幽霊の息の行く先の




 駅のホームには当然のことながら、パントマイムの幽霊がいた。見るたび何かしらおかしなことをやっていたから始終あんな風なのだと思っていたのに、意外にも通り過ぎる電車を見ながらぼんやり立っているだけだった。ひょっとして、僕に見せるためにやっていたのか。幽霊にまでからかわれていると思うと、複雑な気分になった。
「今日はパントマイムの彼にしましょう、先輩」
「へ」
 未だに状況がよく飲み込めていない僕のことなど気にもとめずに、紫香楽はずいずい幽霊に近づく。
「一石二鳥ッスよね」
「何が」
「先輩まだ慣れてないスからこの体のままあんまり遠くに行かない方がいいでしょうし、何より彼に成仏してもらった方が仕事もはかどるでしょ。突然笑い出さなくてすむッスよ」
「う、るさいな」
 紫香楽もあの幽霊を見ていたはずなのに、どうして笑わなかったんだろうとふと思った。
「あ、忘れるとこでした」
 言って、紫香楽は急に立ち止まる。僕は紫香楽の背中に思い切りぶつかって、後ろによろめいた。ぶつかられた紫香楽はびくともしていない。痛む鼻を押さえながら、対抗意識を覚えた。これだからガタイのいい奴は嫌いだ。
「ちょっと、こっちッス」
 なんとも統一性のない行動をする奴だ。
 僕は紫香楽の後から改札機を、本当に文字通り”通り抜けた”。なんの躊躇いもなく改札機をすり抜ける紫香楽を見て、僕は初めて幽霊に……というかそういった体になったのだと感じた。幽霊の僕は自分の体と、同じ状態の紫香楽には触れるけれど、他のものには触れない。この駅にいる誰も僕らのことが見えない。その世とこの世は交わらないのだ、と妙に強く意識した。
 紫香楽の奴は無遠慮に、同じタイミングで反対の方からやって来ていた人を真っ向から通り抜けたが、僕はもちろん人のいない隙を見計らって小走りで通った。
 比較的閑散としていたホームに比べ、構内は人口密度が高かった。そう都会にあるでもない駅なのに、意識してみると意外に人というのはいるものだ。姿のない僕らを避けてくれる人などもちろんおらず、三百六十度から遠慮なく人が向かってくるのには閉口した。前から勢いをゆるめず近づいてくるさまも恐ろしいが、後ろからやって来て自分をすり抜けていくのはもっと気持ちが悪かった。はじめの頃はきょろきょろ辺りを見回しながら避けようと試みていたが、次第に僕も諦めて、紫香楽と同じように歩くようになった。
 そういえばいつか、誰のだったか忘れたけれど、透明人間という小説で、透明になった体を誰も避けてくれないのは神経を削られるだとかなんだか書いてあったけれど、本当に、その通りだ。それでも僕は体がない分まだましだろう。透明人間の彼は、肉体自体はあるのだから、何が何でも避けなければいけないのだ。精神疲労は僕の比ではない。

 辿り着いた先は案内所だった。中に入ると、可愛い笑顔の佐川さんがにこりと笑ってこんにちはと挨拶をくれた。思わず挨拶を返しそうになって、自分に向かってのものではないことに気付く。こ、と言おうとしてぱかっと開いた口を、僕は紫香楽に見られていなければいいなと思いながら閉じた、のに
「ちわッス」
 当の紫香楽は普通に挨拶を返していた。何やってるんだ、こいつ。僕らのことなんて見えていないだろうに。
「大槻さんも、こんにちは」
「え、えっ。こ、こんにちは?」
 情けなく声の裏返ってしまった僕を見て、佐川さんは楽しそうに笑った。
「え、佐川さんが? え? え?」
「紫香楽くん、駄目じゃない。なんにも言ってないの?」
「その方が面白いと思ったんス。佐川さん、大槻先輩のメガネ、あります?」
「もちろん、準備してるわよ。大槻さん、ちょっと待っててくださいね」

