にゃあ。と声がした。
 低くなり始めた太陽が木漏れ日となって木の下に寝転ぶ拓巳の目を眩ませる。それに少し眼を細めながらも、くわえていたチュッパチャプスの棒を軽く噛んで目を凝らした。
 ――どうやらそれは青々とした葉が茂っている木の上から聞こえているらしい。


 


「猫か?」

 にゃあと鳴くのは豚なんかではあるはずが無い。
 もっとも、逆にそんな豚がいたら拓巳は喜んで捕獲しただろうが。
 拓巳は残念ながら霊長類人科の生物だったから、それがなんと言っているのかは解らなかったが、助けを呼んでいるんだろうな、ということは何となく理解した。
 無駄の無い動作でひょいと立ち上がり、そのグリーンの瞳が捕らえたのは、縞々の三毛猫。
 木の上に高い所に昇って降りれなくなったらしい。拓巳にとっては手を伸ばせばすぐ届く高さでも、その子猫にとっては高層ビルぐらいなのだろう、ますます不安そうにみゃあ。と鳴き続ける。
 拓巳は無造作に腕を伸ばすと、子猫の首根っこをがしりと掴んだ。本人は助ける気満々であるったが、怖がった子猫は容赦なく拓巳の手を引っ掻いた。
 拓巳の白磁気のような肌に三本線が引かれて、そこからはじわりと赤い血が浮き出るように滲む。
 それにちょっとだけむかついて、拓巳はぽい、と軽く芝生の上に子猫を投げ捨てた。腐っても猫であるはずのそれは、ぼてり、となんとも情けない有様で草の上に転がった。
「痛いよ。怖がりの癖して生意気だなぁお前」
 それに、にゃあ。と猫は一鳴きした。
 それが、御免なさい、なのか。あんたもね、なのかは解らなかったから、少しだけ不機嫌になった拓巳は子猫をじっと見つめる。
 にらめっこをしているように見つめていたその黒々とした目に、ふと、彼女の生意気そうな瞳が重なった。
 拓巳はむっとしていたのも忘れて自然と笑みを浮かべた。あれに似ているのなら、生意気なのも納得だ。とお得意の独自の思考回路を経ての結論を下して、ごろりと再び体を倒して寝転がる。
 草の独特な青臭い匂いが鼻をくすぐった。
 ――猫って恩返したよなぁ。
 わくわくと心を躍らす拓巳の意識は徐々に溶け、まどろんでいく。
 どこかで自分を呼ぶ彼女の声が聞こえた気がしたから、拓巳はまた満足そうに目を閉じたのであった。




 生徒会予算の集計していた手を止めて、浩輝は一息吐いてから、凝り固まった眉間をほぐそうと手をやった。いつもの様に、そこに在るべきである生徒会長の姿は見えない。どこかで惰眠を貪っているのだろうと浩輝は予想をつけた。多少ぼんやりした頭をはっきりさせる為に、生徒会室に備えてあるポットにティースプーンで茶葉を一匙すくうとお湯を注いだ。紅茶の茶葉が踊り、鮮やかな色が広がる。浩輝は砂糖もミルクも入っていない紅茶を一口飲み息をついた。――これくらいの特権がなければ、いくらストイックな浩輝でも管理職なんてやってられないのである。


 


