天才と凡人と僕の舟




 天才に必要なものはわずかな才能と努力と、多くの睡眠である。
 と、天才・遠藤恵一は言った。
 なんのことはない、ただの同級生の言である。
「それならあたしも天才になれるよねー?」
と下校途中の世間話でそんな流れになったときに加奈は言ったが、親友であるはずの南はおもむろにため息をついた。
「加奈にはそもそも『才能』の部分がない」
「うわ南ちゃんひどっ」
 泣きまねをしたところで南に通じるはずもなく、加奈はふてくされた表情で顔をあげた。
「それより私はあの人間嫌いの秀才君からそんな台詞を引き出せたあんたの方が驚きよ」
 人懐っこく、顔も広い南にそう言われると少しうれしくなる。
「別に遠藤君は人間嫌いじゃないと思うよ。ただいつも寝てるから」
 出席番号順に座っていても異性交遊が発達しないだろう、とかいう担任の配慮で(余計なお世話だ、クソババァ……おっと、口が滑っちゃったby南)、入学して一週間目で加奈たちのクラスは席替えをされ、気づいたら彼が隣に座っていたのだ。噂の、秀才君。
 南の話を聞いていたから興味は持っていたものの、人見知りの性格がわざわいして、最初の三日間は一言も話さなかった。
 その間に、前の席の女の子とたまたまキャラクターの趣味が合って仲良くなることができ、その流れで前後と右の子とは他愛ないことで話せるようになったのだが、左に座る彼とだけは、話すチャンスをつかめない。
 だが、このチャンスをつかめない、というのは加奈のせいではないのだ。
 なにしろ、秀才・遠藤君は、寝てばかりいる。
 授業中はひたすら座った体勢で寝る。突っ伏しているわけでもないので一見わからないのだが、よく見れば黒縁眼鏡の奥の瞳は閉じられたままだし、ノートの上にあるドーター・グリップを持った手も授業開始時からぴくりとも動いていない。
 だから授業中に「ねぇ今先生なんて言った?」なんて訊こうとしても、まったく無理なのである。
 かと思えば、授業が終わるチャイムと同時に起き出し、どうして覚えているのか宿題を始める。おそらくこのあたりが、「一人で黙々と勉強している変わり者の秀才」の出所なのだろうが、そんな噂を流した人は、彼がひたっすら授業中に寝ていることを知らなかったのだろうか。確かにワークブックの問題を解くスピードはものすごく早い。シャープペンシルが止まらないところを見ると、考えるスピードが筆速に追いついているか、それよりも早いのかもしれない。
 そんなわけで、変わり者の遠藤君と話す機会はまったくなかったわけだが、席替えをして一週間、ようやく運命のチャンスは巡ってきた。
 その日六時間目の授業が終わり、あとは帰りのHRを待つだけだったのだが、なぜか担任が時間になっても来ず、クラス中が妙に浮ついていた。加奈も前の席のひろかと変だねぇと喋っていたが、そのときふと隣の席を見ると、
「ひ、ひろかちゃん……! 遠藤君が勉強してない!」
 もちろん加奈的には小声で言ったつもりだったのだが、ひろかは人差し指を唇にあてた。
 それから二人でちらりと見やる。
 遠藤はふだん授業中に取っている、寝ていないように見える、通称・狸寝入り逆バージョン(ひろかと加奈で名づけた)の姿勢で座っていたが、よくみると目がぱっちり開かれていた。成長しきっていない少年特有の、丸い瞳のまつげをパチパチさせて。
 どうやら勉強道具は既に黒いカバンにしまってしまった後のようだから、それを出すのも面倒だったのかもしれない。それに今勉強を開始しても、担任が来ればもうあとは帰るだけだから、手間になると考えたのだろう。
 話題に飢えていた加奈たちが、そんな場面に飛びつかないわけがなかった。しかもひろかは、可愛い丸顔に似合わず好奇心旺盛だ。まずひろかが、
「遠藤君」
 と話しかけた。彼がゆっくりこちらを向く。
 そこには不機嫌さもなければ、笑顔もなかった。無表情は、たしかに「人間に興味がない」ようにも見えた。どうやらあの、衝撃の出会い(そもそも「衝撃」を与えたのは加奈のほうだが)の驚いた顔は、特別だったらしい。
「何」
 声もまた一本調子で、面白みがなかった。
「いっつも遠藤君ってひとりでいるから、話しかけてみただけ」
 ひろかは可愛らしい調子で、女の子らしいの笑顔を浮かべている。つられるように加奈も笑顔を作り、
「遠藤君って秀才なんだって?」
と自分の知る遠藤情報を話してみた。
 ひろかが横で「えっ」という顔をしたことには気づかない。初めて声をかけるということで緊張していたからだ。
 だがとりたて、遠藤はいぶかしむこともなく、例の台詞を言ったのだ。いわく、
「『天才に必要なものはわずかな才能と努力と、多くの睡眠である』、か」
 バス停で重いカバンをスカートの前で揺らしながら、空を見上げて南はその台詞を復唱した。
「どのくらいの割合でそうなのか、私も知りたいよ」
「それはね、才能が一パーセントで努力が五パーセント、あとの九十四パーセントが睡眠だって」
「なに? 加奈ってば、そんなことも遠藤君に聞いたの?」
「ううん、ひろかちゃんが」
「ひろかなら納得。それにしてもそんなに寝ててあんなに頭いいなんて反則だよねー」
「睡眠学習かなー」
「加奈、それもう古いから」
 けらけらと南は笑って、今度は自分の席の周りのことを話し始めた。加奈はそれに相槌を打ちながら、少し幸せな気分になる。
 席が離れてしまったけれど、お互いに新しい友達もできて、でも今までの友情が崩れることもなく続いている。新しい高校生活も、悪くない。っていうか、むしろ楽しいかも!





