黒田棗の憂鬱




 俺は息を飲んだ。
 さっきまであんなにもすらすらと出てきた言葉の数々が、この瞬間に出せないのは何故だろうか。――真っ白になるというのは、こういうことなのかもしれない、と薄っぺらい台詞が空っぽの頭を横切っていく。
 俺の目の前に居る捺芽は、そんな俺の思いなんてまるで知りません、と言わんばかりにガラスの向こう側から真っ直ぐと俺の視線を捕らえる。まったく、ホント男心ってのがわかってないヤツだ。
「なぁ、聞いてんのかよ捺芽」
 やっとの思いで吐き出した台詞がこれだ。しかしどうやらこの台詞は間違いだったようだ。なぜなら真っ直ぐこちらを見ていた棗の視線がすぐに逃げたから。まぁ自分でもこれはいかんだろうとは思ったが。

 よし。とりあえず誤魔化そう。
「じゃあお前、返事位しろよ? 今日、泊まってっていいか、って俺聞いたんだけど」
 全然ダメだ。誤魔化しでも何でもないじゃないか。ただ言葉を繰り返すだけなんてオウムでもできるんだぞ? 落ち着け俺!
 それに改めて考えると随分と恥ずかしい事を言ったもんだ。顔が赤くなっていないか心配になるくらいだ。捺芽にこの気持ちを気付かれたらもっと赤く大きく腫れた顔になるだろう。もちろん自分で自分の顔をひっぱたくからだけど。

「泊まって、って、うちに?」
 捺芽の口から確認の声が返ってきた。しかもその声は普段のものとはなんだか違う。やっぱりいくら幼なじみという関係でもさすがに前進しすぎたか?
「お前んち以外のどこに泊まるっつうんだよ」
 そして反省という言葉を知らない俺。これだと怒らせちまうだけじゃないか!
「……な、んで?」

 やばい。
 やばいやばいやばい。
 この声はやばい。こういう時に幼なじみ効果は役に立つ。捺芽のこの感じは完全にわからない状態じゃないけど、わからないフリをしてる時のものだ。どうしよう、バレれちまう。いや、泊まれたら勢いに任せて言おうとは計画していたような気がしたが今はまだダメだ。

 とにかく誤魔化す。さっきからこればっかりだが、これしかできないからしょうがないじゃないか。
「何でって、お前」
 ようやく過去の失敗が役に立つ。すらっと声がでないのはさすがに不自然だがさっきまでの調子で、ただなんとなく、だとか言った日には一生幼なじみなままだ。
 とりあえず捺芽から視線を外す。外してから気付いたのだが、捺芽を見るから焦って行動がおかしくなるんじゃないのか? もしかしたら今の行為は超ファインプレーかもしれない。
 そして良き行動は幸運を呼ぶ素。それはあたかも必然の如く、外した視線の先に偶然にあった。

「そりゃあ、この続きをやるからに決まってんじゃねえか」
 コントローラーを片手に、そしてもう片方の手はテレビを指して言った。
 この言葉は完璧だ。どう考えても普段と同じ振る舞い。とてもさっきまで緊張のあまりごくっと息を飲んでしまったり、頭を空っぽにしてしまったとは思えない。
 あまりの自分の聡明さに自然と笑顔になる。いや、これは無意識の立ち振る舞いかもしれない。普段の俺ならここで笑ってるだろうし。


「――勝手にすれば!」
 捺芽は返事にもなっていない言葉を言い放ち、ドタドタと大きな足音を立てて部屋の外へと走り出て行ってしまった。
「ちょっと捺芽、何だよそれっ」
 慌てて捺芽を留めようと声をあげる。だが返事はなかった。
 そしてしばらくすると、ばたん、と大きな音がした。部屋の扉を閉めた音だろうか? どうやらかなり怒らせてしまったようだ。
 俺はそのまましばし呆然とした。


