お兄さんとかなちゃんの微妙な関係




 冷たい硝子越しの瞳がじっと加奈を見つめている。重苦しい沈黙に耐えるのは五分が限界だった。加奈は観念 してバックの中のものをのろのろと机の上に並べていく。教科書、ノート、筆記用具、メモ帳、鏡とくし、制汗スプレー、南に貸していたマンガ、そして黒い眼鏡ケース。最後に問題のウォークマンを取り出す時になって、加奈はちらりと里見のほうに視線をやった。ぴくりとも動かない里見の表情に、渋々と加奈はウォークマンを出した。
「ウォークマン、ね」
 加奈はぽつりと呟いた里見の様子を伺うが、そこには何の表情も浮かんでいない。
「やっぱり没収、ですか?」
「――これ」
 里見は加奈の眼鏡ケースを手に取った。加奈はさっと青くなり、眼鏡ケースは禁止されて無かったということも頭からふっとんでいた。
「返してくださいっ!」
 加奈が身体を乗り出して取り返そうとすると、里見は加奈の鼻柱を掌で押さえつけた。まるで動物かなにかに対するような態度に加奈は目を白黒させる。それでも必死に加奈は食い下がった。
「高山さん、落ち着きなさい。それにこれは元はといえば――僕のものだから」
「何言ってるんですか! それはお兄さんが忘れていったのを私が拾っ――えーっと、今、なんて?」
 耳に入った言葉を頭で理解するまでにはしばらくの時間を要した。呆然としている加奈の顔から手をどかすと、里見はにっこりとうそ臭い笑顔でのたまった。
「こういえば良いかな――久しぶり”かなちゃん”」
 そして保健室には女子生徒の絹を裂くような悲鳴が響き渡った。


「加奈って、里見先生のお気に入りなの?」
 球技大会を前日に控えた昼休み、一緒に昼ごはんを食べていた南がさらりと爆弾を落とした。
「……ただ単にこき使われてるだけだよ」
 加奈はうんざりしながらため息と共に返答する。あの日、ウォークマンの事を黙っている代わりに里見はひとつ条件を出したのだ。それは『化学係になり、自分を手伝う事』。
 やりたい子は他に沢山いるはずだと加奈は言ったが、里見曰く「僕が目当ての生徒は役に立たないから却下」らしい――その時の鼻で笑うような態度を夢見ている女生徒達にみせてあげたい。正体みたりってかんじだ。
 ウォークマンは数ヶ月の小遣いをこつこつと貯めて購入した最新のもので、没収されたら返ってくるかも定かではない。加奈は深々と頷きながら出そうになる言葉を飲み込んだ。
 先生、それは俗に言う脅迫というものじゃないですか、と。
 思った以上に、里見の手伝いは大変で、里見の性格も悪かった。資料を図書館から借りてきたり、ノートを集めるのは日直から係である加奈の仕事になったし、埃っぽい化学準備室の掃除の際には丁寧に扱わないと爆発するぞと散々脅かされた。まだたった三日だというのに、加奈は精神的にもぐったりと疲れきっている。そんな所に南のこの言葉だ。肩を落としている加奈に、南は探るような視線を送った。
「私のほうが先に目付けてたのに、知らないうちに係になるなんてずるい!」
「……事情は話したじゃない。ウォークマンを人質にとられたって」
「まぁ、それはそうだけど。なんで急に持ち物検査なんてやったんだろうね里見先生。加奈がヤバイもんでも持ってると思ったんじゃないの?」
 南には初恋のお兄さんが里見だったと言う事は黙っていた。自分で言ってしまったが最後、それが現実になってしまう気がしたからだ。あれは断じてお兄さんじゃない! あるわけがない! と加奈は自分に言い聞かせていた。あの優しかったお兄さんがあんなに意地悪な人になる筈がないのである――多分。
「化学係ー! 里見が呼んでるぞー!」
 クラスメイトが加奈にとってありがたくもなんとも無い知らせを運んでくる。ひとつため息を付くと加奈は席をたった。ちくちくと刺さる妬みの視線を感じながら加奈は教室を出る。そして意地悪化学教師が待つ化学準備室を目指した。


