入学式




――それは、銀縁の眼鏡をかけなおす、長くて綺麗な細い指先。





 自室にある鏡の前で、少女は襟元のネクタイをぎゅっと結ぶ。
 ピシッとアイロンがかかった真新しいネクタイが、緊張した面持ちをした少女の襟元を飾る。
 仕上がりを確認するために一度だけ袖を通したグレーのブレザーを羽織って、少女は小さく息を吐く。
「よしっ! 完璧っ」
 目の前には、真新しい制服を着たどこにでもいるごくごく普通の新高校一年生が映っている。
 ひざ上のプリーツスカートは黒に近いダークグレーのタータンチェック。
 羽織ったブレザーは無地でスカートより少しだけ薄めのグレー。
 襟元を飾るのは、スカートと同じダークグレーのネクタイ。
 緊張した面持ちは、少しまじめそうな印象を受けるおとなしそうな雰囲気を醸し出している。
 丸顔の中には奥二重の瞳と小作りな鼻、そして人より少しだけ薄いくちびるを持つ口が規則正しく並んでいる。
 高校一年生女子の標準身長に標準体重、肩で切りそろえられた髪は色も質感もいじっていないまっすぐなストレートヘアー。
 いわゆる『十人並み』という単語を地で行く少女が鏡の中で笑顔を作っている。
「うん。なかなか似合うじゃん」
 憧れの高校の制服に身を包んだ少女は独り言にしては少々大きな声でそう言って、用意していた学校指定かばんを手に取る。
「……一応持っていっとこうかな」
 そう小さく呟いてから、勉強机の上に取り残されたようにぽつんと置かれている黒色の眼鏡ケースを手に、かばんを開ける。
 ズシリと重い質感を持つそれは、少女が持つには少々地味な代物だ。
 口を開けた真新しいかばんの中にその眼鏡ケースを滑り込ませてから、少女は自室のドアを開ける。
 と、同時に少女を呼ぶ声が家中に響き渡る。
「加奈ーっ!! いー加減に起きなさーいっ!!」
「はいはいはーいっ! 起きてるってばっ」
 リビングから聞こえてくる母親の大声に負けず劣らず声を張り上げて返事をしつつ、少女はかばんを手に自室のドアを閉めた。





