詠われしフィオターゼ




 朝焼けの蜘蛛が張った霧網に
 夜露が絡まりできあがる
 さぁそれは、遠く遠くまで見通せる
 水と光が産み落とした子供


 * * * * *


 さりさりさり、と、辺りに音が響く。音の出所は、ごつい男の手元――その太く角ばった指先に反して、やすりを用いる仕種は酷く丁寧でやわらかいものだった。数度やすりをかける度に、光に透かすかのようにその削っているものを持ち上げる。微妙な厚みと薄みのバランス、形は決していびつにならないように、と。何度も確認を重ねながら作業を続けるその姿は、手馴れたものだと知れた。
 ひとしきり同じ作業を続けた後、満足したように大きな息を吐き、彼はようやく持っていたやすりと削っていたものとを作業台の上に置く。肩を回し、首筋と目頭を揉み解す――その度に体の内側から、ごきごきという硬い音が聞こえてきそうで、うわ、と彼は顔をしかめた。
 削っていた、丸く薄く、透明な板が窓から入ってきた光を弾く。やわらかな、春の花のような白の光が踊る。それは、彼が削りだしていた丸板がいかに上手く光を含み、それをやわらげられるかを、明らかにしている光景でもあった。
「――どうやら、上手くいったみてぇだな」
 その光の様子を見ながら、彼は唇の端を上げた。彼はもう、年数を数えるのもばかばかしくなってきた位にこの仕事を続けているが、やはり仕事が上手くいったか否か、それはどうしても気になってしまうのだ。
 だが、今日削りだしていたこの丸板はなんとか無事に出来上がった――後は、既に金物屋から取り寄せてある蔓と組み合わせれば、眼鏡は完成だ。客への引渡しは明後日であるし、組み立て作業は今日の夜や明日でも大丈夫だろう。
 彼は、凝り固まった腰を揉みながら、窓の外を見る。
「うっし、じゃあ今日は後――」
「フィオターゼを、掘りに行くの?」
 彼の思考を先回りしたかのように、背中の方から軽やかな声が被さる。鈴を震わせたような、花をひらりと揺らしたような、少女の声。嬉しさを多分に含んだその言葉に、窓の向こうを見ていた彼は脱力したかのように息を吐いた。
「お前、なぁ……突然声をかけるなとあれだけ」
「あら、削りだしの作業は終わったのでしょ? だったら問題ないはずじゃない」
 集中力が必要な削り出しの作業中は、絶対に声をかけるな――それが彼が少女に告げた約束事だった。しかしその作業は既に終わり、一息ついた後なのだから。だったら、あたしが正しいじゃない、と彼女は胸を張る。
「あぁ、確かにそりゃそうなんだけどな。……いきなり声をかけられたらこっちはびっくりするだろうが、馬鹿野郎」
「あたし、野郎じゃないもの」
「じゃあ、馬鹿チビ」
「ちびでもないものっ」
 この身長で、どこがチビじゃないんだか。そう笑いながら、彼は節くれだった掌で彼女の頭を乱暴に撫でる。わしわし、と。作業台にしつらえられた椅子、彼はそこに座ったままだったが、それでも彼女の頭は、彼の頭の位置と同じ程度の高さにあった。だから座ったままであっても、彼は腕を伸ばすことも無く、いとも容易く撫でることができるのだった。
 ひとしきり彼女の頭をわしゃわしゃとやってから、彼は椅子から立ち上がる。
「――まぁ、お前の言うとおり、行くか」
「フィオターゼ?」
「そうだよ。早くしねぇと、日が暮れちまう」
 だから早く、掘り出しに行かねぇと。そう彼は言葉を付け加えると、壁に設えてある棚の中から、鎌や皮袋といった道具を腰や胸元などに身につけてゆく。そのそれらはどれも古めかしく、皺や染みがあるものばかりだ。だがそれらの染みや汚れは、一方、一つ一つをどれだけ彼が大切に扱ってきているかということでもあり。
 支度を進める彼の大きな背を眺めながら、少女は嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇ、サカルト。支度は終わったかしら?」
「あぁ――うし、行くかチビ」
「ちびって言わないでっ」
 一通り身に着けた道具を、もう一度視界に入れて確認して。サカルトと呼ばれた男は少女の言葉に頷いた。大またで家の中を歩き切り、あっという間に扉の前へと進む。そして、その大きな手で扉を押し開く。
 未だ名を与えられていない少女はその背を追いかけるように、ふわりふわりと、軽やかに追いかけた。