 にゃあ、と声が聞こえた。
 一瞬空耳かと疑ってみて、フレームの眼鏡を通して見た物体は、間違う事なき猫だった。好奇心が強いのか、わずかに開いていた扉の間をするりとすり抜けて子猫は入ってきた。灰色の縞々の毛がふわふわと生えている。その瞳だけがまん丸く、どこか人間で表現すると「きょとんとした」表情をしていた。
 どこから入ってきたのだろうか。
 浩輝は怪訝そうに眉を顰めた。動物が校内に迷い込んでくるなんて事はめったに起こらないはずである。足元に寄ってくる子猫を見ている視線もだんだん険しくなってくる。浩樹はどっちかというと小 動物といった類は苦手な部類に入る。扱いに困るからだ。
 にゃーにゃーと多少耳障りなぐらい鳴き続ける声と、甘えるような仕草から、その類まれなる観察力で浩輝は「この猫はお腹がすいているらしい」との結論に至った。
「特に食べさせられるものなんてないのですが」
 表情はどっちかというと無表情だったが、心の中では浩輝は困っていた。子猫はそんな浩輝の気も知らずに、鳴き続けている。
 ふと、冷蔵庫の中の牛乳の存在を思い出した。ストレートで紅茶を飲む浩輝とは違い、桂木はミルクをどぼどぼ入れる派だ。それは浩輝に言わせれば、ミルクティーというよりティーミルクというぐらい白く、邪道だと眉を顰めたくなる。
 冷蔵庫の中から、牛乳を取り出すと――それには太ペンマジックで桂木専用と書いてある――少し考えた後、耐熱ガラスに注ぎ、レンジのなかで温める。それは次に取り出したときは見事に人肌になっていた。猫舌、というぐらいだから熱いのは飲めないだろうと、浩輝は考慮したので。
 紅茶の受け皿に注ぎ床に置いた。子猫はまったく無防備に皿に近づくと、ぺろぺろと舌で舐め始めた。自分の腹を満たす事に集中している子猫を数秒見つめてから、浩輝は自分の作業に戻ろうと、椅子に腰掛けた。
 子猫はその音にびっくりしたのか、受け皿をひっくり返してミルクまみれになった。仕事を増やしてくれた子猫に頭を抱えながらも浩輝はしゃがみこみ、ぴんとアイロンがけされているハンカチで顔を丁寧にふき取った。
 毛が酷い事になりそうですね。
 そう思いながらも、いまだにきょとんとしている子猫の表情に苦笑を漏らす。このどんくささが誰かを連想させたからだ。
 扉が音を立てて開き、顔を上げるとそこには彼女が立っていた。浩輝と猫を見比べて開いた口が塞がらないといった表情だ。手には買ってきたのだろうか、牛乳パックを持っていた。
「――何か用でも?」
 故意に含みを持たせた言葉をかける。嫌そうに体を引いた彼女に視線を固定しながら、浩輝は開けっ放しの扉を閉じるように言った。

 ――猫に連れられてきたのでしょうか。

 そんな現実味のない事を一瞬考えてた浩輝の視線の先で彼女は猫をみつめる。
 足元の子猫は、がびがびになった毛を頑張って撫で付けているようだった。




 大変不本意な事ながら、東山先生は私と桂木を仲良し――その言葉が空々しい――だと認識しているらしい。
 今日も、突然廊下で呼び止められ怪訝な顔をしているうちに、あっという間に連絡伝達を頼まれてしまった。そして生徒会長への伝言マシーンと化した私は、とっととこの責務を片付けてしまおうと桂木を探していた。桂木のクラスはちらりと眼を通しただけで、彼は目立つからすぐに居ない事は解ったし、生徒会室には居なかったと先生が言っていた。そこで桂木の学校での行動パターンを知っていたわけでもない私は、簡単に行き詰ってしまったのだった。