「加奈ーっ! おっはよーっ」
 桜舞う四月八日。見上げた空にはぷかぷかと白い雲が浮かんでいて、頬をなでる風には気持ちいい春のにおいを感じることができる。
 体中で新しい春を感じることができるような、絶好の入学式日和だ。
「南ちゃん!」
 入学式を終えた新一年生は、それぞれの教室へと移動をはじめていた。
 その集団の中にいた上原加奈は、自分を呼ぶ聞きなれた声に後ろを振り向く。
 新一年生の集団の間から駆け寄ってくるのは、幼馴染の相良南だ。
「同じクラスだったねーっ!」
「うんうんっ。ほんっとよかったぁ」
 先ほど確認したクラス分け一覧表を思い出して、加奈は心底安心したような表情を浮かべる。
 人見知りが激しい加奈にとって、高校一年生でのクラス分けは重要な意味を持っている。
 これから過ごす高校生活が楽しいか否かがここで決まるといっても過言ではないのだ。
 そのクラス分けで、幼馴染で友達作りが上手い南と一緒のクラスになれたというのは、加奈にとっては入学早々非常にラッキーなことである。
「見た見た? うちのクラスで私たちと同じ中学出身って例の彼だけみたいね」
「え? 例の彼?」
 むふふーと笑う南の言葉に、加奈は首を傾げつつ足を進める。
 式を終えた体育館から一年生の校舎までは細長い渡り廊下でつながっている。
 その渡り廊下に面した中庭には、手入れの行き届いた日本庭園が重厚な雰囲気を醸し出している。
 はらはらと舞い散る桜の花びらが、風に乗って加奈の目の前を横切っていく。
 それは、優しい春の光景。
「あー。加奈は中三んとき八組だったから知らないかなー。一組のうわさの秀才君」
「一組? うーん知らないなぁ。校舎違うかったし」
 きょとんとした表情の加奈に、にやりと目を細めて南は声を潜める。
「滑り止めの私学入試の時にインフルエンザになっちゃって。で、公立のランクを三つ落としてここに入ったらしいわよ」
「うっわー……。それはまた、お気の毒だねー」
「でしょ? だから『うわさの秀才君』」
 加奈たちの中学校は、公立高校受験の際に滑り止めとして私立高校の合格通知を持っておく必要がある。
 万が一滑り止めの私立高校を受験できなかったり落ちてしまった生徒は、公立高校のランクを当初の目標校から大幅に下げなければならないのだ。
 高校浪人を出さないための中学校教師の苦肉の策というものであろう。
「あたしはこの学校好きなんだけど……やっぱりランクとか気にする人はあんまりなのかなぁ?」
「どーなんだろうね。別にすっごく悪いわけじゃないけど、いい大学目指すにはちょっと厳しいもんがあるんじゃない?」
 加奈の言葉に『私だって好きよ』と付け加えてから、少し大人びた口調で南は言葉を付け加える。
 そんな南の言葉に頷きつつ、加奈はふと前方を歩く教師陣の集団に目を留める。
 ずんぐりむっくりとした年配の教師たちの間に、スラリとした長身に黒のスーツを着こなした銀縁眼鏡の男性が混じっている。
 その後姿は、なぜかすごく懐かしい情景。
 記憶の中にある、大切な思い出の少年。
「あーっ!! ねぇねぇ加奈っ! あのセンセーすっごくかっこよくないっ?!」
 何気なく加奈の視線の先を追った南が、長身の男性を目ざとく見つけて加奈の腕をぐいっと引っ張る。
「えっ? あ、そうだねー」
「うんうんっ! 横顔だけだけど、あれはぜぇーったいにカッコイイってっ! うっわーっ。私たちのクラス担任ならいいのになーっ」
 確かに、ちらりと見える横顔は『カッコいい男性』に分類されそうな二枚目である。
 切れ長の瞳にすっと通った高い鼻。少し冷たい印象を与える薄い唇が隣の年配教師に向かって何かを話し掛け、笑っている。
 その笑みは、微笑というよりは冷笑。
 何処となく冷たい印象を与える皮肉な表情だ。
 後姿に懐かしさを感じていた加奈は、その冷たそうな横顔に懐かしい気持ちが一気にしぼんでいくのを感じた。
「あ。そういえば、加奈の初恋の彼ってあんな感じじゃないの?」
 ぼんやりと男性を見ていた加奈の隣で、思い出したように南は加奈に話を振る。
 それは、加奈にとってキラキラ輝く宝石のような思い出。
 記憶の一番奥にしまってある、大切な大切な初恋の人。
 舞い散る桜の花びら。
 走り去る普通電車。
 ずれた眼鏡を上げる細長い指先――。
「えー……。そっかなぁ」
 南の言葉に小さく首を傾げつつ、加奈は前方を歩く銀縁眼鏡の男を眺める。
 思い出の『お兄さん』は、もっと優しい雰囲気をもっていたような気がするのだが。
「小学生の時だっけ? 駅のホームで声をかけてくれたお兄さん」
「うん。一年生のときね」
 南の言葉に頷きつつ、加奈は十年前の出来事を思い出す。
 母親とはぐれてしまった見知らぬ駅のホーム。
 寂しくて不安でたまらなかった加奈に手を差し伸べてくれた眼鏡をかけた高校生の男の子。
 今日、加奈が入学した学校の制服を着ていた少年が忘れていった黒い眼鏡ケース。
「加奈が一年生の時に高校生だったんでしょ? ってことは、今二十代後半かぁ」
 ふむふむとうなずいていた南は、隣にいる加奈と前方を歩く銀縁眼鏡男性を見比べてにやりと笑う。
「じゃぁ、やっぱりそうかもねーっ。年齢的にちょうどっぽいし」
「えー。違うって。あのお兄さんはもっと優しいかんじだったもん」
 南の言葉に思いっきり否定の意をこめて、手と首をぶんぶんと横に振ると――。
「おわっ」
「えっ?!」
 大げさに振った加奈の手が、人ごみの中加奈たちの横をすり抜けようとした学ラン姿の少年の頬に見事にヒットした。
 無意識とはいえ、見知らぬ男の子の顔を思いっきりひっぱたいてしまった加奈は、大慌てで平手打ちしてしまった相手に向かって頭を下げる。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
 返事が無いので恐る恐る顔を上げると、黒ぶち眼鏡をかけたいかにも勉強ができそうな小柄な少年が左手を頬に置いた状態で顔をしかめて立っていた。
 加奈と視線がほぼ同じだということは、高校生男子にしては非常に小柄、ということになるだろう。
 おそらく、身長百六十五センチ未満。
「あ、ああ」
 驚いた表情のまま自分の頬を思いっきりひっぱたいた少女を見ていた少年は、加奈の言葉に気の無い相槌を打ちつつその場を去る。
「うっわー。痛かったかなぁ?」
「っていうか、今の彼だよ? 一組の秀才こと同じクラスの遠藤君」
「へ?!」
 恥ずかしいなーと呟いていた加奈の隣で、去っていく後姿を目で追いながら、南が驚くべき発言を口にする。
「賢そうな子でしょー?」
「っていうか……。これから一年同じクラスなのにしょっぱなから変な印象を与えちゃったんじゃ」
「大丈夫だよー。だって、彼、人間に興味ないらしいから」
「え?」
「一組の友達が言ってたもん。基本的に誰ともそんなにしゃべんないんだってー。一人で黙々と勉強してるらしいよ。ちょっと変わり者?」
 声を潜めてそう言ってから、南はE組の教室の中に入っていく。
「みっ……南ちゃんっ! ちょっと待ってよーっ」
 南の最後の言葉を脳内で整理しつつ、加奈は慌てて教室の中に入っていった。

《続》


表紙 - 次項

作者/真冬