 そんなある日のこと。
 日直に当たった加奈は、その日の提出物が化学のノートであることに浮かれていた。
 化学という教科が好きなわけではない。水平リーベ僕の舟がどーしたって感じである。水兵の漢字をまちがえていることも今のところ気にしない。
 そうじゃなくて、化学は、教科担任が素敵なのである。とにかく。あの。
 細い銀縁の眼鏡と理知的な瞳、上品な仕草と、それらに似合わない、薬品でところどころ変色した白衣。そのギャップが適度なエッセンスとなって、この年頃の少女たちの女心をくすぐるらしい。
 南などはクラスの女子の間で持ち上がっている「里見先生ファンクラブ」に所属しているといってはばからない。加奈も強制参加させられているようである。
 加奈も里見先生のことは素敵だとは思うものの、初恋の人と似ているようで似ていないというびみょうな位置にいるため、他の女の子たちのようにキャーキャー騒ぐ気にはなれなかった。それでも先生がクールでカッコイイのは本当だし、みんなに日直をうらやましがられると、少しはいい気分になるというもんである。
 日直の相方のひろかが、もうひとつの提出物である数学のノートを持っていくことになったので、加奈は放課後、まっすぐ帰るつもりでカバンを肩にかけて、ノートを両手に抱えた。
 放課後の廊下は、帰りたがらない生徒たちで溢れていて、積んだノートで前が見えにくいとかなり歩きにくい。それでもようやく化学準備室にたどり着いて、手がふさがっているため肘で鈍いノックをした。
「はい、どーぞ」
「先生っ、ノート持ってきましたーっ」
「おう、ありがとう」
 ドアの手前で叫ぶと、中から明るいトーンの声がして、秀麗な顔立ちをした青年が現れた――だったらよかったのだが、なぜか声の持ち主とドアを開けた人物は別だった。
「え、遠藤君……?」
 数十分前に教室で合わせていた仏頂面がそこには立っていた。遠藤は無言で加奈の腕の中のノートを取り上げると、里見の机の上に置く。
「あ、ありがとう」
 礼を言っても、遠藤はいつものように軽く目礼しただけで、すぐに視線を里見の方に戻す。どうやら机の上に広げられている教科書と参考書を見る限り、遠藤は里見先生に質問をしに来たらしい。
「ご苦労様。ところで高山さん、高山さんのノートがここにないけど……?」
 加奈が遠藤の所在について考えている間に、持ってきたノートをぱらぱらめくっていた里見が、ふと顔を上げて言う。
「あーっ、うそっ。すみませんっ」
 肩にかけていたカバンを慌てて床に下ろして、加奈は雑多に入っている教科書類の中からノートを探した。一対の目が、そのカバンの中身に注がれているとも知らず。
「あ、ありましたっ」
「……あ、うん、よかったね」
「それじゃ、失礼しますっ」
「気をつけて」
 顔を上げた途端に遠藤の「ハヤクカエレ」視線にぶつかり、加奈はすごすごと荷物を纏めて退室する。
 だから、閉められたドアの向こうで、里見が深いため息とともに眼鏡を上げた仕草も、首をかしげた遠藤をも、加奈は見ることはなかったのだった。

《続》


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作者/千草 ゆぅ来