 いつからだろう。あいつを女の子として意識しだしたのは。
 いつも隣にいる女の子に俺はいつしか『幼なじみ』以上の感情を抱いていた。まぁ捺芽は、俺のことなんかなんとも思ってないんだろうけど。もし俺のことを少しでも異性として意識しているなら、普通毎日のように俺を部屋に入れたりしないだろうし、あそこまで憎まれ口を吐いたりはしないだろう? ゲームをやりにいくという理由で行っているわけだが、少しでも俺を男としてみているならソフトを貸す、という手段で俺の行為を阻止することだってできるはずだ。
 まぁ簡単な話、なんとも思われてないのである。そしてそれを毎日確認させられているわけである。あぁ、悲しいかな悲しいかな。

 捺芽にとって俺は結局のところただの幼なじみ。そりゃあそんなのわかってるさ。少し前までは俺も全然そんなこと気にしていなかったし。気が合う同じ名前の女の子としてしか見ていなかった。
 けれどあくまでそれは前までの話。俺もそれなりに男の子をしていて、それなりに思春期を迎えて。気付いたらこんなんになってたわけだ。そりゃあ最初は捺芽に一番近い存在ってので満足してたよ。ただそれだけでよかったんだ。でも、今は……それじゃ足りなくなってる。はぁ、人間の欲求とはおそるべし! ってとこだな。

 ──実際のところ、捺芽は俺をどう思ってるのだろう?
 やっぱりただのクソうるさいお隣のガキンチョ扱いなんだろうか?


 一人でいたからか。それともただ純粋に冷えただけなのか。俺の体は少し寒気を訴えた。外を見るともう夜になっていることを確認できる。なんか深く考え込んでしまったようだ。俺としては珍しい。場所が場所なだけに捺芽のことを考えちまうだけか?
 とりあえず部屋の主がいないのに居座るわけにはいかない。というか目的が果たせなくなったのにここにいてもしょうがない。あいつも怒ってる感じだし今日は帰るとしよう。
「おじゃまさまー」
「はーい、またきてねー」
 今日はさすがに玄関にはきてくれず、代わりにおばさんが来てくれた。それはそれで嬉しいのだが──やっぱりあいつのほうがいい。
 そうして見送りをしてもらい、俺は本城家から本来いるべき家と戻った。



 どす黒い青色をしたシャーペンを回す。いわゆるペン回しという妙技だ。俺はこれを習得してからというもの、技の改良に改良を重ねている。つまり結構長い間やっている熟練者ということだ。まぁこんなことばっかりやってるから宿題をやったりすることができないんだが。
「それじゃあこの問題を黒田。この式の解はなんだ?」
「5です」
 ぼーっとペン回しをしていた俺を先生が見逃さずに問題指摘してきた。もちろん即答。もちろん適当な答え。
 廊下に立ってろ、というような時代錯誤なセリフを吐くほど先生は化石教師じゃない。逆に褒めちぎってクラスのみんなに真似をしろと言ってくるような人間だ。まぁそれが俺に対する宛てつけなんだろうが。ある意味やりにくいのはベテラン教師だからなのか?
 一通り嫌味を聞いた後にちゃんとした解を導き出し授業再開。別に俺は馬鹿ではないのだ。ただやらないだけで。世間一般ではそれを馬鹿というのかもしれないけど。


「相変わらず場の空気を読まずによくもまぁあれだけ暴走するなぁ、黒田」
「うっさいなぁ」
 休み時間中にからかうように告げられた言葉に、俺は嫌々返事をした。いや、嫌々そうな返事をしたと言ったほうがいいか。幾度と無く繰り返されているこの儀式はある意味条件反射といっても過言ではない。何年もの修行の成果といったところか。
「お前さっきは全然集中してなかったな。もちろんペン回しの話だけどね。何かあったんか? ──ああ、本城絡みか?」
 たった今思いついたかのようにあくまで軽く。
「……そういうのは初心なヤツに言ってやれ。その方が反応おもしろいぞ?」
「そうだな。おもしろいな」
 ゆったりのっそりと振り返ってみればこれまた気だるそうな姿を持つ斉藤。片方の手には、俺が授けた赤ペンをくるくると回していた。
「……なんだ? 俺が初心なヤツってことか?」
「まぁそこは否定しない。黒田はすぐ顔に出るからな。それよか突っ込むところが違うんじゃないのか?」
 言われて気付く。思った以上に呆けていたようだ
「お、俺ってそんなにわかりやすいのか? 」
 少し照れ隠しのためにペンをくるくると回す。弟子である斉藤は感嘆の声を上げながらも、首を縦に動かした。

