードで走ってきた。仁美は眼鏡を手にしたまま、顔を手で覆うと背を向けていた。足ががくがくと震え、立っていられなくて膝をついた。
「佐藤さん?」
樹の声がした。恐る恐る顔をあげると、目の前に樹がいた。
「大丈夫? 顔が真っ青――」
屈んで中腰になった樹を見上げた。
「死んじゃうかと思った……」
脱力して仁美はその場に座り込んでいた。
「良かった……」
好き。黒川さんが好き。
「あのねぇ、あれくらい誰でも避けられるし。車だって止まれるスピードだよ」
樹は座り込んだ仁美の頭に手を乗せて、仁美の顔を覗き込んだ。そして、頬を伝う涙を指で拭った。
「うわっ」
樹の顔の近さに驚いた仁美は飛び退いた。
「すいません。私」
眼鏡を握り締めたまま俯いた。樹は仁美の手からスルリと眼鏡を取り上げた。驚いて見上げた仁美の顔に樹は微笑んだ。樹は両手で黒い縁の眼鏡の蔓を持つと仁美の顔にかけた。
「どこまで行くの? 車に気をつけて行ってらっしゃい」
仁美は樹の言葉に笑い出していた。
「すいません。なんか、小学生にでもなった気がして」
「心外だな」
樹は射るような視線を向けた後、何事もない顔をして歩いて行った。
「佐藤さん、辞令」
和紀が読み上げた。
「親会社、藤井物産への転籍と、ハノイ支社支社長付き秘書」
「え?」
「樹の秘書だから仕事は変わらない。樹のお守りの方が大変だろうが」
仁美が驚いて返事をしないでいるのを見て和紀が言った。
「あれ? もしかして知らない?」
「何をですか? 西山さんが会長のお孫さんと結婚されることは知ってますけど」
「ああ、俺は樹を義理とはいえ兄さんって呼ぶんだ。わかる? ホントに信じられないだろう? 樹と兄弟になるんだと」
「え? それって」
「やっぱり知らないのか。樹は会長の孫だよ」
「え、嘘」
「そういうことだから、頑張って」
会長の孫って言った?
社長室をノックした。返事を待たずにドアを開けると、樹は机の中のものをダンボールに投げ入れていた。
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「何?」
「だから、黒川さんが会長のお孫さんだということです」
「なんだ、そのこと。言う必要ないと思ったからね。関係ないだろう?」
樹は事も無げに答えた。
「無理、不釣合い」
仁美は小さな声で呟いて俯くと樹に背を向けた。
「無理って何が無理なの? それに何が不釣合いだって?」
「私は何も持ってない」
「僕にあるのは、自分で稼いだものだけだよ。佐藤さんと変わらない」
樹は仁美の背後から抱き締めると耳に唇を寄せた。
「好きだよ」
「黒川さん……」
仁美は顔を真っ赤にした。
「僕のものだからね。絶対離さない。職権乱用と言われようともハノイに連れてく。それとも僕のこと嫌い?」
仁美は首を振った。
「好き」
仁美が真っ直ぐに樹を見上げた。樹は出来る限り前かがみになると、仁美の顎に右手をかけて真上を向いている仁美に唇を重ねた。
「知ってる」
樹は仁美の眼鏡に手を伸ばすと、両手で蔓を摘まんでスルリと抜いた。
「もう眼鏡は必要ない。眼鏡の代わりに僕が守ってあげる。前髪を少し切ろう? このままだと目が悪くなる。もしかしてもう悪くなってる?」
「いえ、目は悪くないです」
「よかった」
《了》
表紙
作者 / 音和 奏
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