 見つからなかったら、しょうがないよな。うん。
 かなり投げやりに頼まれごとをほっぽり出そうとした時に、猫が鳴いたのだ。
 猫に眼がなかった私は、きょろきょろと周りを見回してその、愛すべき生き物を探した。愛くるしい猫の写真で軽くご飯三倍はいけます。それくらい好きだ。
「あ」
 開け放たれた窓を通して中庭を除けば、草の上に転がる探し物が二つ。
 猫と桂木。
 まるで絵のように完璧な光景。動き出さなければなお宜しい美しい石像とその枕元に、猫が体を擦り付けるように丸くなっている。猫は灰色の縞々の三毛猫だ。ほえほえしながら、私はその光景を見つめていた。ぼーっと三分ほど経過していてから、はっと正気に戻る。呆けている場合じゃなかった。さっさと用事済ませて帰ろっと。私はちらりと猫に視線を落としてみる。―――ちょっと猫ちゃんかまってから。
「会長、桂木会長! 起きて下さいってば!」
 声を掛けると、桂木はまるで芋虫のようにもぞもぞと体を動かす。
 それに反応してか、猫も釣られて体をよじった。そして眼を少しだけ開けて、また閉じる。……か、可愛い!
 私は人通りが無い事を確認してから、窓の枠に足を掛けた。ちなみにここは一階だし、ちゃんとショートパンツは履いていたからノープロブレム。ひょいと乗り越えて、草の上に着地する。ちょっと足がびりりと痺れたが、少しじっとしていれば直った。近づいてそっと撫でてみると、猫は一瞬びくっとしたが、顎の下をやんわりくすぐる私の手が気持ちよかったのか、ゴロゴロと喉を鳴らした。
 そうして私と猫が戯れていた時、唐突に私の足ががしりと何者かによって掴まれた。
「ギャァァァァァ!!」
 断末魔のような叫びに猫もびっくりして私の手からぱっと逃げた。
 私はぎぎぎ、と油の切れたブリキよろしく、足を掴んでいる長い腕を視線で辿っていく。
 案の定、その持ち主――桂木拓巳は私に驚かせたのが嬉しかったらしく、眠気まなこをこすりながらもにやりと得意そうに眼を細めた。――むかつく。
「……会長、ほんっとに心臓に悪いので止めてください。寿命縮んだらどうしてくれるんですか」
「ふわぁ。この世知辛い世の中、長生きしてもいいことないぞ?」
「すげぇ論点ずらしましたね今」
 私の言葉のジャブをいともたやすく避けて、桂木は立ち上がり、背骨をぱきぱきならしながら伸びをする。相変わらずのマイペースっぷりである。私は多少脱力したが、言葉を返せるようになっただけ確実に順応していっているのだろう。ああ、慣れって凄い。
「『生徒会予算の集計今週末までにはまとめて提出しろ』東山先生からの伝言です。それじゃ、伝えたので失礼します」
「ああ、それは今、眼を血走らせて藤がやっているところだ。――おい待て」
 どうでもいいから離せやコラ。
 と思いながら、改めて掴まれた手に不機嫌な視線を落とす。
 骨ばった男の掌、しかしすべらかな白い象牙には―――赤く生々しい傷跡が三本。
「……会長、それもしかして、引っ掻き傷ですか?」
「その通り。その三毛を木の上から助けてやったら、引っ掛かれたんだ。やはり猫は好かん!犬を見習え!忠犬ハチ公然り、パトラッシュ然りだ! ――む、思い出したらむかむかしてきた! おい猫、三回まわってにゃんと言え! そしたらさっきの無礼も許してやる」
「……もう、どこから突っ込んでいいのか、わからないです」
 どっと疲れて肩を落とした私の横で、無茶苦茶なことを命令された猫はもちろん芸を始める様子も無い。しかし合計四つの視線に見つめらるなか、ころころと転がるように私の元にくると、体をこすり付けるようにしながら、鳴き始める。
「――お腹、すいてるみたいですね」
「何!? 2C、お前猫語がわかるのか?」
「はい実は。――って冗談ですから! そんな期待した目で見ないで下さい! 家で猫飼ってるときがあったから、慣れてるだけです」
 なんだ、という風につまらなさそうに息を吐いた桂木に、本気だったのか。と微妙に恐ろしさを感じながらも、私はさてどうしようか、と考える。もう学食はしまっているだろうし、自動販売機に猫が飲むような飲み物は無かったはずだ。うんうん唸っている私の心を読んでいたかのように、桂木は口を出した。
「俺の牛乳が生徒会室にあるから、飲ませてやれ。因みに俺の直筆サイン入りのやつだ」
「は?」
「お腹がすいてるんだろ? そいつ」
 薄いグリーンの眼はしっかりと猫をとらえ、さっき文句を言っていた桂木がそんな優しさを見せてくれるとは思わなかった私は、ぽかんとしながらも、それはどうも。と曖昧なお礼を述べた。
「某アンパン男みたいに俺の顔はやれないのは残念だがな!」
「……いろんな意味で、ギリギリですねそのネタ」
 想像すると気持ち悪いから、思考をシャットダウンして、私は猫を腕に抱え込んだ。俺の時は引っ掻いたのに、生意気だ! と不満そうに桂木は言った。自分より小さい動物――まぁ、彼にとったら私などもその部類に入れられてしまいそうだが――の扱いに慣れてなさそうな桂木の事だから、どうせ荒く掴んだりしたんだろう。その手に残る傷を見ながら、私は一応注意した。
「あ、会長その傷ちゃんと手当したほうがいいですよ。ばい菌が入るかも」
「そうか―――まぁ」
 ちらりと視線を落として傷を見ていた桂木は、何を思ったのか、手をゆっくりと口元に持っていくと傷を――舐めた。
 ぺろり、と真っ赤な舌が傷を癒すように白磁気の肌の表面をなぞっている。緑色の眼と金色の毛並み。何よりもその動作が酷く獣じみていて、彼はまるで大きな猫のようだった。

