誘(いざな)いしフィオターゼ




 伝説のフィオターゼ。すべてを見通すことができるという、フィオターゼ。
 フィオターゼに携わる人間ならば、一度は聞いたことのあるだろう、夢見がちな歌だ。本気にしたことはなくとも、その幻のフィオターゼに思いを馳せた人間は多いはずだ。
「あれ、なのか……?」
 サカルトは、信じられないというふうに首を振り呟いた。
 柔らかな光を発しているのは、水面と岸との境目。フィオターゼを採掘する際には基本となるポイントだ。
 ――水と光が産み落とした子供。
 今ここには水と光が揃っている。
 はしゃいで走っていく少女の姿が、サカルトに何かを思い出させた。懐かしい何かだ。
 思い出そうとすると、
「どうしたんだ、サカルト。もしかしたらあれが、伝説のフィオターゼかもしれないんだぞ!」
 少女にすっかり乗せられたらしいオズワルドが、サカルトを急かす。おかげで思考は遮られた。
「あぁ……」
「どうした? 今になって怖くなったか?」
 サカルトの、心ここにあらずといった相槌に、オズワルドは挑発という形で応じた。サカルトはむっとした声を作り、
「何が怖いもんか。お前みたいに、伝説のフィオターゼを軽々しく拝もうという心構えじゃないってことさ」
「さすがは兄弟子だ、言うことが違う」
 オズワルドがそれにのって茶化す。


――いつか必ず、作るからな
――約束だからね


 ふと、自分の声でそんな台詞が再生された。いつか自分が発した言葉だ。それは覚えている。いったいいつ誰に、どんな流れで言った言葉なのか、まだ靄がかかっている。誰かが自分の言葉に返事をしている。楽しげに、弾むような声音で。
「さあ、早く行ってみようぜ。もしもあれが伝説のフィオターゼじゃなくても、かなり質のいいフィオターゼじゃないか。……久しぶりに、俺も眼鏡を作りたい」
 久しぶり、と口にするときに、オズワルドは少しだけ躊躇した。それだけ長い年月、彼は眼鏡のフレームだけを作ることに専念していたのだろう。
「大丈夫だ、オズワルド。工房で何を学んできた? たとえ年はとっても、あの時に身体で覚えたことは、そう簡単に忘れやしないさ」
 オズワルドの心配を察して、サカルトは先に口を開いた。
 言うたびに蘇る、あのころの記憶。


