眼鏡職人




 昔は良かったとしみじみ思ってしまうのは、自分が老いたからか、周囲が変わってしまったためか。オズワルドが作り終えた眼鏡フレームを箱に詰め、納品数に間違いないか確認し終わったのは夜も更けた頃だった。
 座りっぱなしで腰が痛い。オズワルドは立派な眼鏡職人だったが分業体制が確立された昨今、単純な形のフレームばかりを請負い作るようになった。一般大衆向けに販売される安価で、代わり映えのしないデザインのものだが、そんなものを作るにも目を使う。比例するかのように肩も重い。体中どこもかしこもガタがきている。大きく伸びをして、肩、腰を強く叩くが、あまり意味は無い。目頭を強くもんでみるが、遠くはぼんやりし、はっきり像を結ばない。体に無理がきかなくなってどのくらい経つだろう。わかっていても、無理をしなければこの街で生活できない。
 大きく息を吐き、眼鏡を掛けなおす。親方の下で修行していたとき、初めて作らせてもらった自分用の眼鏡だ。フレームのカーブは甘いし、直線もぎこちない。が、それでも他のものに替える気にはならない。
 灯りを落とし、窓からのぞく月を見上げる。小さく、白い月。それが真丸なのか楕円なのか、その微妙な判別はできない。だが、
「きれいな月だな」
 昔見た月の姿を脳裏に浮かべ、眺め見やる。初めて、眼鏡をかけて見上げた月は楕円だったが、それまで見慣れていたぼんやりとした姿ではなく、きりっと、レモンのような形で暗い夜空に浮かんでいた。今夜の月も大きさ的に、あれと同じような風情なのだろう。
 もっとはっきり月の姿が見えれば、と思いはするが、老化も相成り視力の低下は進む一方で、生活に余裕の無い現状では眼鏡を新調することは贅沢過ぎる。三十路を目前にようよう妻のモリーをめとり、娘ばかり四人授かった。末の娘が嫁ぎ、金がかからなくなったと一息ついた矢先にモリーが病に倒れた。医者にみせれば首を振り、気休め程度だがと高い薬を紹介された。
 モリーが倒れてもうすぐ一年になる。薬は効果を見せる様子も無く、モリーは日に日に弱っていく。けれど、薬を飲ませなければ死が早まる気がして、高い高い薬代を払い続けるために働きづめに働いていている。知人の紹介で知り合い、仕事に忙殺され、夫婦らしい会話も無く過ごしてきたが、それでもモリーにはできる限りのことをしてやりたかった。

 作業場にしている粗末な小屋に鍵を掛け、同じ敷地内に建つ母屋の玄関へと足を向ける。石造りの二階建て。このあたりでは、大きくも無ければ小さくもない、いたって普通の家だ。暖かくなれば通りに面した窓からはモリーが育てた花が季節ごとに咲き乱れる。近年は向かいの家の嫁や隣の家の娘が真似をし始めたので人々の目を引かなくなった。若い娘達のほうがより派手な色合いの花を植えるものだから、こちらのほうが後から真似をし始めたようにさえ見える。
 オズワルドは思考に落ち込んでいた自分に気づき、コツリと頭を叩く。どうにもいけない。最近は妙に考えにふける時間が増えた。老いるにはまだ早い年齢だというのに。
 扉を開ける。娘にせがまれて、扉に青い塗料を塗ったのはついこの間のことのようなのに、あのときの鮮やかな青はすでに失われてしまっている。塗り替えなければな、といつになるかわからない予定を今日も脳裏に浮かべ、戸を閉める。
「ただいま」
 奥へ声をかけるが返事は無い。一階には台所と寝室と別に部屋が一つあるだけ。そう広くは無いから、聞こえないはずは無いのだが、遅くなると言っておいたから寝ているのだろうか。いつもならばそれでも起きて待っていてくれているのに。
 廊下を歩き、台所へ。娘達がいた頃は狭苦しく感じていた我が家だったが、二人だけだと妙にだだっ広く、寒々しい。部屋数を確保するため裏に小屋を建てたのだが、あれはもう取り壊してもいいだろう。今の季節はいいが、夏場、冬場はいられたものじゃないのだ。
 台所から灯りがもれている。やはり今夜も起きて待っていたのだろう。湧き上がるのは嬉しさ、喜び、そして苛立ち。自分の病気をモリーはどれほど理解しているのか。
 モリーは台所で夕食の準備をして、そばのテーブルにつき、いつも通り読書しているはずだ。「お帰りなさい」と幸福そうに返事を返し、夕食を暖めはじめる。私の説教を楽しそうに聴き、薬を飲む、飲まないで喧嘩して――オズワルドは嫌な胸騒ぎがして、もう一度声を上げた。
「ただいま、まだ起きていたのか?」
 台所の戸を開ける。
「おい、」
 返事が帰ってこない。前にも何度かあったじゃないか、またうたた寝をしているだけだ、オズワルドは自分に言い聞かせる。
 モリーはテーブルに伏せている。見慣れたベージュのカーディガンを羽織り、緩やかに波打つ小麦色の髪が痩せこけた頬にかかる。オズワルドはほっと胸を撫で下ろす。やはり眠っていただけなのだ。
「風邪を引くぞ、起きなさい」
 優しく背をゆする。眠りが深いのか、目覚める様子は無い。
「ほら、モリー」
 ちらりと彼女が抱え込むようにしていた便箋を見つける。興味本位でオズワルドは抜き取り、目を通す。それは弱ったモリーが震える文字で一生懸命書いた、オズワルド宛の手紙だった。

