特別な結末の日常




「遅い」
 玄関で出迎えてくれたのは、ジーンズにセーター姿の愛理さんだった。両手を腰に当て、見るからに不機嫌そうな表情を作っている。
「ごめん」
 その顔を見るなり、僕は頭を下げる。ほんの少しだけ間が開いて、頭上からため息が振ってきた。
「……おかえり」
「ただいま。でも遅くなるって携帯にメール」
「見たわよ。でも遅い」
 愛理さんはそれだけ言うと、背を向けて部屋の奥へと戻っていった。
 靴箱の上に置かれた時計に目をやる。短針はちょうど『9』に差しかかるところだった。
 夕食を食べて、それから帰宅するのに二時間。家に着くのはこんなものだろう。あと三十分早く帰ってきていたとしても、愛理さんの反応は同じだ。僕の帰りのほうが遅いと、いつもこうやって玄関先で待ち構えている。そしてドアを開けると同時に飛び込んでくる一言、「遅い」。
 見た目ほどその言葉に怒りが含まれていないことを僕は知っている。九割くらいは僕のことを心配しての言葉だ。だから僕も悪かったと思うし、素直に反省もする。
 ……けれど、今は少し自信がなかった。そう思っていたのは僕の自惚れだったんじゃないかと、そんな不安がよぎる。

「…………いけない」
 慌ててかぶりを振った。考えすぎて自ら泥沼にはまるのが僕の悪い癖だ。
 大切なのは自分の気持ち。そう、気づいたんだから。



 ダイニングではテーブルの上に雑誌を広げ、頬杖を突きながらパラパラとページをめくる愛理さんの姿があった。シンクの食器かごの中には、洗い終わった一人分の食器が入っている。
「夕食、家で食べたんだ」
「当たり前じゃない」
 当然のことを尋ねる僕に愛理さんは怪訝な顔をしたが、すぐに雑誌へと視線を戻した。
 内心ほっとする。僕の帰りが遅いのをいいことに、ボーイフレンド……じゃない、彼氏とデートだなんて、やっぱり僕のおかしな想像に過ぎなかったのだ。第一、仕事命の彼女が彼氏を作るだなんて、そんなのありえないじゃないか。

『あなたが知らないからといって、ありえないと決め付けるのはよろしくないですわ』

「――そうね」
「えっ!?」
 がたん、と椅子を引く音にはっと顔を上げると、愛理さんが席を立っていた。
「なっ、何? 今、なんて言った?」
 まるで頭の中で反芻されたミミィの言葉に頷いたように聞こえ、僕は思わず焦った。まさか本当に僕の知らない彼氏が……? そんな想像が蘇り、ひどく動揺する僕を見て、愛理さんは首をかしげる。
「だから、今日もお風呂に入るの遅くなりそうねって」
「え? あ、お風呂……なんだ……」
 一気に脱力する。よけいな想像とミミィの言葉のおかげで、無駄に慌ててしまった。すぐさま平静を装うが、愛理さんは先程よりもさらに不審そうな顔をこちらに向けていた。
「どうしたの新之助? あなたさっきから変よ」
「ご、ごめん。なんでもないよ」
 その瞬間、ふっと愛理さんの目が細められた。一瞬、その表情が寂しげに見えたような気がしたけれど、すぐに背けられてしまったのでわからずじまいだった。
「どうせまた徹夜で論文でしょう? ほどほどにしなさいな。私、先に入るから」
「あ……待って!」
 バスルームへ向かう背中を呼び止められ、愛理さんは足を止めた。振り返ったその顔には、どこか疲れたような色が浮かんでいる。
「なに?」
「えっと、その……話が、あるんだ」
「長くなりそう?」
「……ごめん」
 そ、と素っ気なく応えると、愛理さんは踵を返し、今度はキッチンへと向かった。聞くとも聞かないとも答えないまま、シンクで作業を始める。カウンターの陰に隠れ、カチャカチャと食器が触れ合う音が聞こえてきた。
「あの」
「インスタントでいいでしょ? 今、茶葉切らしてるから。あなたも鞄くらい置いてきたら?」
 そう言ってトレイを手にした愛理さんがやって来る。そこにはティーカップとスプーンが二つずつと、シュガーポットが乗せられていた。カップからはティーバッグの紐が垂れている。愛理さんはポットからお湯を注ぎながら言った。
「長くなるんでしょう、話」
「……うん」
 僕はようやく肩に掛けたままになっていた鞄の存在を思い出した。論文の資料が詰め込まれてこんなに重たいのに、それすら忘れて立ち尽くしていたらしい。



