特別な人である君




「無理だと思いますわ」
 と、彼女は言った。
「女に二言なしですわよ」
「二言なしなのは男の方じゃなかったっけ?」
「ま、まぁどちらでもよろしいですわ」
 人形のような白い肌に頬を赤く染めて、ミミィはぷんと横を向いた。背の小さな、細い黒髪にフランス人形のようなワンピースを毎日着ている彼女は、僕から見ても相当かわいらしい。
 それでも恋愛からは程遠いのは、中学のときからの幼なじみで、気づけば学部こそ違うものの同じ大学院にまで進んでいるからだ。お互いにかなりの飛び級をしていて目立つので、何となく仲良くなり、今でもこうして大学の学食で会っていたりするけど、決して友情より先には進まない。勉強ばかりで友達の少ない僕にとっては、大事な友人だ。
「それでも追い出される前に、決着をつけなくては男が廃りますわよ」
 台詞はなかなか古風だが、ミミィの実際年齢は僕と同じだから、十三。しかも身長は僕以下で、並べば妹みたいに見える。なのに彼女が言うと重みがあるのが不思議だ。
「で、でもさ。あれから三ヶ月近く経つけど、愛理さんの方から離婚してって言ってくるわけでもないし、諦めたとか、はない?」
「ありえないですわ」
 女は一度言ったことを覆さないものですわよ、と、ついさっきランチメニューの前で一分以上も悩んでいた優柔不断な彼女は言い切った。
「僕、思うんだけど。大学院だって、僕らはせいぜい二年もいれば卒業できるよね? そうしたら僕だって就職して、稼げるようになるし、そうしたら『お父さん』にもなれると思わない?」
「はぁ。なぜ新之助君はそうバカなのかしら」
「……」
「愛理さんが子どもを産みたいと言い出したのなら、愛理さんに将来を誓いたい男性が現れたと思わなくて?」
「うそっ!」
 学食であることも忘れて思わず叫んでしまった。彼女が口に細い指を当てて、僕はあわてて続きを飲み込んだ。
「で、でも愛理さんのボーイフレンドなんて見たことないし!」
「新之助君が見たことないからといって、いないとは限りませんわよ。わたくしのボーイフレンドをあなた、見たことがあって?」
「えっ? ミミィにボーイフレンドっ!?」
「しっ、また声が高いですわ」
 僕は無駄に眼鏡を上げてみせる仕草なんかをして、心を落ち着けようとした。
「……だ、誰?」
「森下さんですわ」
「森下祐介!? うそっ、まさかうちの研究室の?」
「えぇ、お付き合いしておりますの」
 知らなかった。僕は今日の午前中も祐介さんと会っているのに。
「だってミミィはそんなこと僕に一言も言わなかったじゃないか。祐介さんもそんなの……」
「ですから、あなたが知らないからといって、ありえないと決め付けるのはよろしくないですわ」
 ミミィにボーイフレンドがいたことも驚きだが、その時の僕にはそんな衝撃は微々たるものだった。
「愛理さんに、ボーイフレンド……」
「そんなに衝撃を受けているようなら、言ってしまえばよろしいじゃないの」
「何を?」
「僕をボーイフレンドにしてください、って」



 その後、あら時間ですわとかなんとか言ってミミィはさっさと僕を置いて学食を出て行ってしまい、残された僕は、上の空で研究室に戻った。
 午前中は五人ほどいた研究室の面々は、それぞれ用事で帰ったとか図書館に行っただので、残っていたのは祐介さんだけだった。
 僕はさりげなく席について、自分の論文用の資料を広げてみたが、どうもちらちらと祐介さんのほうを見てしまう。さっきミミィの言っていた『付き合っている』というのは本当なのか。いちおう人の色事に首をつっこむのはよくないとわかってはいても、気になってしょうがない。
 三十分ほど経ったころだろうか、たまたまこちらを振り向いた祐介さんと目が合い、僕はあわてて逸らした。
「どうしたんだい、阿部君」
「えっと……その」
 僕はドアを確認した。まだ席を外したみんなの戻ってくる気配はない。どうせ気になるのなら、今聞いてみたほうがいいだろうか。それとも。
「祐介さん、今日の夕方は何か予定ありますか?」
「え? いや、特にないと思うけど」
「デートとかも?」
「うん、今日は」
 今まで隠していた割りに墓穴を掘っている祐介さんに、僕はちょっとため息をついて、夕食をいっしょに食べる約束を取り付けた。僕も(たぶん祐介さんも)お金がないから、近くの安い定食屋だけど。
 愛理さんにも遅くなる旨のメッセージを送っておいた。もしボーイフレンドがいるなら、デートできて愛理さんも満足だろう。そう考えて、ちょっと寂しくなったが、首を振ってそんな考えは取り消した。だって。そんなはずない。



