その世の駅の幽霊の




 僕は幽霊が見える。
 たとえば、今となりの六番ホームの線路の上でパントマイムをしている、グリーンのニット帽の大学生は幽霊だ。なにしろ、体が透けている。脚も手もあって表情豊かだが宙に浮いていて、まるで無重力であるかのようにすうっと滑って移動するのだ。
 幽霊のくせに階段をのぼるフリをする。物なんて持てないくせに重い物を持つフリをする。無重力のくせに宙返りをして拍手を求めたりする。
 ――ダメだ真人、見ないフリ、見ないフリ!
 自制してみても、目に入ってくるものは入ってくるのである。それが塞ぎこんでる幽霊だとか何となくふらふらしているだけの幽霊ならまだしも、こうして意図を持ってパフォーマンスをされるとどうしてもちらちら見てしまう。そうしてくくっと喉で笑ってしまった途端、
「先輩、何笑ってんスか」
と現実世界の人間に訝しがられてしまうのだ。
「え、あ、なんでもないよ? ちょっと思い出し笑いをね」
 慌てて僕は現実に戻る。
 大学生みたいなふざけたオレンジのセルフレームメガネが僕を見下ろしている。せめて僕みたいな細いシルバーフレームにでもしておけば社会人らしいのにと思いつつ、社則にも載っていないことを強要するほど僕は偏屈じゃないので黙っている。それよりムカツクのは僕より頭一つぶんデカいことだが、それは僕がチビなので仕方ない。兄(ヤツ)と弟(僕)みたいだが、コイツはれっきとした僕の部下だ。入社二ヶ月目、僕の直属の部下になって二週間になる。
 本当に、デカいやつだ。ガタイがいいから肩幅が合って、駅員の制服も似合っている。私服でいるとともすると女の子になりがちな僕とは大違いだ。
「へェ、……思い出し笑い」
 ついでに、ヤツは態度もデカい。研修初日こそいちおう敬語だったものの、気づいたら仕事以外はタメ口にされてしまっていた。
「な、何だよっ」
「大槻先ぱァい、仕事中に余計な妄想したらいけないとおもいまァす」
「うるせぇっ。ほら、あと三分で列車到着すんだからな! 早くリモコン持て」
「へいへい」
 僕らがリモコンと読んでいるのは、一般家庭にあるテレビのリモコンよりはやや大きな機械だ。基本的に「発車しまーす」と声をかけるマイクとして使うが、ホームから発車する際の音楽を鳴らすスイッチがついていたり、緊急停止や業務連絡の機能もついていて、カラオケのマイクよりも重い。僕らはそれを一人一台、腰にくっつけていて、列車がホームに入るたび手に取るのだ。
「まもなく、五番ホームに列車が参りまーす。黄色い線より下がってお待ちくださーい」
 ようやく仕草もこなれてきた紫香楽――後輩のことだ、シガラキ、と読む。性格と同じく漢字も難解なヤツだ――が、俺が合図する直前にリモコンを構えて喋りだした。
 よいことだ、言われる前に行動できるようになったということは。もうラッシュ以外のの時間帯ならば、一人でホームを任せられるだろう。あとは路線と乗り換えと、運賃を覚えれば立派な駅員になれる。
 そんなことを考えながらふと視線を巡らすと、さっきの幽霊が無いリモコンを持っているフリをして、紫香楽のアナウンスを真似していた。幽霊だから声は聞こえないが、その仕草があまりにそっくりで、僕は再び肩をすくめて笑ってしまっていた。
 電車が通り過ぎた後、紫香楽が「また妄想してたんスか先輩」と僕を振り返り、僕がすみませんと謝ったところで、幽霊が楽しそうにあっかんべぇをしてきたので、僕は今度こそ、幽霊を無視することにした。
 ふん、僕たちはこれから改札で切符を切る仕事に入るんだから、そうしたら改札までは着いて来れないだろう。なぁ、ホームに縛られた幽霊さん。