 いったん自分の部屋に入ってから戻ると、愛理さんはリビングのソファーに移動していた。膝の上のティーカップを気だるそうにかき混ぜている。僕が正面に座っても、顔を上げずにしばらくそうしていた。
 カチッカチッと、カップとスプーンがぶつかる小さな音だけが響く。カップから昇っていた湯気は、いつの間にか消えていた。
「……飲まないの?」
 先に沈黙を破ったのは僕だった。けれど、いきなり切り出す勇気はなく、口から出たのはそんなどうでもいい質問だった。
 愛理さんの手が止まる。
「話って、なに?」
 回りくどいものの言い方が好きではない彼女は、あっさりと本題へ踏み込む。臆病な僕の心内などお見通しだったに違いない。僕は観念すると、ソファーから立ち上がった。そして愛理さんの前に立ち、隠すようにポケットに入れていた封筒を差し出す。
「返す」
 僕はきっぱりとそう告げた。
 愛理さんはカップをテーブルに戻すと、ようやく顔を上げた。僕と封筒の間を視線が三度往復し、無言でそれを受け取る。封筒の中から取り出されたのは、四つ折にされた白い紙――離婚届。広げて目を通したあと、愛理さんはさして驚いた様子もなく言った。
「新之助の名前が書いてないみたいだけど?」
 こちらに向けられた離婚届には、愛理さんから渡された時のまま、僕が書くべき欄だけが空白のままだった。
「うん。それが、僕の気持ち」
 僕はまっすぐ愛理さんを見つめた。愛理さんも目をそらさず、まっすぐに僕を見つめ返してくる。その表情から、愛理さんが今どう思っているかを読み取ることはできなかった。戸惑いも、喜びも、悲しみも感じられない。けれど、僕の言うべきことは変わらない。

「離婚したくない」

 一言口にすると、あとの言葉は自然に溢れ出してきた。
「一緒にいたいんだ、愛理さんと。だから、離婚したくない」
 それが僕の気持ち。僕の答え。
 その時、愛理さんの顔にわずかな表情が生まれた。それはごく些細なのにとても複雑で、僕にはやはり読み取ることはできなかった。
 僕は続ける。
「愛理さんに本当に好きな人がいて、その人の子供を生みたいと思っているのなら、僕はそれを止めないし、その気持ちを尊重したいと思う。そうじゃなくて、愛理さんが自分の子供を欲しいと思っているのなら、僕が父親になる。今すぐには無理だけど、僕にだって子供を生ませてあげることくらいはできる。だから、もう少しだけ待って欲しい。
 愛理さんとずっと一緒にいたいんだ。愛理さんのことが、好きだから。だから、離婚はしたくない」
 それで全部だった。僕の言いたいことはすべて言い切った。
 心臓がバクバクいっている。額には汗まで浮かんでいた。愛理さんは無感動な表情のまま、否定も肯定もしない。互いに無言のまま、ただ時だけが流れていく。返事を待つ時間がこれほどまでに苦しいと思ったのは初めてだった。

