三十話 / ミステリアスなフレンド


 読書の秋。
 食欲の秋。
 芸術の秋。

 様々な名称を持っている季節。
 私はそんな秋の特徴である薄い鰯雲を仰ぎ見た。空は透き通るような水色をしていて、ひやりと肌をなぜるような寒さが吐き出す息を白く凍らせる。桂木が「人間蒸気機関車だ!」と言っていたのをふと思い出し、なるほどと呟いた私の口からも白い蒸気がけだるくあがった。
 腕をぶらぶらと振るたびに、厚手の紺色のコートの袖から薄黄色のミトンの手袋が覗く。そして膝丈のスカートにあわせた茶色のブーツが落ち葉を乾いた音で踏みつけた。寒いからタイツを履いた足で、私は秋のファッションショーをしている街路樹のアーチをくぐる。目的地はあと少しで見えてくるだろう中央公園だ。私はそこである人と待ち合わせをしているのだ。
 ちらりとお気に入りのスウォッチに視線を落とすと、待ち合わせまであと三分。
 うわぁ、やばい。ちょっとギリギリかな。
 待たせる事に気を使う相手だったから、私は歩みを速めた。踏んづけた落ち葉の逆襲を受け、転びそうになりながらも、私はようやく公園にたどり着いた。
 貸しボートなどもある湖を中心に自然の木々に囲まれている中央公園は比較的大きく、家族の憩いなどにも利用されている。今日は日曜日の早朝ということで、老人夫婦や子供連れの家族などの姿もちらほらと見えた。
 待ち合わせ場所である大きなイチイの木の下に小走りで近づくと、相手がベンチに腰掛けている姿が目に入った。どたばたと優雅さの欠片もない走り方で近づいた私に気付き、彼はゆったりと顔を上げた。私は手を振りながら声をかける。

「辰さん! 待たせて御免なさい!」
 待ち人を認めて、辰さんは彼の髪の色を反転したような黒い瞳をそっと細め微笑んだ。
 その表情はまさに好々爺と言うに相応しい。
「なんだい嬢ちゃん、息せき切らせて……走ってきたのかい?」
 気にするこっちゃねぇ。男を待たすのも色女の条件よ。と辰さんはかかかと寛大に笑う。そんな彼の前で急ブレーキで立ち止まると、もう一度だけ謝罪の気持ちを込め頭を下げた。しかしすぐにその伊達っぽい台詞に私も釣られるように笑った。
 まったくハイカラで渋いお爺さんなのだ。

 この気風のいいお爺さんは辰さんこと辰之進さん。
 以前、学校で拾った猫の貰い先を探していた時に公園で出会った、言ってしまえば猫好き仲間である。
 生きてきた年月をひしひしと感じさせる見事な白髪を蓄え、そして顔には年輪のように無数の皺が刻まれている。一見、ほのぼのとした好々爺だが、その目は穏かな外見を裏切るかのごとく生命力に満ちていた。妙に時代がかった台詞と雰囲気を持つお爺さんである。渋い色合いの着物を身に纏い、足元は真っ白い足袋に草履を履いている。檜製だと言っていた杖を持っていたが、辰さんの背筋はしゃきっと伸びていて、私は杖がその役目を果たしている所を一度も見たことはない。
 ――職業不明。年齢不明。パワフル爺。そして猫好き。
 私の認識はそんなところである。
 私達はベンチに腰掛けて顔を突き合わせ、猫話に花を咲かせていた。
 私の手には辰さんが奢ってくれた「おしるこ」の缶が握られている。それはほんのりとした暖かさをまとって私の手を温めた。
「それで、どうですか? 虎之進は」
「ああ、元気なもんだ。もうこんなに大きくなりやがってな」
 そう言って辰さんは両手で中くらいの丸を作った。預けた時にはその両手の指先がくっつくぐらいの大きさだったから、子猫の成長速度は侮れない。
 虎之進とはあの時拾われた子猫である。いろんな経緯があって峰藤が一時預かっていたが、辰さんが引き取ってくれると決まってから、私が子猫を引き渡したのだ。
 私が猫を預かる日、峰藤は何故かいつもに輪をかけ不機嫌で一言も喋ろうとはしなかった。やはり峰藤でも寂しいのだろうとちょっと気の毒に思ったから、寂しいんですか? と慰めるように声をかけたら、斬り付けるような視線と言葉のマシンガンで蜂の巣にされた。――人間、図星を指されると怒るものなのだと私はよぉく身をもって知ったのだ。特に素直じゃない人間においては。
 この渋い名前のセレクトは辰さんのお孫さんがつけたらしく、虎のように強くなって欲しい。という雄々しい願いが込められている。――あのぽやんとした顔を思い浮かべると首を傾げざるをえないのだけれど。
 虎之進の成長状況についてや、最近の野良猫事情に心を痛めたり、アメリカンショートヘアも可愛いけれど三毛もたまんない。いやいやアンバランスな魅力の雑種も捨てがたい……と二人で散々論議を交わした時には、手にしていたおしるこは冷たくなっていた。
 からからに乾いた喉に流し込むと、ねっとりとした甘さが絡みつく。顔を顰めた私に辰さんは喉の奥を震わせて笑った。
 そして話題はいつの間にかこの前の体育祭の事や、学校生活のことへと移る。
 辰さんはとても聞き上手で話を引き出すのが巧みだ。そして重みのある言葉をすっと間に挟むから、これこそが年の功なのだと素直に感心させられる。しかしその割には自分の事は語らないから私が辰さんについて知っている事なんて猫の好みぐらいなのである。
 謎は多いが、私はまるで祖父に対するような親近感を抱いているから、こうして会いに来てしまうのだ。毎週、このイチイの木の下に来ているらしい老人は私の癒し系ナンバーツーである。――因みにナンバーワンは言うまでもないのだけれど。

「――もうちょっとで、文化祭があるんですよ」
「へぇ、もうそんな時期かい」
「ええ、体育祭も終わったんで。……秋は何故か行事が多いんですよね」
「スポーツの秋の後には、芸術の秋ってぇところか」
 私がそうですねぇと頷くと、何をやるのかと辰さんは問うた。
「あぁ、えーっと。私のクラスは喫茶店、ですかね」
 口篭った私に、辰さんは瞳を輝かせる。そういう時の辰さんの眼光は鋭くてどきりとしてしまう。隠し事は総て見透かされてそうだからだ。うまく吐かされてしまうのだろうかと身構えていると、辰さんはそうかいと含みのある呟きを漏らしただけだ。
 私達はしばし沈黙し、落ち葉がぱさりと音を立てて地面に着地するのを見つめていた。
 そしてゆっくりと辰さんは立ち上がる。彼は砂を踏みしめながら振り向き、私に柔らかな表情を向けた。
「さて、嬢ちゃんにはわりぃけどな、そろそろ行かなきゃなんねぇ」
 私もつられたように立ち上がってお汁粉の礼を述べた。それに辰さんはいいって事よと手を振る。
踵を返しかけた辰さんは、あぁ、そうそうと何かを思い出したように立ち止まった。――嬢ちゃん知ってるかいと、にやにやした笑みを浮かべながら。

「恋愛の秋、ってのもあったからなぁ。まぁ、がんばりな」

 その渋い背中を呆然と見送りながらも、私は首をかしげた。
 喫茶店をがんばれといわれている風にも取れたが、あの含み笑いがなんとなく引っ掛かる。
 結城さんの事なんて一言も漏らしていないはずなのに。
 ――私の友人、辰さんには本当に謎が多い。



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