眼鏡を作る理由と眼鏡を作り出すための光




 湖から流れ出す小川のせせらぎが耳に心地よい。
 水の流れが作り出す音は、なぜこんなにも人々の心を穏やかにさせるのだろうか。
 それは、懐かしい感情を呼び起こす。
 遥か昔、まだ人がヒトとして生まれる前の記憶。
「フィオターゼを掘りにきたのか?」
 目の前に現れた懐かしい姿に昔の面影を重ねながら、サカルトは口を開く。
 遠い昔、共に眼鏡を作った相棒。
 蔓のゆがみを共にチェックし、フィオターゼのかたちを共に悩んだ人生の仲間。
 深く刻み込まれた皺にあのころの面影は感じられないが、それでも何かを始めようとする瞳の色だけはあの頃のままだ。
「ああ。サカルトも……か?」
 先ほどまで少女と話していたため、サカルトの手にはシャベルが握られていない。
 しかし、この場所にいるということは、フィオターゼを彫りにきたということ。
「そうだ。フィオターゼの在庫がなくなっちまったからな」
 地面に置いていたシャベルを手にとって、サカルトは小さく笑う。
 そこで、ふと先ほどまでのやり取りを思い出す。
 フィオターゼを掘るあいだも常に自分の隣にいた小さな少女。
 彼女は、『ひとにあらざるもの』。
 オズワルドに彼女を見ることはできないから、逆に彼女には目の前のこの男が何者なのか気になるだろう。

 ――ん? そういえばあのチビはどこにいった?