「――ふ」

 空気が揺れた。
 愛理さんはうつむき、離婚届を両手で握る。頬にかかるふわふわの長い髪と、細い肩が小刻みに震えていた。
「ふ……ふふ、ふふふ……なによそれ」
「愛理、さん?」
「もう……なんなのよ、それ」
 顔を上げた愛理さんの表情は、僕が思ってもみなかったものだった。
「私が新之助の他に好きな人がいるならその気持ちを尊重するくせに、自分は『離婚したくない』? それってすっごく矛盾してるじゃない」
 そう言った愛理さんの顔に浮かんでいるのは、あきれたような、けれどどこかほっとしたような笑み。
「もー、新之助ってば、ちょーわがまま」
 愛理さんが愛理さんらしくない言葉を使い、指で目尻をぬぐう。その時、そこに何かが光ったように見えた気がしたけれど――
「わあっ!?」
 確認するより先に、僕の視界は覆われてしまった。
「あっ、あっ、愛理さん!?」
 突然正面から抱きしめられ、僕は思わずうろたえた。身動きが取れず、行き場のない両手がわたわたと宙をさまよう。愛理さんの柔らかい髪が耳元をかすめ、甘い香りが鼻腔をくすぐった。おかげで僕はますます気恥ずかしくなる。
「……ごめんね、こんなやり方しか思いつかなくて」
 頭上から聞こえてきたのは、ひどく優しい声だった。
「あなたは頭のいい子だから、私への負担を減らすために結婚を申し込んだってことくらいわかってた。お互い恋愛感情があって夫婦になったわけじゃないし、新之助にもっと年の近い好きな子ができたのなら、その子と幸せになったほうが絶対にいい。もう子供じゃないんだし、大学院を卒業すれば、一人で生活していけるようにもなる。
 そうなったら、今度は負担になるのは私のほう。このままだと、一生あなたの人生を縛ることになる。だったら、決断は早いほうがいい。そう思って――」
 そこまで言って、愛理さんの腕から解放された。先程の告白の時以上に心臓が早鐘を打っている。ほんの少しだけ、心地よい温もりが名残惜しかった。
「これが一番手っ取り早いかな、って。……卑怯よね。これ一枚差し出せば、今言ったこと、全部説明せずに済むんだもの」
 愛理さんは床に落ちていた離婚届を拾い上げた。くしゃくしゃになったその紙に、ぱたりと雫がしみを作る。それは僕が初めて見る愛理さんの涙だった。
 僕は驚きと、戸惑いと、それから自分に対する不甲斐なさを感じた。こういう時、女の人にどう言ってあげればいいのか思いつかない。ここでは相対性理論も熱エントロピーの法則もまったく役に立たない。僕にはもっと勉強しなければならないことがたくさんあるのだと、そう思った。
「待ってる間、不安で仕方なかったんだから」
 愛理さんは呟くようにそう言った。
 僕ははっとする。今、愛理さんの弱さを見てしまった。普段は絶対に見せない、見せようとしない、彼女の奥に隠された弱さ。
 離婚したくない。そう言ってからたった数分間。ほんの短い時間だったのに、愛理さんの返事を聞くまで僕は押し潰れさそうな思いだった。それを愛理さんは二ヶ月以上。それだけの間、僕の返事を待っていたのだ。どんなに強い彼女だって、不安で不安でどうしようもなくなる。
「……ごめん」
 また不甲斐なさを感じる。愛理さんが弱さを打ち明けてくれても、そう言って謝ることしかできない自分がもどかしく、やるせなかった。
「それ」
「え?」
「私、新之助がごめんって言うたび苦しかったの」
 愛理さんは顔を上げた。そこには涙の代わりに、寂しげな笑みが浮かんでいる。
「よけいな気を使わせているんじゃないか、嫌な思いをさせているんじゃないか。私はあの人から新之助を奪った人間なんだから、恨まれても当然。私といても、新之助のためにならないんじゃないか、って――」
「そんなことない!」
 突然の大声に驚いたように、愛理さんは小さく肩を震わせた。口を突いて出たその言葉に、僕自身も驚いた。
「あ……そんなこと、ないよ。恨んでなんかない。むしろ、言葉じゃ足りないくらい感謝してる。
 僕のほうこそ、愛理さんの荷物になってるんじゃないかって、そう思うとどうしようもなく申し訳なくて。心配かけてばっかりだし、言われたことも守らないし、いつも迷惑かけてばかりで……。
 だからつい『ごめん』って言葉が出ちゃってたんだ。でも、それが愛理さんを苦しめているなんて知らなかった。ごめ――あ」
 自然とその言葉を出そうになり、僕は慌てて口を塞いだ。
「えっと……この場合は、なんて言えばいいのかな?」
 なんとも間抜けなその質問に、愛理さんは目を丸くする。けれどすぐにその目が細められ、にっこりと微笑んだ。
「こういう時はね――」
 愛理さんはそう言うと、僕に顔を近づけた。ふわり、と甘い香りが届く。僕は一瞬愛理さんが何をしようとしているのかわからず、ただ呆然と近づいてくる顔を見つめていたが……愛理さんの瞳が閉じられた時、すべてを理解した。
 これってあれだ。ドラマや漫画でよく見るあのシーン……。
 僕は慌てて目を閉じた。眼鏡を外すべきだろうか。それとも肩に手を回すべきだろうか。ぐるぐると思考が渦巻くけれど、どれ一つ実行できないまま、その瞬間は訪れた。