 どれくらい俺がわかりやすい奴なのかはわからない。そりゃあ俺だからな。俺が俺のことをわかってたらどれだけ楽に生きていけることか。そんでもって斉藤の言うとおり本当にわかりやすいのかどうかもわからない。こいつだけが無駄に観察力、洞察力等のなんとか力に鋭いだけなのかもしれない。それにこいつは俺にとってはぺん回しの弟子。身内の事情を知っているのも当然なのだ。他のヤツらより俺を見る目があってもおかしくはないだろう。
 だが実際はどうなんだろか。俺がここでいろいろ考えても答えを得ることができない、ってのはわかっちゃいるがやっぱり考えてしまう。
「なぁ。俺ってどれくらいわかりやすいんだ?」
「それについては答えられないなぁ。あんまり言うと面白味が欠けちまうからな」
 なんと非情な奴だ。まぁそれは見かけだけなんだけれども。とりあえず今の返答は無答というわけではない。っていうか的確に解説してくれているくらいだ。
 面白味が欠けるから言わない、ということで今現在はおもしろいということになる。つまり俺はわかりやすいということになる。なんと鮮やかな推理。ワトソン君がいなくても大丈夫みたいだ。
 でもそれならそれで不都合がある。わかりやすいという事はもしかしたらアイツもわかっているのかもしれない。俺があいつの幼馴染であると同時に、あいつにとっても俺は幼馴染だ。人一倍俺の行動パターンを把握しているに違いない。

「もしかしてアイツもわかってたりするのか?」
「アイツって本城か? そんなの本城じゃない俺が知るかよ。直接聞くとかのアクションを起こして自分で確認してくれ」
 それができないから聞いてるんじゃないか。っていうかそういう大切な事をそんなに簡単に聞けるわけないじゃないか。まぁ斉藤の意見は間違っちゃいないのだが。
「行動……ねぇ……」
「一発おもいっきり殴るとかいうのはナシだからな」
 俺が色恋沙汰の話をするのが気に入らなかったのか、さっきからキツめの言葉を吐いてくる。普段の俺なら便乗するところだが、それは今の俺では難しいところだ。英検準二級をとるくらい難しいんだ。

 くるくるとペンを回す。それは俺だけではなく斉藤も含めて。考え事をするとこれが出てしまうのは一人前の証なのだろうか? と喋ってたりしていると、斉藤が興味深い話を始めた。
「お前がわかりやすいってのは多分本城も知ってると思う。ま、本城も鈍さという部分ではお前といい勝負だからな。っていうか、むしろあえて気付いてないふりをしているだけかもな」
「おいおい。あえて、って何だよ」
「あぁ? お前らでしか通じない何かのためにじゃないのか?」
「だから何だよそれ。意味わかんなぇし」
「……放置プレイ?」
 とりあえずツッコミという名の拳をお見舞いする。一応斉藤もツッコミと認識してか俺のを見事に受け入れる。まぁそのあと怒ったのは言うまでもないが。


 学校が終わり、帰宅途中に考える。
 何を考えるべきかという点から考える。
 斉藤の言うとおり、何かしら行動をするべきだろうか? だが昨日綺麗に失敗したばっかりだし。
 そもそもなんで失敗したんだっけ?
 あぁそうだ。俺がちょっと暴走しちまっただけだ。……ちょっとじゃないかも。
 じゃあ今度はもっとしっかり冷静になれば成功するのか? いや、それはないだろう。
 なんでそれはないのだろうか? そういえばなんでだろう?

 かつん、と石を蹴りながら帰路を辿る。
 考えにならない考えをしながらただ家に向かって流れていく。
 自然と歩幅は小さく、速度はゆっくりと。考えているときは注意力散漫になるからしょうがない。

 ──あれ? っていうかなんで俺はそんな頑張ってるんだ?