「なんだよ、どういうことだよ。なんで佐川さんが」
「佐川さんも、見える人なんス。俺たちと内容は違うけど、やっぱりこっちの仕事してるんスよ。主に、サポートッスね。佐川さんは凄いんスよ。見えるだけじゃなくて、普段からその世のものに触れるんス」
 そういうことは先に言え、と言いかけたとき、佐川さんが戻ってきた。
「はい、大槻さん」
 佐川さんが差し出したのは、僕が今かけているのと全く同じ、細いシルバーフレームのメガネだった。その世のものらしく透けているが、紛うことなく同じだ。どうして、こんなものを。
「ありがとうございまーッス」
「いえいえ。お仕事頑張ってね、紫香楽くん。大槻さんも」
「あ、はい」
 来たときと同じようにひょいと出て行く紫香楽と入れ替わりに、本物のお客さんが入ってきた。僕はまた性懲りもなく体をよじって避ける。佐川さんは笑顔でお客さんに対応していたが、僕の方にちらっと目をくれると、ぱちぱち瞬きをした。慌ててきょろりと振り返ると、紫香楽の姿はもう遙か先で、しかも人に紛れてほとんど見えない。
僕は慌てて紫香楽の後を追いかけた。

「先輩、さっき佐川さんにもらったメガネと今かけてるメガネ、掛け替えてください」
「同じじゃないか」
「見た目はね。全然違うものなんス。絶対、掛け替えるのを忘れちゃ駄目ッスよ。これはすっごく大事なことなんス。このメガネは特別製で、その世とこの世を交わらせない力があるんス。このメガネなしで幽霊の目を見たら、俺たち、その世に引き込まれるかもしれないんです。俺たちの今の状態ってのは、本当に不安定なんスよ」
「ああ……それはわかった、けど。なんで全く同じなんだ」
「生身の体と全く同じ状態じゃないと駄目ッスから。違う格好をすればするほど、肉体と精神が離れちゃうんで」
「そういうもんなのか」
「そういうもんです」
 僕は言われたとおりにメガネを掛け替えた。特になんと言うことはない、掛け心地も視界もいつもと全く同じだ。これではちゃんと注意していないと、掛け替えるのを簡単に忘れてしまいそうだった。
「そういえば、成仏させるって、具体的に何をするんだ」
「捜し物をするんス。幽霊ってのは、だいたい何かに縛り付けられていて、そのものから解放してやると大抵の奴は成仏します」
「大抵の奴は、ってことは、成仏しない奴もいるのか」
「ごくたまに、ッスけど。しぶとい奴がいるんスよ。まあ、そういう場合は俺たちバイトじゃどうにもならないんで、正社員というか、そういう人に知らせるんスけどね」
「解放、ってのは?」
「いろいろッス。まあ、やりゃわかりますよ」
 ずいぶんと適当だなと思ったが、何も言わなかった。何はともあれ、この仕事では紫香楽が僕の先輩なのだし――って。いつの間にか、僕はこの仕事をやる気になっていたらしい。
 それにしても、紫香楽に佐川さんと、知ってみれば意外に幽霊の見える人間というのは多いものだ。生まれてこのかた、同じ血の流れている家族にすらそういった人間はいなかったのに、あれよあれよという間にもう二人だ。単に偶然か、それとも僕が気付かなかっただけなのか。考えるのも面倒だったので、紫香楽のせいにすることにした。紫香楽のせいだ。あれもこれも全部、紫香楽のせい。そう思うと、やけにすっきりした。
 いつか、紫香楽のおかげ、なんて言う日は来るのだろうか。