 ――――。

 柔らかいものがそっと触れた。僕の……額に。
 僕はしばらく金縛りにあったように立ちすくんでいた。ふっと甘い空気が遠ざかるのを感じて、恐る恐る目を開ける。まるでまぶたが接着剤でくっついているかのようだった。
 視界が開け、真っ先に飛び込んできたのは、悪戯っ子のような愛理さんの笑顔。
「バカね、どこにすると思ったの?」



 僕はその時になって気づいた。愛理さんは眼鏡と一緒に、僕の心にも矯正レンズをかけてしまったらしい。
『離婚しない?』
 その一言が、僕の心にレンズを被せた。
 僕は自分でも知らないうちに目が悪くなっていた。そして自分でも知らないうちに、こんなにも愛理さんのことを好きになっていた。
 そのことに気づかせてくれたのは愛理さんだ。調整された特別な視界を見せてくれたように、僕らの特別な関係を、愛理さんへの特別な想いを、僕に気づかせてくれた。そう、僕の周りは特別で満ちていたんだ。けれど――
 特別がずっと続いたら、それはやがて特別ではなくなる。いつ見てもクリアな視界が当たり前のものになっていたように、この関係も、この想いも、僕にとっては当たり前のものになっていた。
 愛理さんの髪色がくるくる変わるのは見慣れたことだし、年に何度も貰う誕生日プレゼントもありふれたことだ。相変わらず僕は考えごとをするたび帰りが遅くなってしまい、そのたび愛理さんに口うるさく叱られている。仕事も家事もそつなくこなす彼女が、金銭感覚にだけは疎いのも相変わらずだ。ついこの間、四度目の誕生日プレゼントを貰ってしまった。
 大学院のほうも論文は順調に発表しているし、ミミィと祐介さんの関係も……いや、あの二人、大学院を卒業したら結婚するらしい。
「婚約指輪ですのよ!」
 そう言って自慢げに見せるミミィの薬指には、小さなダイヤモンドがはまったシルバーリングが光っていた。祐介さんは、おかげで当分節約生活だ、とどこか嬉しそうに笑っていた。それ以外は何も変わりなし。

 あれから僕は、とても愛おしく、少しだけなおかしな、いつもと何も変わらない特別な日常を送っている。唯一変わったことはといえば――
 口癖のようになっていた「ごめん」の回数が、ほんの少しだけ減ったことくらいだろうか。

《了》


表紙 - 前項

作者/藍川せぴあ