 そうだよ、なんで頑張ってるんだろう? 大体考えること自体が俺には合わないんだ。それに別に今すぐじゃなくてもいいんじゃないか? そうだそうだ。何を俺は焦っていたんだ? 進展は欲しい。が、あくまでゆっくりでいい。走らなくても歩いても結局は進むんだ。確実な土台を確実な一歩で踏みしめよう。
 そう考えたら足も心も軽くなった。いや、考えないようにしようと考えるってのもなんだが変な感じだがそこは別に気にしない。それこそ考えないってやつなんだからさ。


「ただいまー」
 毎日行なういつもの儀式。
 部屋に戻りカバンを置いてまた逆戻り。
 台所で一杯の水。これがなぜかうまい。
 今日の新聞をさらっと見る。もちろん経済とかじゃなくてチャンネル欄。
 確認し終えたらそしてそのまま本城家へ。

 玄関のドアを開ける。
 学校帰りじゃないというだけでなぜか訪れる開放感。
 ただお隣の家に行くだけなのに感情が明るいそれになるのはなぜだろう。
 そう。それは捺芽に会えるからであっ
「ってダメじゃん!」
 いかん。あまりに普段の行動に馴染んでいたから今まで気付かなかった。
 さっき十分考えたじゃないか。ゆっくり進むことにするって。
 ……あれ? ゆっくり進むんだからいつも通りに捺芽んとこにいけばいいのか?
 でもなんで普段通りだと捺芽んちに行くことになってんだ?

 本城家の前で立ち尽くす。さっきまで考えまいとしていたためか、いったん考え始めると思考が洪水の如く暴れだす。それをせき止めようと、普段の行動を再始動。普段の何気ない行動をとることにより、普段取っていない考えるという行為を打ち消そうという寸法だ。
 だがたまにはこういうことがあってもいいらしい。さっきまで疑問であったものの答えがぽろっとでてきたからだ。

 なぜ捺芽の前で冷静になって物事を進めても成功しないか。
 なぜ普段通りだと捺芽んちに行くことになるのか。

 それは幼馴染だからだ。

 相も変わらずこの壁はデカく厚い。これのせいで思い切った行動ができないはずなんだ。
 人間誰しも失うという行為を好きにはなれない。その失うものが好意を持つものであるならなおさらだ。幼馴染という絆は一生失うことは無い。だがそれゆえに失うものがある。それが怖いんだ。

 さっきの洪水鎮圧で行なったコトは本城家のドアを開けて玄関に入ったところまで。
 本当に普通に入ってこれるお隣の家。
 日常の一つに組み込まれた他人の家。
 なんて居心地のいい第二の俺の家。

 ──それを俺の決意のために切り離すことになるとは。


 俺は眼鏡を外し、靴箱の上に置いた。
 今俺が持っている所有物の繋がりで一番大きなものはこれだろうから。

 そして俺は自分の家に帰る。
 行動での繋がりはたったこれだけで失くなるだろう。


「ただいまー」
 いつもと違う時間に帰ってきた。妙に変な感じがする。そう感じたのは俺だけじゃなく、家に居た母さんも、今日は行かないの? と不思議そうにしていた。
 昨日までの俺なら夕飯を食べる時間に帰りそのままおいしくご飯を食べてたわけだ。だけど今日はその時間まで大分ある。それまで自分の部屋でたまには宿題でもすることにしよう。

 スペアの眼鏡を掛けて机に向かう。だがその行動が10分も続くことはなく、いつのまにかペン回しの練習になっていた。
 いつもなら捺芽んちでゲームをやってる時間。早く感じていたこの時間帯は自宅ではひどくゆったりと感じられた。
 今頃捺芽はどうしてるだろう? 俺の眼鏡を見つけて何か感じ取ってくれているだろうか? それともそのままスルーして部屋に行き、棗がいないからゲームができてやったー。などと喜んでいたりするのだろうか?

 あぁ、こんな中途半端な決意をするんじゃなかったな。俺の計画はどうなるんだろう? 今手の上で回っているペンのようにスムーズにくるくると回ってくれるだろうか? それとも斉藤のするペン回しのように狂狂と回るのだろうか?

 それは神のみぞ知る。もとい捺芽のみぞ知る、である。

《続》


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作者/エムダヴォ