 突き指が理由で加奈は試合には参加する事ができず審判をすることになったのだが、球技大会は良い天候に恵まれた。南率いるバレー組は、一回戦の強敵を僅差で破り、決勝まで進んだものの、最後の最後で負けてしまった。南は悔しそうだったが、力を出し切れた事に満足したのか、どこか清々しい顔をしていた。
 バレーの試合結果を報告しにきたら、バスケットの審判をしていた遠藤の姿が見えた。遠藤は水性のマジックの蓋を外すと、白いホワイトボードに結果を記している。どうやら加奈のクラスのバスケット組が決勝に進んだようだ。
「あ! やった!遠藤君、手、出して!」
 首を傾げながらも遠藤は素直に手を出した。テンションの高くなった加奈は飛び跳ねながら、遠藤の掌に自分のそれをぽんと軽くあわせる。どこか吃驚しているような遠藤を尻目に加奈が喜びを分かち合っていると、揶揄を含む声が背中にかかった。
「高山さん、雨乞いでもしてるの」
「……里見先生。終わったんですか?」
「ああ」
 髪をかきあげながら里見は気だるそうに頷く。彼はいつもの白衣ではなくジャージに首には真っ赤な鉢巻を締めていたが、憎らしい事に美形は何を着ても似合うという法則をきっちり証明していた。その表情が疲れている理由を加奈はすぐに察した。
 今年の教職員の競技は”玉入れ”で、それも校長や教頭が背中に籠を背負って、それに向かって玉を投げるのである。管理職に対する鬱憤晴らしじゃないのか、と生徒間ではまことしやかに噂されていたが、それでもおおいに盛り上がったのだから、余興としては成功したのだろう。
「もう決勝?」
「うちのクラス、バスケットの決勝出るんですよ!」
「へぇ、凄い凄い」
 里見は緩やかに微笑んだが、それは彼が人を上手くあしらう時の笑顔である。
「何でそんなに投げやりなんですか」
 ぶすくれた加奈の頭をぽんぽんと里見は叩いた。まるっきり子供に対する態度である。
「……気安く叩かないで下さいよ。もう小学生じゃないんです」
「はいはい。それより高山さん。怪我は大丈夫?」
「あ、え。はい」
 唐突な問いに戸惑ったが、加奈は素直に頷き、指を突き出す。
「よろしい。だけど無理は禁物だ。重いものは遠藤、持ってやるように」
「はい」
「……自分だってノートとか持たせてたくせに」
「僕はいいんだ。教師だから」
「おうぼうです」
 くつくつと喉を震わせながら里見が笑った。軽く手を上げて去っていく背中に加奈はべーっと舌を出す。すると背中に目でもあるかのように里見はタイミングよく振り返ったから、加奈は大慌てであさっての方向を向いた。はじけるような笑い声が風に乗って聞こえてくる。完璧に遊ばれている事が悔しくて加奈はコンクリートを軽く蹴っ飛ばした――結局は足が痺れただけだったが。
 痛みにうずくまっていた加奈は一対の瞳が自分を見つめていることにも気付かなかったし、何気なくされた質問は不意打ちだった。
「里見って高山が好きなのか」
「え?」
 その理由を三十文字以内に簡潔に述べよ、と切り替えしとけば遠藤は素晴らしく理論的な答えをくれたのだろう。しかしその時の加奈は呆気にとられて否定することが出来なかった。何を考えているのか解らない遠藤は言いたい事を言うと、さっさと決勝が行われる体育館へ向かう。加奈もそれを追いかけた。
 体育館の中に入れば、むんと熱気で息苦しくなった。まわりをぐるりと取り囲むギャラリーががんがんと殻のペットボトルを叩きながら応援しているから非常に煩い。バスケットの決勝はもうすでに始まっていた。審判の癖に遅れてきた遠藤は同じ審判の子に何か文句を言われているみたいだったが、その表情にまったくこたえたところはない。前に背の高い男子生徒が立っていたから、加奈は背伸びをしながら試合の様子を伺った。クラスで見たことのある顔が、声を張り上げながらオレンジ色のバスケットボールを追いかけている。スピーディな試合で攻守が頻繁に切り替わっていた。
 そんなとき、ボールを追っかけてきた選手がこっちに突っ込んできた。前にいた男の子がぶつかられた拍子にバランスを崩し、加奈のほうへと倒れてくる。背伸びをしていた加奈がその身体を支えられるはずがなく、男子生徒の体重がたされた衝撃で加奈は背中から体育館の床に叩きつけられた。一瞬息が止まるかと思うほどの痛みに立ち上がれないでいると、誰かの怒鳴り声が聞こえ、それを聞きながら加奈は気を失った。