 お帰りなさい
 さようならを言う時間がどうやらなさそうです
 今まで私のためにありがとう
 これからはご自身のために生きてくださ――

 何とか読み取れた文字にオズワルドは唖然とした。モリーの頬に手をやる。冷たく、氷ついたかのような肌。右手にはペンが硬く握られている。手紙を抱きしめるかのように伏せたまま、彼女は天国へと旅立ってしまったのだ。
 オズワルドは呆然と、自分の席に腰を下ろした。テーブルには食器と夕食が整然と並んでいる。炉にかけられた鍋からはスープが美味そうな匂いを周囲に漂わせているし、そのそばに置かれたフライパンには少々熱を通せば食べられそうな肉が乗っている。「あら、お帰りなさい。ごめんなさい、ちょっと疲れてしまって――」今にも、モリーはそういって立ち上がり夕食を用意し始めそうだ。そして、寝ていなければダメだろうと小言を言うオズワルドにモリーは微笑みながら謝り、夕食を取る姿を実に幸福そうな顔で見つめるのだ。
「モリー」
 そっと呼びかける。眠っているのであれば起こしたくは無い。けれどそうじゃない。
「頼む、モリー」
 起きてくれ。起きてほしい。死ぬことはわかっていた。近いことも予感していた。けれど、モリー。それが今日だなんて思わないだろ? モリー、お願いだ。モリー、薬を飲まないからと小言を言ったりしない。だからモリー……

***

 夜が明け、眼鏡を受け取りに来たリックは小屋にオズワルドの姿が無いことに首を傾げた。仕事熱心なオズワルドからは考えられないことだ。小屋には鍵が掛かっていて荷物を運び出すことができない。母屋に周り、勝手口をノックする。
「モリー、オズワルドはまだ寝てるのかい?」
 灯りがついているから台所に誰かがいることは間違いない。けれどいくら待っても扉は開かない。じれたリックは乱暴に、
「入るよ」
 扉を開ける。果たして二人はそこにいた。
「モリー」
 オズワルドは困りきった表情で呟く。ちらりとリックに顔を向けたが、何事も無かった顔でまたモリーの名を呼ぶ。
「二人ともどうしたんだ?」
 モリーは伏せったまま。体調が悪いのだろうか? リックが二人に近づく。
「オズワルド、どうしたんだ?」
「モリーが起きないんだ」
「起きない? モリー、旦那がおかしなこと言ってるよ」
 肩を軽く叩く。
「……モリー?」
「起きないんだ」
「オズワルド、いつからだ?」
「昨日帰った時にはもう寝てしまっていたんだ。モリー、リックが来てるんだ。起きなさい」
「――オズワルド」
 残念だとリックは首を振る。
「モリー……モリー、お願いだ」
「死んでるよ」
 リックははっきりオズワルドに告げる。冷静で、頑固で、真面目で。およそ取り乱すということの無いオズワルドが自分を見失っている。
「モリー……」
「しっかりしなよ、オズワルド」
 強く背中を叩く。オズワルドはようやく存在に気づいたかのような顔でリックを見上げた。
「リック……?」
「モリーをきちんと送ってやらないと。いつまでもこんなところに寝かといちゃ可哀相だよ」
 オズワルドは不思議そうな顔でモリーとリックを見比べ、低い声で同意した。
「じゃあ手配を――」
「私がするよ」
 リックの言葉をさえぎり、オズワルドは留守を頼む。
「すまないが、あんたの荷物を届けないと」
「そうか、そうだな。じゃちょっと待っててくれ。隣に声をかけてくるよ」