 少女のことを思い出したサカルトは、今まで隣にいた少女の姿が見えないので思わず周りを見渡そうとする。
 すると、それより先にオズワルドの声が耳にとびこんでくる。
「そっちの子はサカルトの……孫か?」
「あ?」
「ほら、サカルトの後ろに隠れている小さい女の子だよ。娘……にしては少し幼すぎるだろ?」
 そう言って、オズワルドはサカルトの後ろに視線を送る。
 振り向いたサカルトの目には、きょとんとした表情の少女が立っている。
「あなた、あたしが見えるの?」
「見えるもなにも……そこにいるじゃないか」
 自らを指差す少女の言葉にオズワルドは当然の表情で頷く。
 その言葉に、少女ではなくサカルトが大きく目を見開く。
「あたしは――」
「こいつは近所のガキジャリだよ」
 少女の言葉をさえぎるように慌ててそういったサカルトは、オズワルドの顔を見て話題を変える。
「それより――その眼鏡、まだ使っていたのかよ」
 サカルトの後ろで『あたしはガキジャリじゃないわよっ』と抗議している少女を無視して、オズワルドの鼻の上にちんまりと乗っかっている平べったいフレームの眼鏡に目をやる。
 それは、もう何十年もオズワルドと人生を共にしてきたもの。
 サカルトにとっても懐かしい、修行時代の思い出の品。
「ああ。やっぱりいろんな意味で愛着があるからな」
「だろうなぁ。お前さんがその眼鏡に一生懸命になっていた頃を思い出すよ」
 自らの眼鏡を手で触れながら静かに答えるオズワルドに、サカルトはしみじみと時代をさかのぼる。
 懐かしい、懐かしい思い出。
 それは、日の光を受けてキラキラと輝く水面のようで。
 それは、サカルトにとってまだ見たことが無い極上のフィオターゼのようで。
 楽しいことも苦しいことも、すべてが詰め込まれた職人として最も重要な時代の出来事。
「おじさんは、サカルトにとってどういう関係の人なの?」
 サカルトに口をはさまれた形となった少女は、二人の間に入ってにっこりと笑う。
 おそらくサカルトは少女の存在をオズワルドに知られたくないと思ったのだろうが、少女にとっては数少ない自分の存在を認めてくれる相手だ。
 しかも、その人物はどうやらサカルトと同じようにフィオターゼを掘りにきているらしい。
「サカルトとは修行を共にした仲間だよ。俺のほうが弟子入りは後だったから、修行時代はとても世話になったな」
 少女の突然の質問にも無愛想なままきちんと答えるオズワルドに、サカルトも横で小さく頷く。
「ふぅん。ということは、おじさんも眼鏡職人なのね?」
「眼鏡職人……かと問われると、そうだともいえないんだがな。最近はもっぱらフレームのみを作っているから」
 オズワルドの表情が暗く沈む。
 少女の問いに答えつつ、その向こうにいるサカルトのほうを正視できない。
 眼鏡職人を目指すものとして修行をしていた自分たちにとって、いくら分業体制になったからといって、フィオターゼを削る作業を辞めてしまったことは知られたくないものだ。
 とくに、同じ目的に向かって修行をしていた仲間には。
「でも、フィオターゼを掘りにきたっていうことは、おじさんも眼鏡そのものを作ろうと思ったんでしょう?」
 オズワルドの気持ちを知ってか知らずか、少女はあどけない口調でそう問い掛ける。
 そんな少女の言葉に、オズワルドは思わず顔を背ける。
 甦った気持ち。
 もう一度一から眼鏡を作ってみたいという想い。
 その想いがあふれて、オズワルドは再びこの地に足を踏み入れたのだ。
 一番大切なものをなくしてしまった今、オズワルドにとって眼鏡作りは唯一自分がこの世界に見出した希望なのだ。
「オズワルド……。お前さん、なにかあったのか?」
 オズワルドのその様子に、少女の後ろからサカルトが心配そうに声をかける。
 目の前の男の表情には、昔あったはずの輝きが失われていた。
 共に眼鏡を作っていた頃、口は悪いが誰よりも一生懸命だったのがこのオズワルドだ。
 いつか独立して自分の思い描く眼鏡を作る。
 サカルトにそうぼそりと漏らしていたあの頃の青年には、強固な意志と果てしない希望が見えていた。
 だが、今のオズワルドにはその強い意志も希望も見つけられない。
 眼鏡に対しても、自分の人生に対しても、どこか投げやりな空気が伝わってくる。
 先ほど、出会ったときに感じた瞳の輝きも、こうしてみるとどこかくすんだものに見える。
「……別に」
 サカルトの問いかけに言葉少なに答えるオズワルドをじっと見つめていた少女は、はっと何かに気が付いて口を開く。
「おじさん、大切な人を亡くしたのね?」
 小さい鈴の音のような透明な声。
 その声が、オズワルドの心の中にある大切な人を思い出させる。
 優しく、幸せそうな笑顔をしていた大切な女性、モリー。
「大切な人?」
「そうよサカルト。あたしにはわかる。おじさんを残して先に逝ってしまう彼女の心残りな気持ちが。彼女、今でも心配してるわ。おじさんがなかなか自分のために生きてくれないから」
 サカルトを見て言葉を続ける少女に、オズワルドは小さく震える。
 モリーが最後に残した手紙の文章が脳裏に甦る。


 これからはご自身のために生きてくださ――


 オズワルドに直接伝えることができなかったモリーの気持ち。
 娘たちのため、そしてモリーのために自分の夢であり希望であった眼鏡作りを断念したオズワルドに対するモリーの願い。
「彼女、おじさんにもう一度自分のために眼鏡を作って欲しいのよ。他の誰でもない、自分自身のために一から眼鏡を作って欲しいんだわ」
 まるでモリーから聞いてきたかのように、少女はそう口にしてオズワルドの顔を覗きこんで微笑む。
 まだ十かそこらの少女の顔が、六十間近のモリーの顔とダブる。
 優しい、柔らかな微笑みをしていたモリー。
 そんな微笑みをした少女の笑顔には、オズワルドの心のやわらかな部分を優しく刺激する何かがあった。
「ああ」
 何かが、頬を伝う。
 苦しくて悲しくてやりきれなくて。
 もう一度、眼鏡を作ろう。
 誰のためでもなく、自分のために。
 少女の言葉に、オズワルドは素直にそう思えた。
「ってことは、いいフィオターゼを掘り出さなくちゃならねぇな」
 深く頷いたオズワルドの肩に、サカルトは大きく節ばった手を乗せる。
 今まで、何百、何千というフィオターゼを削ってきたサカルトの手。
 その手の重みを肩に感じながら、オズワルドはしっかりと頷いた。