 パントマイムの幽霊は、僕の姿を見かけてにやりと笑ったが、すぐに不思議そうな顔になった。自分の体を見、紫香楽を見、僕を見る。
「どうしたんだよ、おめーら。死んだのか?」
「違うッスよ。ちょっと幽霊になってるだけッス」
「おい、こら紫香楽」
 いくらなんでも、死人に対してその言い方はないんじゃないのか。ちょっと幽霊になっているだけ、だなんて、洒落にしてもきついだろう。
 けれど当の”幽霊”は大して気にした様子もなく、からからと笑った。ずいぶんとほがらかな幽霊だ。
「なんじゃそりゃ。俺なんか、ちょっとどころかずっと幽霊だっつーのに」
「そう、それッス。俺たち、あんたのことを成仏させに来たんスよ」
「成仏ゥ? そんなもん、できんのか」
「できんのか、……って。じゃあ、しようとしたのか?」
「しようとしたも何も、俺は別に未練も何もないんだよね。なんでこうして幽霊になってこんなホームにいるのか、もうさっぱり」
「なんだ、それ」
 僕と紫香楽は顔を見合わせた。
「おい、話が違うじゃないか」
「うーん。変ッスねえ。この話を切り出すと、俺はまだこの世にいるんだーっとかって騒ぐ奴が大半なんスけど。それを抑えるのも大変なんですけど、これはこれで大問題ッスよね」
「なんだよ、成仏させてくれるんじゃねーのかよ」
「そのつもりなんスけど。なんか、心当たりだけでもないんスか?」
「心当たり、ねえ。うーん、強いて言うなら彼女だけど。でも別に、死んで幽霊になってまで縛ろうなんて思っちゃいないぜ」
「その彼女って?」
「この駅から電車に乗って大学に通ってる。毎朝、毎晩見て――そりゃあ、やっぱり好きだけどさ。本当に、縛ろうなんて思ってねーよ。むしろ俺のことなんか忘れて幸せになってくれりゃ、それが一番いいよ。寂しくないとは言わないけど」
 僕は正直、驚いた。そりゃあもう、心底。
 あんなパントマイムばかりしているから、(決して悪い意味ではないが)今時の若者、という言葉がぴったりはまる奴なんだろうと思い込んでいた。瞳は透けて見えるだけでなく真摯で、どこか古風だ。きっと、誰からも好かれたろう。僕も、この短時間で信じられないほど彼のことが好きになっていた。
 未練を残して幽霊になりそうなタイプじゃない。どんな状況でも、残される人の憂いを思って悲しみ、けれどそれを乗り越えて強く幸せに生きてくれることを信じて、優しく笑んで天に昇っていく、そんな感じがする。
 紫香楽もそう思ったのかどうかはわからないが、考え込んでいた。
「ともかく、その彼女って人に会ってみるのがいいんじゃないか、と思うッス。こういうケース、話には聞いてたッスけど……」
「なんか悪いな、迷惑掛けちゃって」
「いやいや。俺、あんたのこと、何が何でも成仏させてやろうと思うッス」
「俺は今も結構気に入ってるけどな。えーと、名前なんだっけ、そっちの、小さいアンタさ」
「大槻先輩ッス。俺は紫香楽」
「大槻さんの反応見るのも楽しいし。まあ、誰とも話できないってのがつまんないけど」
 幽霊でいる、というのはどういう気分なのだろうと思った。誰にも気付かれず、誰とも視線を合わせず、ただずっとそこにいて、何かを思う。永遠とも思える時間を。たくさんの人々が行き交う駅で、何を思いながら過ごしていたのだろう。僕をからかって遊ぶ時間なんて、ほんの些細なかけらだ。膨大な時間のほとんどを、彼は一人っきりで過ごしてきた。人。笑い通しの女子高生、しわの寄った新聞を読むサラリーマン、山のような荷物を抱えた主婦、好きな彼女。見るだけ、見ているだけだ。
 透明人間にも最後は彼女が現れた。彼はそれすらも叶わない。
 その世で彷徨う数知れない幽霊を思った。誰もがきっとひとりきりで、海のような時間を泳いでいる。
「僕も、君を成仏させるのに全力を尽くすよ」
「なんだ。いい奴だなぁ、お前ら。俺、和田直哉ってんだ」
 パントマイム幽霊、和田を見ながら、僕は決意が固まっていくのを感じた。

《続》


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作者/しきみ