 ぼんやりとしていた視界がクリアになっていき、気付けば加奈は白いベットに寝かされていた。どうやら保健室に寝ていたらしい。蛍光灯の光が妙に眼に眩しい。今は何時だろうと加奈は身体を起こした。
「起きたか? 開けるぞ」
 カーテン越しにトーンの低い声が聞こえてきた。そして一言断ってから顔を覗かせたのは里見だ。目覚めた加奈に視線をやると里見は傍に寄せた椅子に腰掛けた。
「気分はどう? 頭とか痛い所はない?」
「先生……私、どうなったんですか?」
「倒れてきた男子生徒の下敷きになって後頭部を強打。軽い脳震盪を起こしてた」
 そういえば前にいたのは身長の高い男子生徒だった。そのまま伸びてしまっていたらしい。体育館で眼を回している自分を想像すると恥ずかしさの余り加奈は穴に入りたくなった。すると気を失った自分がどうやってここまで来れたのだろうという疑問が湧いてくる。
「まさか、先生が体育館から私を運んでくれたってことは、ないですよね」
 おそるおそると否定を望む加奈の問いに、里見はにやりと笑った。加奈をからかう時の表情である。
「そのまさかで悪かったね――それとも高山さんはあのまま放置して欲しかった?」
 加奈はぶるぶると横に首を振って否定した。加奈がお礼の言葉をお経のように何十回か繰り返した所で里見は立ち上がる。
「そろそろ帰ろうか」
「え?」
 加奈が首を傾げると、里見はその鈍い反応に呆れたようだ。
「僕が車で送ってあげるから、外に出て」
「えーっと、遠慮し」
「まだぐだぐだ言うようなら、ひきずってでも連れて行く」
「はいぃ!」
 飛び上がって言った加奈をいい返事だと里見は褒めたが、ぜんっぜん嬉しくなかったのは秘密である。


 里見の車の助手席から加奈はじっと運転する里見の横顔を見つめていた。加奈はそこに初恋のお兄さんとの共通点を探していた。眼鏡という特徴を除くと、里見は真逆に位置しているといっても過言ではない。すると加奈の視線に気付いたのか、里見は前を向いたまま声を出した。
「さっきから何か僕の顔にでも付いてる?」
「あ、いえ! あの、えっと。バスケット、どっちが勝ったのかなぁ、なんて」
 加奈はまったく関係のないことで誤魔化した。すると里見は深いため息を付きながらも結果を教えてくれた。どうやら見事、加奈のクラスが優勝したらしい。
「わ! 本当ですか! やったぁ……いたた」
 助手席で喜びの声を上げると、ずきんと後頭部が痛んだ。まだあまり本調子ではないらしい。里見は冷たい眼を加奈に向け、押し付けるような声を出した。
「家に着くまで寝てなさい」
「別に、眠くないんですけど」
「寝ろ」
 命令形の言葉に理不尽さを感じながらも加奈は目を閉じる。南や遠藤は里見が加奈に好意を持っているのではないか、という事を言っていたが、加奈はそれをまったく信じていなかった。里見が何を考えているのかまったく理解できない。あぁ、まったく考えるだけ無駄かもしれない。考えれば考えるほど頭がずきずきする。
 初めは眠る気なんてまったくなかったのだが、加奈は静寂の中、眠りの世界へと誘われていった。


 加奈の家に近づくと里見は加奈を起こすために助手席に視線をやる。あどけない表情で眠る加奈は微かにあの時の少女の面影を残していた。里見は普段の皮肉げな笑みを取っ払い苦笑した。
「まったく”かなちゃん”は困ったもんだな」
 もう少し寝かせておこうと、里見は路上に車を止めると窓を開け煙草に火をつけた。深く吸い込むと煙草の煙が肺を侵食していく。蛍のようにちかちかと煙草の先が赤っぽく光った。

「あまり心配させないでくれよ」

 その呟きは煙草の煙と共に身をくゆらせながら暗闇に消えてゆく。もしも加奈が眼にしたら既視感を覚えただろうそれは。



 ――それは、銀縁の眼鏡をかけなおす、長くて綺麗な細い指先。

《了》


表紙 - 前項

作者/佐東 汐