「舐めとけば直る」

 にやり、と彼はセクシャルに笑った。
 私は少しの間見とれていた自分に気付き。なんとなく不機嫌になったのだ。
 ―――猫科肉食獣な彼。




 抱き上げた猫を隠すように抱いて、私は生徒会室へと向かっていた。にゃあと子猫が泣き声を上げるたびに、嫌な冷や汗がじわりと滲む。校内に動物を持って入らないこと。という校則は無いけれど先生に見咎められるのは確実だろう。





 生徒会室についてはみたものの、私はあることを思い出して一瞬入るのを躊躇した。桂木によると、峰藤が――目を血走らせて――予算案を仕上げているらしいし、そんな所に猫なんて連れて入ったら何を言われるのか解らない。考えた挙句、生徒会室の隣、いつも自分達が会議を行っている会議室の机の上に子猫を乗っけた。牛乳だけ失敬してこよう。と会議室を出ると、丁度こちらのほうに向かってきていた東山先生に見つかった。会議室から出てきた私に訝しげな表情を見せたが、それより頼んでいた事が気になっていたらしく、桂木に言ってくれたか? と聞いてきた。それに私が頷いてみせると、そうかお疲れさん。と労うような笑顔を見せた。
「本当に、一応、言っただけですけどね」
「あぁ。……まぁ、峰藤には悪ぃが、俺を含め先生一同、あいつのやる気は全然信用してねぇからな」
 みもふたも無い台詞を口に出して、東山先生は苦笑いをする。そしてちょっと職員室来てくれねぇか? と言われたから、私は迷いながらも頷いた。職員室はここからすぐだし、そんなに時間も掛からないだろう。東山先生の遠ざかっていく背中を小走りで追っかけながらも、私は一度だけ会議室のほうを振り向いた。……頼むから良い子にしておいてくれ。

 思っていたより長話になってしまって、私は焦って廊下を小走りで会議室へと向かっていた。手には働いてくれたご褒美だと偶然にも東山先生がくれた牛乳パックが握られている。ようやく着いた会議室は少しだけ扉が開いていたから、ぎくりとした。勢い込んで部屋の中を覗き込んでみると机の上には――いない!
 一体どこに言っちゃったんだろう、もしかして人に見つかっちゃったんだろうか。
 私は焦りの余りおろおろしながら、会議室の中を探し回った。机の下、ロッカーの裏などはちろんの事、ゴミ箱の中までくまなくチェックした。しかし、見つからず。
 どうしよう。
 途方にくれ始めた私の耳に、微かにあの子のものと思われる鳴き声が聞えたような気がした。即座に耳を澄ます。しばらくたってみても、再び鳴き声は聞えてこなかったが、その代わりに低い誰かの話し声がする。どうやら隣の部屋から聞えてくるみたいだ。私はその声の主にすぐに思い当たってしまい、嫌そうに顔を歪めた。――桂木より誰よりも、小動物が似合わなさそうな奴である。
 会議室を何故か忍び足で退室すると、生徒会室の扉が微かに開いているのが見えた。壁に穴があったらつい覗いてしまう人間の本能という奴か、私はその隙間から中の様子を伺った。
 そこに見えたのは、まぎれも無く探していたあの子猫の顔をハンカチで拭く峰藤の姿。その足元にはミルクが入っていたと思われる受け皿をひっくり返したのかちょっとした惨事だ。それよりも私に衝撃を与えたのは、子猫を見つめていた峰藤が苦笑という感じだったが、見たことも無いほど柔らかく表情を緩めていたからである。
 まさか普段あんな無表情なくせに、猫好き? 実は動物には優しいのね、っていうイメージアップ狙ってる? いつも私には意地の悪い笑みしか向けないくせに! ……そうか! 猫好きで人間が嫌いなのか! 道理で!
 ぐるぐると考えては納得して、そのとき私が凄い百面相であった事は間違いないだろう。――兎に角、見ちゃいけないもの見ちゃったよ。私の体からは力が抜けて下ろした拳が、ぶつかったドアを押しやった。その気配に気付いた峰藤がこちらを向いて、その顔からはさっきの微笑みは消え去る。