 幽霊というのは、けっこうあちこちにいる。
 たとえば都会の駅なんていうのは人のたまり場だし、人身事故などもあるから成仏できなかった霊がホームに残ってしまったりもする。スーパーマーケットにだっていないとも限らないし、住宅街の道端に浮遊していることだってある。
 かといってどこにでもいるわけでもなく、少なくとも今僕らのいる、この駅事務所の更衣室にはそんなものは一匹たりとも飛んでいない。
「ねぇ先輩。さっき、本当は何見てたんスか?」
 かっちりとした駅員の制服から、ラフなパンツとジャンバーに着替えた紫香楽は、年相応の十八歳に見える。僕を含め、たいていの駅員は大卒だが、紫香楽は高卒で入ってきた。すごい能力を持っているかと思えばそうでもないが、別に学力が低いわけではない。生意気なのはもしかしたら高校気分が抜けていないのかもしれないとは思うけれど、僕以外の上司にはちゃんと敬語を使えるところを見ると、単に僕がナメられているだけなんだろう。
「……え?」
 僕はシャツのボタンをかけていた手を止めて、紫香楽を見上げた。
「大槻先輩、さっきホームで見てたでしょ。何見てたんスか?」
「べ、べつに何も。思い出し笑いだよ、ほら」
「いいんですよ、俺には正直に言って」
 紫香楽がニヤニヤ笑っている。
 もしかして、紫香楽も幽霊が見える体質だったりするんだろうか。僕は小さいころから幽霊が見えていたが、小学校に上がるころには、見えないのが普通だということも理解していた。だから、「見える」と言い張る友人がいたとしても、僕は否定することにしていた。
「いや、通りがかった人がさ。高校のクラスメイトに似てて、しかもヒゲなんか生やしてたから思わず笑っちゃって」
 まるっきりの作り話。紫香楽は胡乱な目で見下ろしてきたが、僕はそれを無視してシャツを着終えた。
「そうスか。じゃー先輩この後、ちょっと付き合ってくれます?」
「どこ行くんだ? 明日も仕事なんだから飲みはイヤだぞ」
「そんなんじゃないスよ。三十分か一時間もあれば終わると思うんで」
「何すんの?」
 紫香楽は何も言わずに笑って、メガネのふちを指で押し上げた。
 僕はそれを横目で見て、かばんの中のメガネケースに、メガネをしまう。
「あ、先輩、メガネはかけていってください」
「紫香楽、僕のは伊達メガネだって前に教えなかったっけ?」
「知ってますけど。素だと子どもっぽく見えるからかけてるんスよね、メガネかけてもカワイイ顔してるのに――」
「うるさいっ」
「いいからそのままで来てください。あ、荷物はロッカーに入れたままでいいです」
「入れたまま? また戻ってくるのか?」
「はい、本当にすぐ済むんで」
 そう言うと、紫香楽はロッカーの鍵をかけた。
 僕も再びメガネを取り出すと、鍵をかけて歩き出す紫香楽についていく。
 ロッカールームを奥に進み、役職持ちの人たちのロッカーの区画を過ぎ、役員室のすぐ手前で、紫香楽は立ち止まった。周りをきょろきょろ見回して、人のいないことを確認すると、ポケットから一つの鍵を取り出す。
「紫香楽、そこ、Privateって書いてあるけど」
 僕は紫香楽のジャンバーの裾を引く。だが紫香楽は「いいんスよ」と笑いながら、やや古ぼけてメッキの剥がれている鍵穴に鍵を差し込んだ。
 手前側にドアが開かれると、一瞬冷たい風が流れてくる。
 紫香楽の横から覗き込むと、中は一畳ほどの空間しかなかった。その狭さはクローゼットのようにも見えるが、ハンガーのひとつもなく、ただ床と壁があるだけだ。
「……プライベート?」
「まぁ、一応そうッスね」
 さっぱりわけのわからない僕を無視して、紫香楽は壁を背にして、そこへ入った。
「紫香楽……?」
「先輩も入ってください」
「は?」
「いいから。入ればとりあえずわかりますから」
 言いながら、紫香楽は三歩前の僕に手招きした。
 ふざけているのだろうと、真っ先に思った。だがドアを片手で押さえて、僕がそこに入るのを待っている紫香楽の表情はひどく真面目だ。
「先輩、早く! 人が来ます!」
 焦る紫香楽の声に、僕は慌ててきょろきょろと周りを見回してしまった。よそ見していた拍子に腕をつかまれて、空間に引き込まれる。
「うわっ」
 僕が声を上げた瞬間に、紫香楽が抑えていた扉から手を離したらしい。
「何すんだよ!」
 叫んだ瞬間に、僕の視界は闇色になった。