 フィオターゼ。
 それは、サカルトが削りだしていた透明な丸板の材料だ。水に弾かれた光、その粒子を固めたもの――詩人がそう称すのに相応しく、これまでで見つかったどんな鉱物よりも、その透明度は高い。しかも、光を通す際にその力を和らげる効果を持っているのか。目を灼くような太陽の直射日光ですら、それを通して見れば、蛍の光のようなやわらかいものになる。だからこそそれは、家々の窓や扉といった生活上必要となるものへと利用されることが多く、需要も高い鉱物の一つであった。
 そして。このフィオターゼは、サカルトが削り出していた丸板――すなわち、眼鏡の材料としても非常に有名なものだった。人々の視界をより明らかにする手助けをするものとして、光を上手い具合に調節してくれるその鉱物は、眼鏡の材料としてうってつけのものだったのだ。

 ――ただし。

「こうやって、わざわざフィオターゼを掘りに来る眼鏡職人なんて、今や本当、稀よ?」
 シャベルを丁寧に、しかし手際よく動かし続ける彼に向かって、少女は少し呆れた様子で言葉を投げた。切り株に座り込んだ彼女は、スカートに包まれた足をどこか暇そうにぶらぶらと揺らしている。
 フィオターゼがよく存在するのは、水辺の岸。水面と地面とが触れ合うぎりぎりの線の辺り、地面の中だ。詩人の言葉につられた訳でもあるまいが、しかし、他の鉱物が山々の中にひっそりと存在していることが多いのに比べ。この鉱物は圧倒的に水のほとりを好んで選んでいるとしか思えないほどに、その場所に存在しているのだった。
 だからこそ今、サカルトは水を含んだ濃い色の土を、シャベルで丁寧に掘り返し続けているのだった。そこは、家から歩いて約、数十分の湖のほとり――幾つか彼が知っているフィオターゼの在処の一つ。
 家から近くない距離を歩き続け、そしてこうやって掘り始めて――結構な時間が経っているにもかかわらず、その額には汗一つかかず、息も乱れない。そんな、決して若くないはずのサカルトを見ながら、彼女はもう一度、呆れたようにため息をついた。
 そのため息を聞いて、ようやく自分にかけられた言葉に気付いたという風に、ゆるりと彼が視線を上げる。
「何か言ったか?」
「……聞いてなかったわね」
「悪ぃな、掘り出すとどうも止まんねぇから――で、何て言ったんだ?」
 ああもう、と。少女はぴょん、と座っていた切り株から降り立ち、湖のほとりで手を休めている彼の元へと駆け寄った。すう。大きく息を吸い込んで。
「こうやって。わざわざフィオターゼを掘る眼鏡職人なんて。今や本当。稀よねっ。……って言ったのよっ」
 少女はわざと大きな声で、先ほどの言葉を繰り返す。耳元でそんな言葉を告げられた彼は、痛そうに耳を押さえた。そんなに大きな声出さなくても聞こえるだろうがっ、とどこか悔しそうな声がサカルトの唇から漏れる。
「――最近どんどん年を取ってきてるみたいだから、それを考慮して言ってあげたんじゃないのよ。感謝しなさい? ……で、あたしの言葉に対してのお返事がまだだけど?」
 彼女の持つその可愛らしい子供の外見のせいなのか。そんな尊大な口調ですら、どこか鳥の歌声のようなものにしか思えない。耳に残るのは、苛立ちや怒りではなく、やれやれという、くすぐったさにも似たもの。
 彼はしょうがねぇな、と思いつつ耳元の手を放す。――そう、眼鏡職人がこの材料を掘りに来る事なんて今や稀だと。そう彼女には言われたのだった。思い返しながら、彼は返事の為の言葉を頭の中に捜す。
「そうだな、確かにお前の言うとおり……俺みたいのはもう、稀んなっちまったんだろうな。昔はもっと――こうやって、掘り出しから削り出し、組み立てまで一手に引き受けてる職人ばっかりだったんだが」
 今はすっかり、分業体制になっちまった。
 フィオターゼを掘り出す手は、本格的に休めることにしたらしい。彼は両の掌に残る泥を湖の水で濯ぎ落とす。水滴の残る手で白髪だらけの短髪を掻きながら、サカルトは遠い向こうを眺めるようにして、呟いた。
 今はもう届かない昔を懐かしむように。
 取り残された自らの存在を、どこか寂しく思うように。
「――まぁ、分業の方が、沢山早くモノを仕上げられるからな。多くの人の需要に答えられるっつうのも、別段悪いことじゃねぇし。……どっちが自分に合うか合わねぇか、だよな。結局。――これで、答えになってるか?」
 返答をせびった少女の目の前で、その濡れた指先をぱしりと弾いてやる。小さな水滴がぱしんと顔に当たり、彼女はころころとした笑い声を上げた。
「なってるんじゃない? ……で、あなたは、古くからのやり方を続ける方に残るってことなんでしょ、結局」
「――真似すんな。まあ、そうだな。俺は、ゆっくりやる方が性に合ってんだよ。もちろん客の意向は第一だっつうのは分かってるけどな。その中でどんだけ、良いもんを作り上げられるか……まぁ、ここまで来たら、俺の矜持みたいなもんだけどな」
 しゃあねえなあ、こればっかりは――そうやって笑う男は、乾いた地面を見つけるとそのまま腰を下ろす。そして、傍らに寄ってきた少女を見上げた。
「お前も、俺のことを……時代遅れだと思うか?」
 彼の目の前に立つ少女はゆるゆると、けれど、はっきりと横に首を振る。
「馬鹿だとは思うわ。稼ぎが良いのがどっちなのかは、はっきりしてるんだもの。――でも、そんなあなたで良いのよ。……って、何言わせるのよ恥ずかしいわねもうっ」
 頬を染めた彼女の姿が、何時もの尊大さを含んだものとは全く違っていて、サカルトはおかしそうに声を上げて笑う。そんな彼を、ぱしんぱしん、と膨れ面をした少女が掌で打っていた。
「痛くねぇよ、ばーか」
「……ああもうっ」
 ようやく赤みの引き始めた頬をさすりながら、少女は彼の隣に腰を下ろす。先程まで使っていた採掘の為の道具を布で拭っているサカルトを見上げると、彼女はねぇ、と言葉を投げた。
「ねえ、だったら……あれは、探さないの?」
「あれ?」
「『朝焼けの……』っていう、あのフィオターゼよ。知らないはずは無いでしょ。――あれを見つけて眼鏡にすれば、どんな時でも、どんな場所すらも、全てを見通せるって聞いたわ」
 少女は、するりと古詩の一編を口に乗せた。