「――何か用でも?」

 何となく意地悪さが見え隠れしているように思えてしまうのは、私の被害妄想だろうか。私は微かに身じろぎをした。
「できれば扉を閉めて頂けますか?」
 私のほうに視線を投げかけながら峰藤はそう言う。そんな当たり前の言葉までにも「できません」と反発したくなるのは、いつもやり込められている彼に対する条件反射みたいなものだ。むっとしながらも後ろ手で扉を閉めると、猫に視線を落とした。ミルクで塗れた口の周りの毛を撫で付けようと、顔を洗いながら腕を舐めている。
 もしかしなくても、そのミルクを用意したのは峰藤なんだろう。しかもミルクを零した猫の後始末をやっているところは、なんというか非常に違和感を感じる。持ち上げたハンカチは多分、汚れた顔の周りを拭いてやったのに違いないし、あぁ、牛乳拭いた布って臭くなるよね。と、どうでもいい事に思考を脱線させていると、始末をし終わった峰藤が立ち上がり、椅子に腰掛けようとして一瞬思い直したように、そのまま立った姿勢でこちらを見やった。私は峰藤の意味不明な行動に首を傾げたが、私はその視線を真っ向から受け止めた。
「それで。何ですか」
 口火を切ったのは峰藤だ。そのつっけんどんな態度に何故か安心感を覚える。猫好きでほんとは心優しい峰藤なんてホラー過ぎて想像したくない。妙にほっとした表情の私に、今度は峰藤が気味悪く思ったらしい。峰藤は殆どの場合無表情だけど、こういう時にきゅっと眉を顰める癖がある。絶対将来皺ができるよそこ。とは思ったりするのだが、いうと怖いので黙ってる。それに小皺一つを気にしている気にするような峰藤も激しく嫌だ。
「その猫ですけど――」
 そういい掛けて、私は続けるべき言葉に悩む。
 私の猫、ではないし。野良猫を私が勝手に校内に入れたというと、嫌味は覚悟しなければならないし。しばしの間悩んだ挙句、私は顔を上げた。
「――お腹空いてたみたいだから、会長にここでミルクをやれ。と言われたんで」
 嘘はついていない。多少、会長に、の所に力を入れたのは意図的だったけど。そんな思惑もお見通しのようで峰藤は鼻で笑ったけれど予想した嫌味は飛んでこなかった。それより桂木という単語で思い出したらしく、腹立たしそうに舌打ちをした。
「あの阿呆、どこで惰眠を貪っているんですか? この忙しい時に」
「あ、えーと。さっきは中庭で寝てたみたいですけど」
 峰藤の不機嫌そうな声には自分が怒られているわけでもないのにびくついてしまう。悲しきかな条件反射だ。最後のほうを言いにくそうに誤魔化すと、それだけで悟ったらしく、峰藤は灰色のため息をたっぷりと吐き出した。
「――テレビでも見に帰ったのでしょう?」
「完璧に読み切ってますね会長の行動パターン」
 私の言葉に微かな感嘆の色を読み取ってか、まったく嬉しくないですが。とでも言いたげに、峰藤は眉間の皺を深くした。桂木が言っていたみたいに「眼を血走らせて」という形容詞は伊達じゃないようで、峰藤にも疲労の色が微かに見える。いつも隙の無い峰藤だからこそそれは結構深刻だ。そんな事を言うぐらいなら桂木も素直に手伝えば、というかそれが会長である義務であるはずなのに、ゴーイングマイウェイな彼の頭からはそういった意識というものが綺麗さっぱり抜け落ちているらしい。そのとばっちりを一番受けているのは誰でもない峰藤なのに、よく友達続けてるな。時々それが一番の不思議だ。因みにその逆も然り。
 流石に峰藤が気の毒に思えてきて、私は遠慮がちに口を開く。
「私の出来ることなら、お手伝いとか、しますけど……」
「――出来るんですか?」
「私の出来ることなら、って言いました! 無ければいいです!」
 その人を小馬鹿にしたような台詞にムカッとして、跳ねつける様な台詞を吐いてしまう。
「本当に、貴方は短気ですね」
 呆れたような言葉も益々私の癪に障る、何か言い返そうと口を開いた私の鼻先に書類が突きつけられた。
「この表を集計していただけますか?」
「はぁ」
「何ですかその間の抜けた返事は、日本語理解できてますか?」
「はぁい! 聞えてますよっ! アイキャンアンダースタンドジャパニーズですよっ!」
 やけっぱちでそう返事をすると、私は計算機を引っつかんで机に齧りついた。チクショウ眼に物見せてやる……とぶつぶつ呟きながら計算機を叩いていると、峰藤はパソコンのキーを入力しながら「それは是非とも見せて欲しい所ですね」と口八丁で返す。そして子猫のほうに視線を向けてから、しれっと聞えるように呟いた。
「猫の手よりは多少は役に立ちそうですから」
 私はきりりと唇を噛み、計算キーを押す手にも自然と力が入る。――人には全然優しくない奴!
 私が、あの笑みを浮かべている峰藤についぞ気付くことはない。