「ってかボーイフレンドって」
 豪快にふりかけごはんをかきこみながら、祐介さんは僕の『ミミィのボーイフレンドって本当ですか』の問いに吹き出した。
「ふつう彼氏って言わないか」
「そうですか」
「そうだよ」
 から揚げを口いっぱいにほおばって、祐介さんはおいしそうにご飯をたべる。僕も男とはいえ、さすがに大人じゃないのでハンバーグをちまちまと端で切って口に運んでいた。そのあたりにも大人と子どもの違いを見せつけられているようで、ちょっと凹む。
「で、付き合ってるんですか?」
「うん、先月からね」
 笑う祐介さんは幸せそうだ。
「だけど、君の相談はそれじゃないだろう? まさか君もミミィを好きだったとかじゃないよね?」
「まさか。友達です」
「それならいいよ。僕も(燕尾服にフリルのブラウスのゴシック調の格好をしたらその眼鏡も含めてかなり似合いそうな)君のライバルにはなりたくない」
 なにやら意味不明な心の声が聞こえた気がしたが、関係なさそうなので無視することにする。最初に、ミミィには聞けないことを聞いてみた。
「えっと。ミミィは子どもですよね?」
「え? うん、まぁね、十三歳だし」
「それでも好きになれるんですか。祐介さんは大人ですよね?」
 留年ではないけど、飛び級もしていない祐介さんと僕らは十歳も年齢差がある。
「うん、なれるよ」
 祐介さんの答えは、いたってシンプルだった。
 最後の一口のご飯をかきこみ、定食屋のおねえさんにおかわりを頼んでいる祐介さんの横顔に、嘘は見えない。
「でも、ミミィはまだ子どもを産めないと思うんですけど」
 別に悪口を言うつもりじゃないんですけど、と前置きして僕は続ける。祐介さんは首を傾げて、「いや、産めるんじゃないかな」と僕を見返した。
「人にもよるけど、女の子は十三歳くらいなら子どもは産めると思うよ。どうしたの阿部君、子どもが欲しいの?」
「……いえ、彼女が」
「おっ、阿部君にも彼女がいたのかい」
「妻です。仮面夫婦なんですけど……、彼女が、子ども欲しいから別れてって」
 簡単に言うとたったそれだけのことなんだなって。言ってから僕は自分の台詞に落ち込んだ。
「もしかして、ここ最近阿部君が暗かったのってそのせい?」
「え? 暗かった?」
「暗いっていうか、悩んでるみたいだったよ。論文は順調に発表してるみたいだったし、論文は関係ないのかなって。まぁ僕も、自分の論文が片付いてから阿部君のことには気づいたんだけど」
 僕は完全に箸を止めて、家でやったら行儀悪いと愛理さんに怒られるんだろうなと思いながら、テーブルの上に頬杖をついた。
「……もしも。ミミィが子ども産めないとしても、祐介さんはミミィを好きになれますか」
「うん、好きになると思うよ。それはミミィの本質とは関係ないし」
 おかわりしたご飯ももう半分にまで減らした祐介さんは、あっさりと言い切った。ミミィがちょっと羨ましい。こんな風に思ってくれるなら、そりゃああの子だって惚れるだろう。
「でもさ、阿部君。君は俺にこんなことを聞いてもしょうがないだろう」
「……それはわかってるんですけど」
「いや、俺は聞かれたら答えるけど。大切なのは、子どもが産める産めないじゃなくて、阿部君がこれからも愛理さんと一緒にいたいかどうかじゃないかな」
 僕は一瞬肩を震わせた。それは、どういう……?
「今はまぁ、仮面夫婦も増えてるけどさ。本来、結婚ってカップルが好きあってからたどり着く場所だろう? そうしたら、結婚はずっと一緒にいましょうっていう約束なんだよ。
 君の彼女が、純粋に『自分の子どもが欲しい』っていうんだったら、僕が大きくなるまで待ってって言えばいいだけだ。彼女も君のことが好きなら、きっと待っててくれるよ。
 本当に恋人がいて、その人との子どもが産みたいというんなら諦めなくちゃならないけど、そんなことは聞いてみないとわかんないだろう? 大体、好きでもない人にプレゼントをしようとするかな? 誕生日プレゼントなんだろう、その眼鏡。いつもその人のことを考えてないと、ふらりと立ち寄った店でその人のために衝動買いなんて、できないと思うけど」
 僕はそっと眼鏡のフレームに触れてみた。愛理さんが、買ってきた眼鏡。誕生日でもないのに、誕生日プレゼントだからなんて言い訳までして。
 阿部君は彼女とずっと一緒にいたい? と訊かれて。
 僕は無言で、味噌汁を喉に流し込んだ。冷めた味噌汁と共に、何かが体の奥へ流れていく気がする。



 祐介さんの質問の答えを、僕は定食屋で祐介さんに返さなかった。
 答えを言うべき人は、このドアの向こうにいるから。

《続》


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作者/千草 ゆぅ来