 神父を呼び、葬儀の準備をし、バタバタと忙しく人が入れ替わり立ち代りしながら時間が過ぎた。嫁いだ娘達がそろって顔を見せ、泣き崩れた。
「気を落とすな」
 幾人にもそう声をかけられ、オズワルドはそのたびに苦笑を返した。自分がそんな風に見えるのかと。
 棺の中で眠るやつれきったモリーの顔を見て、人々は哀しそうにため息をついた。血の通っていない蝋人形のような白い顔ながらも、モリーは安らかそうな顔で目を閉じている。モリーが好きだった花を棺の中に入れてやり、棺の上にもたくさん飾ってやった。埋葬の間、神父の声が朗々とあたりに響いていたが、オズワルドの心の中にとどまることなく、風と同じように吹きぬけた。

 葬儀が終わり客も帰った頃になって、次女はオズワルドが仕事に打ち込み過ぎた為、母の様態の変化に気づくのが遅かったのだと責めた。長女は何も言わなかったがオズワルドと目を合わせようとはしなかったし、三女はオズワルドを睨みつづけた。末娘はただ「母さんが許していたから、私は何も言わない」と言った。
 久々に顔を合わせたというのに、まともな会話などできなかった。モリーがいたから家族としてあれたのだと、オズワルドはその時になってやっと悟った。仕事をしなければ生活できなかった。家のことはすべてモリーに任せていた。娘達と会話は無かったが、そんなものだろうと思っていた。けれど、それは自分への言い訳でしかなかったのだ。
 弱弱しいながらも数日前まで確実に生きていたモリーだったのに、家の中から完全に姿を消してしまった。何もすることが無く、オズワルドは時が止まった家の中で茫然と日々を過ごした。
 みかねた顔で末娘がたびたび顔をのぞかせ、小うるさく老いた父親に指示を出した。花を植え替えろ、水をやれ、掃除をしろ、扉を塗り替えろ……やりなれない作業ばかりだったが、次第に手順を覚えた。

 あれから半年も経ち、忙しさに忙殺され、哀しみも癒されてきた頃、ようやく遺品の整理に手をつけ始めたオズワルドは再びあの手紙を手にとった。

 お帰りなさい
 さようならを言う時間がどうやらなさそうです
 今まで私のためにありがとう
 これからはご自身のために生きてくださ――

 涙がこぼれた。いままで、生きるために、生活をするために眼鏡を作ってきた。オズワルドはそれ以外何も知らないのだ。モリーを失って、より自分が何もできない人間だとつきつけられた。自分自身のために生きろと言われても、どう生きれば良いのかとんと見当がつかない。
「父さん、お昼にしましょう」
 戸口に立った末娘が告げる。部屋の中には入ってこないのは幸いだった。背中を向けていたオズワルドは眼鏡をはずし、涙を手の甲でぐいっとぬぐい、部屋を後にした。