 結城はふと感じた気配に顔を上げた。
 透明なガラス一枚を隔てた世界は、ようやく夕闇が世界を優しく包み始めている。――今日は、浩輝君と彼女が来そうかな。
 そういう予感は外れた事の無い結城は、にっこりと魅力的な笑みを浮かべると、いそいそと二人それぞれの好物であるお茶を用意し始めた。





 客の訪れを告げる鐘の軽やかな響きとともに、見慣れた制服を纏った二人組み――こう言うと彼女は「お願いだからまとめないで下さい」と懇願するのだが――がHerbstに入ってきた。
 いらっしゃいませ。とウインクしながら冗談交じりに声をかけると、浩輝は微かに表情を緩めて軽く頭を下げる。彼女といえば、いつものように頬を紅潮させながら、元気のいい挨拶をしてくれたから、その初々しさについ笑ってしまった。自分の予感が当たった事を嬉しく思いながらも、出来上がっていたお茶を出すと、彼女は魔法でも見たかのように呆気にとられたから、益々結城は得意になった。こういう顔をしてくれる彼女だからこそ、驚かせたくなるのだ。自分には愛する息子がいたが、可愛い、とは多少言い難いのでこういう素直な反応が新鮮に思える。素直、といえばそうであるが、どっちかといえば図体の大きい息子よりは、女の子の方が見ていて嬉しいのは当然であるから。
 デザートに試作品である林檎とチョコレートのムースを出すと、彼女は嬉しそうに顔を輝かせた。こういう反応が溜まらないんだよねぇ。と親父のような事を考えながらも、結城が浮かべている笑みは柔らかで上品そのものなのが流石である。
 息子の友達である浩輝は甘いものがあまり好きではないし、息子といえば甘いものが大好物だが、甘ければ何でもいいという、なんとも情緒にかけた味覚を持っているので、腕の振るい甲斐もないのである。最近の新作ケーキ試食はもっぱら彼女に頼りきっていて、本人もそれを嬉々としてやってくれるから結城としても凄く助かっているのだ。
「どう? 美味しい?」
「すっごく美味しいです! 林檎の酸味とチョコレートの甘みがマッチして。あぁ、でもほんの気持ちだけ甘み抑えたほうがいいかもしれません」
 ふむ、と考えながら結城は、手元のレシピに「砂糖控えめ」と書き込んだ。そして鉛筆を置くと、にゃあというくぐもった猫の泣き声がした。はた、と彼女が口に運ぶスプーンを止め、気まずそうに忘れていた。と呟き、落ち着いた仕草で紅茶をすすっていた浩輝は、鳥と同じレベルの頭ですから仕方が無いですね。と彼女の神経を逆なでするようなフォローを入れていた。
 浩輝に噛み付きかけた彼女は、結城がぱちくりと瞬きをしているのに気付き申し訳なさそうした後、妙に膨らんでいたトートバックのジッパーを開けた。そこから転がり出てきたのは灰色の三毛猫だ。突然相好を崩した結城に彼女がびっくりしていると、浩輝が呆れた様子で呟いた。
「――本当に可愛いものに目が無いんですね」
「この子どうしたの? 君の猫?」
 でれでれになりながらも、慣れた様子で結城は猫の顎をくすぐった。猫は気持ち良さそうに喉を鳴らし、じゃれ付いてくる。ぼーっとそれを見つめていた彼女がその声に反応して肩を揺らした。
「あ、いえ。偶然、学校で見つけて。飼いたいのは山々なんですけど、前の猫が死んでから母が飼うの嫌がってたのを忘れてて……。実は飼い主を探してるんです」
「うちで飼ってもいいけど、僕は殆ど家を空けてるし、家にいる拓巳も小さな動物の扱いに慣れてないしねぇ。夏休みの朝顔枯らしちゃうような子だから」