 闇はすぐに光へと変わった。
 気づいたら僕と紫香楽は、さっきのPrivateルームの前に並んで立っていた。入ったときと同じ体勢のままで。ただひとつ違うのは、
「……す、す、透けてるっ!?」
 僕は慌てて自分の体をシャツの上から触った。感触は、ある。だが足元を見れば、床が透けて見えるのだ、僕の体ごしに。
「幽霊になっただけッスよ」
 紫香楽が、さっきまでと変わらない口調でつぶやいた。
「……へ?」
 僕はぽかんとして紫香楽を見上げる。紫香楽の頭ごしにも、天井の蛍光灯が透けている。
「幽霊になったんスよ、俺たち」
「ど、どういうことだよ! 死んだのか?!」
「簡単に言うと、幽体離脱スかね。とはいっても、そうッスね、『その世』に入り込んだだけッス」
「『その世』?」
「『この世』が現世、つまり俺たちが普段生活してる世界で、まぁそこから死んだら『あの世』に行きますよね? でもその中間ってのがあって、死んだのに成仏できないで彷徨っている幽霊は、『その世』にいるって決まってるんス」
「じゃあここが、『その世』なのか?」
「さっきからそう言ってるじゃないスか。だからさっき、先輩が見とれてたパントマイムの彼にも会えますよ」
「う……、紫香楽はわかってたのか、僕が幽霊を見てるって」
「ハイ。もちろん会ってすぐはわからないですよ。でも普通の人が見えないところを見てることが何回か続いたら、たいていは『その世』を見てる人だから」
「それで、『その世』に来て何をするんだい?」
「成仏させるに決まってるじゃないスか」
「でも『この世』と『その世』は混じらないんだろう? だったら、放っておいても」
「先輩。先輩は幽霊見えてるんスよね? だったら、気持ち悪いことして見せる幽霊だとか、悪気は無いけど『この世』に干渉しようとして怨波おんぱを発生させてる幽霊だとか、見たことあるでしょう? そして怨波は幽霊の見えない普通の人にも、体調不良なんか
の悪影響を及ぼしてるってことも知ってますよね?」
「……それは、まぁ」
「そういう幽霊を成仏させてやるために俺らはいるんです」
「だったら、何で僕を一緒に連れて来たんだ?」
「決まってるじゃないスか。先輩をこの道に引き込むためッスよ。あ、既にボスの許可は取ってありますんで、『この世』に帰ったら契約書にサインすれば時給二千円で働けます。とりあえず今日は一日体験ってことで、一万円ポッキリですけど」
「ちょ、ちょっと待て。何だその具体的数字は」
「もう先輩がこの仕事やるってことは決まってますから。ま、社会のためだと思って頑張りましょう。んじゃ、行きますよ」



 嬉々としてロッカールームを歩き出した(しかしよく見ると床を歩いているのではなく、微妙に浮いている)紫香楽に付いて歩きながら(いや、浮きながら)、僕はいつどこで間違えたのだろうと考えたが、体が透けると脳みそもスカスカになるのか、いまいち状況を把握できないまま、気づけば僕らは駅のホームに立っていた。

《続》


表紙 - 次項

作者/千草ゆぅ来