特別な思いに耽る僕




 俗に言う、時間の概念の話をしよう。
 こんな言葉を聞いたことはないだろうか?

『子どもの一日は大人の一ヶ月に勝るとも劣らない』
 子どもの時間経過の感じ方と、大人の時間経過の感じ方は違う、という考えだ。

 実際に僕も思ったことはある。昔は一日が長くて。それ以上に一週間が長くて。そして一ヶ月なんてもっと長くて。一年間なんて考えることもできなかった。
 いくら僕が飛び級をして、年齢以上に社会を知っているとしても所詮は十二歳の子ども。さっき上げたような次元ではないが、まだまだ時間経過の感じ方は遅いほうだろう。

 そもそも子どもってなんだろうか。僕はもう十二歳。精神的な部分はともかく、肉体的にも成熟してきたと思う。どうなんだろう。僕は子どもから大人へと進化しているのだろうか。

 そもそも大人ってなんだろう。自分一人で生きていくことができたり、異性との生殖行為が可能になった時点で大人なのだろうか。もしそうであると仮定するなら、愛理さんに保護されていたり生殖行為をしたことのない僕はまだまだ子どもだ。
 けれど今の僕は大人なんだと思う。今上げたような部分ではまだまだ子どもだけれど、現在僕が感じる時間経過は異常に早く感じる。つい先日まではもうすぐ大学院だ、と思っていたけれど、もうすでに僕は大学院で一ヶ月を過ごしている。時が経つのが早い、と感じるということは、以前は遅いと感じていたということ。つまりは子どもから大人へと深化しているのだと推測できる。やっぱり僕は大人なんだ。


 なぜ僕がこんなことを考えているのかには理由がある。そしてそれは時間の経過が早く感じるようになった理由でもある。
 それは二ヶ月前での彼女の発言のせいだ。

『離婚しない?』

 あれからもう二ヶ月経っているけどまだ離婚していない。理由は至極簡単。僕が離婚届を出していないからだ。彼女に何度か急かされたりもしたのだけれど、結局僕は離婚届を出すどころかまだ記入もしていない。わざわざ僕が書類に明記するのを待っている彼女も彼女なんだけれども。
 なぜ僕が離婚手続きをしないのか。それは僕にもわからない。本当になぜかはわからないのだけれど、離婚をするという彼女の決意にはあまりいい顔をできない。
 確かに彼女の言い分は間違っていない。子どもを産みたいから、という彼女の願望を遂げるためには、僕と夫婦であるという状態ではかなり複雑な状況になってしまう。だから離婚するのは明白だ。
 それは僕にもわかってる。彼女が僕のことを考えてくれていることも。わざわざ税金を取られるという負担を背負いながらも自分の願望を叶えようとする彼女には、尊敬の眼差しを送ることができる。
 けれど感謝はできない。なぜかうれしいとは思わない。
 こんなことがわからないなんて、僕は本当に大学院生なのだろうか? やはり僕はまだまだ子どもなのだろうか。



「ねぇ、阿部君。聞いてる?」
 その言葉で現実に引き戻される。考え事をすると集中しすぎるのが僕の悪い癖らしい。今までもたぶん話しかけられていたのだろうけど、全く僕は気付いていなかった。集中力が高すぎるというのもどうやら問題になるようだ。
「ごめんなさい。聞いてませんでした。何のお話でしたか?」
「だから俺の論文の話だよ。熱エントロピーの法則と生物の進化との関係について。どう? なんか魅力感じない?」
 目をきらきらさせて祐介さんが言う。よほどこの思いつきが気に入ったのだろう。昨日までは目が死んだ魚のそれだったのに……。
「魅力もなにも、僕たちは物理学科でしょ? いまのをテーマにするとしたらどちらかというと生物学科の方が取り上げるものだと思うんですけど。祐介さんは本当にそれでいいと思ってますか?」
「いや、まぁ、その……ねぇ? あはは……はぁ」
 どうやら僕は余計なことをしてしまったらしい。
「……やっぱり阿部君はダメだと思うわけかい?」
 僕よりも背の高い祐介さんが上目遣いができるほど下へと沈んでいる。よほどこのテーマが気に入ってるように思える。確かに興味深くはある。たぶん祐介さんは、熱は熱いほうから冷たいほうへと移動するという現象と、生物は生きている間は熱を持ち死ぬと熱を失うという現象の関係性について考えるはずだ。けれどやっぱり僕たち物理学科の論文としては少し弱い気がする。でもここでまた気を落とされても困るので、自分なりの考えを含みつつ励ますことにしよう。
「ダメではないでしょうね。一応物理系の法則を含んでいるわけですし。これを主体とするならどうにかなるとは思いますよ? でもこれと進化の関係について考えると、どう考えても進化が主体にならないでしょうか? 熱の移動は実は生物の生死を表している、というような感じに僕だとなってしまいますけども」
「じゃあ俺ができると考えたのなら、始めても変ではないってことでしょ?」
「変ではないですね」
 どうやら引き下がる気はないみたいだ。それに気付いたからこの辺りで僕は身を引いておくことにする。
 祐介さんは祐介さんで僕の最後の言葉に喜びを隠しきれないようで、また目に輝きを取り戻し始めた。それ以前になぜ僕に相談しに来たのかがわからない。僕が子どもから大人への進化について考えていたからなのだろうか? もしそうだとしたら祐介さんは油断ならない人となる。