 激しく納得して彼女は、どうしよう。と考え込んだ。そんな風に一生懸命になっている姿が可愛いなぁと思う。そう言うと、散々、親父臭いと息子にこき下ろされそうだが。じっと話を聞いていた浩輝が静かな声で提案した。
「この喫茶店に張り紙をさせて貰ったらどうです?」
 内心、彼女もいいアイディアだと表情を明るくしたが、妙な対抗意識から渋い顔でそれを隠した。そんな彼女に結城は思わず噴出しそうになる。浩輝も絶対に気付いているはずなのに知らない振りをしているし、実に良い性格をしていると思う。彼女には悪いけど、今の所、浩輝のほうが何枚も上手のようだ。
「ああうん。いいよ。良い考えだと思う。だけど、飼い主が見つかるまではどこで誰が面倒を見るのかが問題だね」
「私のうちで見てもいいんですけど、情が移っちゃいそうで」
 猫が好きらしい彼女はころころと転がりながら遊んでいる子猫を残念そうに見つめていた。家の人の問題がなければ、自分でも飼いたかった、と顔にはっきりと書いてある。困ったような表情をしている彼女を見ているのは心苦しかったが、結城の胸にはある企み事が浮かんでいた。
「それなら浩輝君に預かってもらうってのは?」
 結城の提案に彼女は勿論の事、浩輝まで何を言い出すのか、と結城の顔を凝視した。
「確か浩輝君のマンション、動物オッケーだったよね? 浩輝君マメだからちゃんと面倒見てくれそうだし」
「駄目です!」
 浩輝が断りの言葉を口に出す前に、彼女が凄い勢いで言った。それに言葉を引っ込めたものの、浩輝の眉がぴくりと動いた所を結城ははっきりと目にした。それにほくそ笑んでから、なるべく無邪気そうな顔をして、結城は首をかしげた。
「何で? いい案だと思うんだけどなぁ」
「子猫って凄い些細な事で、ストレス受けちゃうし。可哀想って言うか。――ああっ、えーっと、副会長が煩わされたら可哀想って意味ですよ、勿論!」
 慌てて誤魔化したが、結城にははっきりと「浩輝の所では猫が可哀想だから」と言っているようにしか聞えなかった。それに人の心の機敏に聡い浩輝が気付かないはずがない。
 子供の頃から浩輝は頭が良い子供だったが、それが「負けず嫌い」からきている並大抵ではない努力によって完璧に後付されている事を結城は良く知っていた。無表情で読みにくいと思われがちな浩輝でも、結城からしてみればただ単に表に出さないようにしているだけで、凄く感情豊かであったし、できないと決め付けられると逆にむきになる天邪鬼のような性格を結城は完璧に把握していた。
 案の定、浩輝は酷く据わった目をしながら、低い声で彼女の言葉を遮った。

「――お引き受けします」
「うえぇ?」
 マジですか? とでも言いたげな情け無い声を上げた彼女を浩輝はぎろりと睨みつけ、お茶の代金を払うと立ち上がった。
「誰かに比べたら、猫のほうが格段に手が掛からないと思いますし、貴方に憐れまれるほど堕ちたつもりはありません――ご馳走様でした」
 そうぴしゃりと言い放ちどこかぎこちない手つきで猫を抱きこむと、唖然としている彼女を尻目に日が落ちた世界へと浩輝は消えていった。――多分、浩輝は、早速本屋にでも行って、猫を飼うハウツー本でも購入するに違いない。
浩輝の暴言に頭から湯気を出している彼女に気付かれないようにこっそり笑うと、結城はもう一つデザートを勧めた。そして心の中でこう呟く。
 ――ほんと、可愛いねぇ。
 結城は可愛いものには目が無いのである。


猫の恩返し


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