 朝焼けの蜘蛛が張った霧網に
 夜露が絡まりできあがる
 さぁそれは、遠く遠くまで見通せる
 水と光が産み落とした子供

 ずっと昔から伝わるその詩は、フィオターゼに関わる人々が誰しも聞いたことのあるものだった。窓を作る職人しかり、鉱物採掘の人々しかり。もちろん眼鏡を作り、また、フィオターゼの採掘も手がけるサカルトが知らないはずは無い。
 だからこそ彼は、もちろん知ってるよ、とため息をついた。
「知ってるならどうしてそれを見つけようとは思わないのかしら。その眼鏡を作れば相当の儲けになる……なぁんてことは、流石に思わないでしょうけど。――でも、職人として、そんな凄いフィオターゼを扱ってみたいとは思わないの?」
 不思議そうに見つめてくる少女の視線を、彼はするりといなす。
「思うよ――だけどな、それは結局伝説でしかねぇだろうが。どんだけの人が探したと思ってる? それでも見つけらんねぇんだから、実在のもんじゃねぇんだろうよ」
「――でも、あたしのことは、あなた、認めてるじゃないの」
 その少女の言葉に、サカルトは一瞬、口を閉ざした。
 見つめる先の名も無き少女――彼にずっとつきまとうその少女の存在、それは、人にあらざるものだ。
「だってお前のことは見えるからな、だから……信じるし、分かる」
「――もうっ、融通が利かないんだから……っ」

 そこまで少女が口にした時だった。
 腰を下ろした二人の後ろから、くしゃんと音が響く。それは、靴に踏まれ大地に寝かせられた、下草の響かせる悲鳴。彼ら以外の誰かが、その場所にやって来たことを示す音だった。
 湖の水面は微かに揺れて、光を弾く。――それは、突然の来訪者を歓迎しているようでもあり、一方で、警戒しているようでもあった。

《続》


表紙 - 次項

作者/ねこK・T