「よし! じゃあ一ヶ月遅れで俺もようやく始められるわけだ。阿部君も論文について悩んでいるようだけど頑張るんだぞ?」
 どうやらさっきの考えは違ったようだ。祐介さんは僕の机に散らばっているアインシュタインの文献を見て悩んでいると思い、気分転換に話しかけてくれたみたいだ。そもそも僕たちは物理学に携わるもの。オカルト的要素が含む考えをする僕はどうにかしていたみたいだ。
「はい。ありがとうございます。祐介さんもこれから頑張ってくださいね」
 僕がそういうと祐介さんは部屋を出て行った。テーマを先生に伝えに行くんだろう。同じ研究室の仲間としても頑張ってほしい。

 ふと時計を見る。その時計は五時を指していた。そしてその瞬間にさっきの祐介君の行為も納得できた。ただ家に帰っただけのようだ。
 どうも最近の僕は時間の感覚が狂っている。最近といってもここ2ヶ月の話だが。その上なぜ感覚が狂っているのかも知っている。理由は前の誕生日プレゼントだ。

 彼女がくれた眼鏡。対象の視力を随時測定し、個人で思う理想の視力を提供してくれる画期的な眼鏡だ。まぁ視力を矯正するという部分では眼鏡といえるけど、彼女がいうモニターという表現が一番正しく思う。
 この眼鏡の長所はそこだ。人間の視力は常に一定ではない。朝起きたばかりの時と昼間、そして夜と常に変化し続けている。その微妙な調整ができない人間に変わって、快適な視力を与えてくれるこの眼鏡は素晴らしいと思う。
 だがそれは短所でもある。微妙な調整ができない人間だからこそ、その変化により疲れというものを察知することができる。疲れを認知するからこそ時間の経過を感じることができるのだ。ただ一つのことに特化すればよいという人種ならば関係ないだろう。むしろ集中できるという部分では歓迎するはずだ。だけど学生の身分としては時間を把握できないのはかなり辛いものがある。時間配分の巧さも学生の能力の一つだと僕は考えているからだ。
 そして何より僕は子ども。散々大人だろうと考えてはいるが、まだ十二歳。夜になれば家に帰らなければならない。とは言っても明確な夜の基準なんてないんだけれども。


 はっとする。また考えこんでしまった。
 いけない。現在五時を指しているということは家に帰れば七時すぎ。車ならば一時間で帰ることができるのだが僕はまだ車には乗れない。そのため公共機関で帰宅することになる。主に電車一時間半。バス二十分。そして自転車十分だ。
 そして七時であれば彼女はもう帰ってきている。彼女は早く帰ってくることがたまにあるけれど遅く帰ってくるということはまずない。今まで二、三度考え事に没頭してしまい、帰宅時間が遅かった時があるけれど、そのときは洒落にならないほど怒られた。彼女曰く、「身体は子どもなんだからマンガみたいに知能だけで大人に勝てると思ったら大間違い! 故に太陽のあるうちに帰ること」だそうだ。なぜかもう僕は遅くに帰れば誰かに捕まるというのが確定しているのが不思議なところなんだけど、保護者として少し敏感になっていると考えてくれているのだ、といつもそのまま流してしまう。実際のところ、それでいいと思えてしまう僕もいるからそれでいいのだけれど。.


 いろいろなことを考えながら帰宅する。得意の過剰集中のために乗り過ごすことがありそうだったけれど、予定通りに家に着くことができた。そして予定通り彼女に怒られて、予定通りにあの言葉を聞く。

 なんてことのない日常。
 いつまでもこのままがいいと思う。
 けれどこのままではいられない自分がいる。

 変わらない日常。
 けれど変わってしまう日常。

 これからもイマを大切にできますように……

《続》


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作者/エムダヴォ