 末娘はモリーがよく口ずさんでいた歌を鼻歌で歌いながら、料理をテーブルに広げる。
「それ、なんて歌だったかな」
「歌詞? えぇっと……」

 朝焼けの蜘蛛が張った霧網に
 夜露が絡まりできあがる
 さぁそれは、遠く遠くまで見通せる
 水と光が産み落とした子供

 同じ歌だと言うのにモリーと違って歌がずいぶん陽気だ。末娘は鍋のスープを混ぜる手はそのままに、
「父さんもきちんとした眼鏡を作ればいいのに」
 妙なことを言う。
「……作っていたじゃないか」
「あれはフレームでしょ? そうじゃなくて眼鏡よ。フィオターゼを磨いて、はめ込んで――」
「今は眼鏡ってのは分業で作るもんなんだ。一人で全部作ることなんて無いさ」
「でも、」
 末娘はスープを注ぎ分ける。
「その眼鏡は一人で作ったんでしょ?」
 オズワルドが掛けた古い眼鏡を指差す。
 そうだった。ずいぶん昔の話だが、あの頃は眼鏡を最初から最後まで一人で作っていたのだ。親方に弟子入りしたものの、フィオターゼ掘りと、フィオターゼの初期加工ばかりさせられて腐っていた頃、親方に「お前等ひよっこが眼鏡を作るなんて百年早いんだよ。だがな、そんなに言うんなら、一つ、てめえ等で立派な眼鏡を作ってみろ」と言われたのだ。寝る間を惜しみ、夢中で眼鏡を作り上げた。
 出来上がりは親方の予言した通り、とても売り物にはならないもので。でも、親方は笑いながら「ま、そんなもんだろうよ」と笑ったのだ。
 一つ思い出すと次々あの頃の思い出がよみがえる。眼鏡を作ることの喜び、楽しさ。フィオターゼ堀りは大変だったが、見つけたときは嬉しかったし、それが純度の高いものだと親方に誉められたものだ。
「父さん、」
「ん?」
「冷めちゃうわよ」
「あぁ」
 食事に手をつける。だが、オズワルドは眼鏡作りへの思いは膨らむばかりで満足に食事を味わうどころではなかった。

 あれから一ヶ月経った。いてもたってもいられなくなったオズワルドは昔通っていたフィオターゼの採掘場へと足を向けた。街からはずいぶん離れた辺鄙な場所だ。遠い記憶で忘れかけていたが、近づくと記憶が鮮やかに蘇ってきた。フィオターゼを担いで何度も通った道だ。あまり人の入り込まない、澄んだ水のある場所程、良いフィオターゼが採れる。フィオターゼ掘りをしている連中でも、途中の道の悪さ、運び出しの困難さを考えるとここには手をつけていないだろう。
 若い頃のことを思い出し嬉しくなる。あの頃、不平を言いながら通った道をまた再び歩くことになるとは思わなかった。疲れを訴える体に鞭打つ。小さいながら澄み切った湖水はあの頃ときっと変わらないだろう。誰にも手をつけられていないはずだ。何年ぶりになるだろう、心を弾ませながらオズワルドは歩を早めた。
「ん?」
 オズワルドは眉を潜め、耳を澄ます。前方から男の声が聞こえた気がした。疲れからきた幻聴だろうか。眼鏡を掛けなおす。目指す湖はもうすぐのはずだ。
 見習時代、一日に何度もこの獣道を上り下りしたこともあったが、この年齢で歩くのには骨が折れる。とにかく足場が悪い。
 さらさらと清らかな水の音が聞こえる。湖から溢れるように、いくつもの流れが生まれ、合流し、やがて川になってゆくのだ。最初に見たときはそれに感動したものだと苦笑する。あの頃は何でも楽しくて、面白くて。いつの間にそんな気持ちを忘れてしまっていたのだろう。
 木々をかき分けると澄んだ水が見えた。あの頃と変わっていない。
「懐かしいな」
 思わず口にした言葉に、
「懐かしいな」
 横から男の返事。ぎょっとその声の主を見やる。年齢は自分と同じか少し上。無愛想な男が穴の中に立っている。掘っていたのだろう、フィオターゼを。だが、どうしてこんな辺鄙な場所を知っているのだろう。秘密の場所を知っていたのが自分だけではないことにむっとしたオズワルドだったが、
「オズワルド、だったな」
「なぜ私の名を――サカルト? サカルトか?」
 オズワルドは忘れていた昔をまたひとかけら思い出す。一緒に眼鏡を作り上げた相棒を。フィオターゼが上手く磨けなくて、癇癪を起こしかけていたところ兄弟子であるサカルトが無言で手伝ってくれたのだ。そうして完成した眼鏡だったが、一人でできなかったことが悔しくて、でもありがたくて。あの頃は反発しながら、慕っていたのだ。
「覚えていたか」
 サカルトは懐かしそうに目を細める。
「そうか、サカルトか――老けたな」
「お互い様だろう」
 違いないと二人は笑う。

《続》


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作者/青野 優子