「ねぇ。おじさんはあのフィオターゼを探すつもり?」
 黙々と地面を掘りつづけている二人の職人を大きな切り株に腰掛けて眺めていた少女は、ふと思いついたようにオズワルドに話し掛ける。
「あのフィオターゼ?」
「そうよ。『朝焼けの……』っていうやつ。眼鏡職人なら一度は手にしてみたいものじゃないの?」
 サカルトはそうは思ってないみたいだけどね、と少しの口を尖らせて言葉を続ける。
 向こうでサカルトが小さく肩をすくめるのが見える。
 しかし、そんな少女の言葉にオズワルドはきょとんとした表情をする。
「『朝焼けの……』? それはなんだ?」
「え?! おじさん知らないの?」
 そう言って、少女は瞳を閉じてゆっくりと言葉を紡ぎだす。
 ふわりと花びらが舞うような、優しい声で。


 朝焼けの蜘蛛が張った霧網に
 夜露が絡まりできあがる
 さぁそれは、遠く遠くまで見渡せる。
 水と光が産み落とした子供


「あ……!」
 それは、生前モリーがよく口ずさんでいた歌。
 この間、末娘が楽しげに鼻歌で歌っていた歌だ。
「知っているでしょう? このフィオターゼで作った眼鏡は、どんな時でも、どんな場所すらも、全てを見通せるって話」
「伝説だ」
 それまで肩をすくめて少女の話を聞いていたサカルトが、はっきりとした声で二人の会話に割り込んでくる。
「たくさんの人間がそのフィオターゼを探しているが、結局見つけられずじまいだし、古い詩になるぐらい昔からあるもんなのに見つからねぇってんだから、んなもんはねぇんだよ」
「そうかしら? もしかしたら今この場所にその伝説のフィオターゼが眠っているかもしれないわよ?」
「んなことはねぇよ」
「そんなこと、探してみなくちゃわからないじゃない」
「あるかどうかわかんねぇもんを探すのは無駄だっていってんだよ」
「無駄かどうかなんて、やってみなくちゃわかんないじゃないっ」
 頑として譲らないサカルトと、そのサカルトにムキになって反抗する少女の様子を微笑ましげに見ていたオズワルドは、ふと動かした視線の先、ちょうど湖との境目に淡く光る場所を見つける。
 優しい、あたたかな光。
 それは、魂を浄化するかのような、聖なる輝き。
「だいたいサカルトは頑固すぎんのよっ!」
「んなことねぇだろうが」
 相変わらず口喧嘩をしている二人はあの光に気づいていないようだ。
 オズワルドのこぶし一つ分ぐらいの小さな光。
 ユラユラと揺れる湖の水面に反射してそれはより一層幻想的な空間を作り出している。
「な、なぁ」
 口喧嘩が一段落ついたのか、再びシャベルで土を掘り始めたサカルトに、オズワルドは恐る恐る話し掛ける。
 伝説の、フィオターゼ。
 それは、水と光が産み落とした子供。
「どうかしたか? オズワルド」
 土を掘る手を止めたサカルトに、オズワルドは光が発している場所を指差す。
「あ、あれ」
 オズワルドの指差した先には、ひっそりと光が見えている。
 淡く優しい小さな光。
「もしかして……あれ、じゃないのか?」
「そうよっ!」
 オズワルドの声に、サカルトではなく少女が反応する。
 そして、切り株から立ち上がって光のほうへと走り出す。
「ま、まさか……」
 光に向かって走り出す少女をぼんやり見つめながら、サカルトは小さく呟く。
 嬉しそうに駆け寄っていく小さな少女。
 その先には、まぼろしのフィオターゼが眠るかも知れない、優しい光。

《続》


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作者/真冬