 眼鏡職人ばかりが集まるとおりの一角に、彼らが世話になった工房は門を構えていた。石畳が続く長い通りは、フィオターゼを削ったかけらでキラキラと輝いて見えた。
 それぞれの工房は、人々がまず目にする門や窓を綺麗に飾って自分たちの技量を誇示した。フィオターゼを薄く加工して何枚も重ねて花を作ってそれを窓辺に置いた工房。フィオターゼに特殊な加工をして色をつけ、日の光に反射すると幻想的な影をつくる看板を掲げた工房。普通は柔らかな局面を描くはずのフィオターゼを、鋭く曲げるように加工し、蔦の葉のようなオブジェで門を取り巻いた工房。
 そんな華やかな門が並ぶ中、彼らの工房はシンプルだった。窓辺に、これまでつくった眼鏡を並べておくだけなのだ。見る人が見れば、その眼鏡作りの技術が只者ではないことが分かるが、一般の人にアピールする力は少なかった。
 それでも、気に入っていたのだ。硬派で職人肌の、自分の親方が。
 普段は皆を怒鳴りつけてばかりの親方が、妙に上機嫌だった時があった。何でも、稀に見る美しいフィオターゼの原石を手に入れたとかで、弟子であるサカルトたちにはちらりとしか見せてくれなかった。特にオズワルドは、親方とケンカ中だったため一目拝むことさえ出来なかったようだ。まだフィオターゼの良し悪しまで分かっていない頃だったから、見せる価値がないとでも判断されたのだろう。
「親方のやつ、一人でフィオターゼを肴に酒を飲んでるらしい」
 最後まで工房の作業室の後片付けをしていたらしいオズワルドが、サカルトのもとへきたのは、夜も大分ふけたころだ。その日は満月で、ろうそくの明かりがなくとも月の光が差し込む窓辺でならば本が読めるほどだった。
 サカルトは、窓辺に椅子を持ってきて座り、職人仲間に借りた本を読んでいた。オズワルドの声に顔を上げ、思わず口を開いた。
「おまえ、その眼鏡……」
 サカルトの眼に飛び込んできた、彼のかけていた眼鏡。どう見ても店に売りに出ている眼鏡ではない。こんな品を客に出したら親方は烈火のごとく怒るだろう。もしかすると工房をたたんでしまうかもしれない。そんな出来の眼鏡を、オズワルドがかけていたのである。
「これはその、俺が全工程を自分で手がけたんだ」
 照れたらしく、オズワルドは眼鏡をさっと外してしまった。フレームもいびつで、フィオターゼの加工もまだまだ甘い。そこそこセンスがあったためにそれなりの外見になってはいるが、親方の作った眼鏡と比べるとまだまだ月とすっぽんだ。
 サカルトは思い出す。数ヶ月前に、オズワルドが親方と口論していたことを。もっと華やかな仕事をしたいというオズワルドに、最低限の道具は貸すから自分で一つ作ってみろ、と親方は啖呵を切った。どうやら、弟子としての作業の合間に、自分だけの眼鏡を作っていたらしい。
「そいつは、すばらしい出来だな」
 揶揄する言葉に一瞬赤くなったオズワルドだが、
「もっとうまくなってやるさ。――親方も、サカルトも越すくらいの腕になってやる」
 血気盛んなのはいいことだ、とサカルトは弟弟子のその言葉を笑って聞き流したものだ。そして、手元の本に目を戻した。
 ふと、月の光を何かが遮った。猫だろうか。窓の外を見やると、それは猫ではなくどうやら人間のようであった。まだ年端もいかぬ少女だ。こんな夜中にいったいなぜ、職人通りにいるのだろう。とてとて、と石畳をを音もなく――それだけ少女が身軽なのだろう――歩いていたが、不意に振り返った。サカルトと目が合うと、にっこり笑った。どうしていいかわからなかったが、とりあえず笑い返した。
「はじめまして、おじさん」
「ん、ああ……」
 自分ではまだ若いつもりだったのだが、おじさんといわれて少々傷ついた。そんなサカルトをいぶかしんだオズワルドが、彼の肩を叩く。
「どうしたんだ? 外に何かいるのか?」
「ああ。迷子かな……」
 サカルトは再び窓の外を見た。つられたようにオズワルドの首も動く。二対の視線を受け、少女はにっこりと手を振ると、
「またね、おじさん」
 再び道を軽やかに駆けていってしまった。フィオターゼのカケラがふとした拍子に跳ね上がり、きらきらと舞った。まるで幻か何かのように。
「なんだったんだ……」
 サカルトがポツリと呟くと、
「ねずみか何かか? 何もいないように見えたけど……」
 ねずみ? オズワルドにしては妙なジョークを飛ばす。
 そう思い、サカルトは肩をすくめて笑った。
「違うだろう、今の子だよ。いったいどこの家の子だろうな。こんな時間に」
「今の子? いったい何の話だ」
 どうやら、見えていなかったのだろうか。さっきの少女を、オズワルドは見逃していたのだろうか。いや、そんなはずはない。確かに同じ方向を向いていたし、少女の声だった聞こえたはずだ。――聞こえていないのか?
「サカルト、疲れてるのか?」
「……いや」
 今見えたものが想像の産物だとは思えない。でも、サカルトに見えたものがオズワルドには見えていない。とすると、彼女は人間ではないのだろうか。
 オズワルドは狐につままれたような顔をしながら、サカルトの部屋を後にしていった。
 と、窓の外にまた人影が現れる。
「なんだ、戻ってきたのか」
 外にいたのは、先ほどの少女だ。まるで、オズワルドがいなくなるころあいを見計らっていたかのようなタイミングだ。
「あのね、お願いがあるの」
「なんだ?」
「いつか、眼鏡を作ってほしいの」
 眼鏡職人の自分に、妙な言い方をする。
「眼鏡なら作ってるよ。それじゃあ不満かい」
「違うわ。――伝説のフィオターゼの、その一番綺麗な部分を使った眼鏡よ。今はまだ条件が揃ってないから作れないけれど」
 サカルトは声を上げて笑った。
「伝説のフィオターゼか。そんな夢みたいなことを……あぁ、まあいいさ。もしもそれに出会えたら、俺は必ず眼鏡を作る」
「約束だからね。――きっとそのときは、さっきのおじさんも一緒よ」
「さっきの……オズワルドか」
 この幼いお嬢さんにかかれば、去年ようやく成人したばかりのオズワルドさえおじさんなのだ。
「分かったよ。でもあんたは……」
 何者だ。
 そう訊ねるつもりだった。が、瞬き一つする間に、少女の姿は消えていた。
 サカルトは、何気なく手にしていた本に目を落とした。
 そこには、こうあった。

 一つの伝説には、一つの付随した言い伝えがある。
 伝説のフィオターゼには、一人の少女の形をした妖精がついていて、フィオターゼを見つけることの出来る人間には、彼女の姿も見えるのだという。
 その少女の名は――

 サカルトは微笑んだ。
「そうか、そうだったんだな」
 フィオターゼを使用するに足る人物の前に現れる、“真実”という名の少女。
「サカルト、早く来てってば!」
「あぁ。分かってる」
 湖の光を受けて、無邪気に自分を呼ぶ少女。
「サカルト、来て見ろ。これはもしかすると、本当に……」
 興奮を隠しきれないといった様子の、弟弟子。
 条件はどうやら揃ったらしい。
 サカルトはゆっくりと歩き出す。若草を踏みしめると、さわやかな音がした。日差しを遮る木の葉が揺れて、湖にゆらゆらと模様を描く。その中で、ひときわ輝く水面。まるで、自分たちを待ちわびていたかのような、優しく抱擁するかのような光。
「じゃあ、拝んでやるとするか、その」
 伝説のフィオターゼとやらを。

《了》


表紙 - 前項

作者/ 月村 翼