青鼠の空と鈍いドリブル、残されたもの
あたしは、一つ、息を飲んだ。
さっきまであんなにもすらすらと出てきた言葉の数々が、今、この瞬間に出てきてくれようとしないのは何でなんだろう。――真っ白になるっていうのは、こういうことなんだなと、そんな薄っぺらい台詞が白い頭を横切ってく。
あたしの目の前に居る棗は、そんなあたしの思いなんてまるで知らないように。ガラスの向こう側から、真っ直ぐな視線を向けてきた。
「なぁ、聞いてんのかよ捺芽」
眼鏡の細い銀縁が、部屋の白い電灯を受けてこちらへと光を射る。入ってくる光は細くて、鋭くて。真っ直ぐこちらを見つめる棗の視線から逃げてみたものの、結局目が痛くってたまらない。
――目だけじゃない、どこかが。痛い気もしたけれど。
「聞いてる」
「じゃあお前、返事位しろよ? 今日、泊まってっていいか、って俺聞いたんだけど」
繰り返された言葉が、あたしの心臓を叩く。
それでも何とか。二度目ということもあって、あたしの頭の中にはさっきまでみたいな白さは無くなって来ていた。言葉が唇へと戻ってくる。
「泊まって、って、うちに?」
「お前んち以外のどこに泊まるっつうんだよ」
「……な、んで?」
引きずり出したあたしの言葉。それは棗に、宿泊の理由を問うもの。
あたしは一体棗からどんな言葉が聞きたくて、こんな質問をしたんだろう。
――分からないまま、あたしはその質問を投げていた。
「何でって、お前」
ちら、とそこで言葉を切って、棗はあたしから視線を逸らした。そして眼鏡の内側で、瞬きを一つ。彼の長いまつ毛がふるりと揺れる。
「そりゃあ、この続きをやるからに決まってんじゃねえか」
コントローラーを片手に、そしてもう片手はテレビを指して。言い放たれた言葉は余りにも、棗らしいといえば棗らしく。普段のあたし達の会話らしいといえば、会話らしく。
余りにも、いつも通り過ぎて。
息を飲んでしまった、頭を白くしてしまった自分が情けなくて。――自分一人だけが、まるで空回りをしているようで悔しくて。
そして目の前の相手が、余りにも普通通りに微笑んでいるものだから。
「――勝手にすれば!」
あたしは返事にもなっていない言葉を言い放ち、わざと大きな足音を立てて部屋の外へと走り出た。ちょっと捺芽、何だよそれっ。そんな棗の慌てたような声が追って来るけれど、返事なんかしてやんない。
そして、ばたん、と大きな音を立てて部屋の扉を閉めて。それでようやく、あたしの居る場所と、棗の居る場所とが切り離された気がした。
あたしはそのまま、閉ざした扉に寄りかかって。重力に逆らわないまま、ずるずると腰を下ろしてしまう。制服のスカート、そこから伸びてる脚は素肌で。廊下と触れ合っているその部分がひんやりと冷たい。
ああ、もうすぐ夜なんだ。冷えてきた廊下から、そんなことに気付く。
そういえば、棗も部屋の電気を点けていたっけ。あたしは低い位置から首を巡らせて、廊下の向こう、階段の窓から空を眺めてみた。どんな色をしているんだろう、と。
けれど、いくら眺めてみても。
そこに広がっているのは青鼠色の、濁った空の切れ端しかなかったのだけど。
オレンジ色のボールが、体育館の床板とぶつかって大きな音を立てる。だん、だん――何時もはリズミカルに強く響くはずのその音が、どうにもこうにも鈍い。
そんなドリブルを踏みとどまって、ボールを構えて。そして、シュート。けれどボールは赤いリングにもかすらずに、白い網の下をするりと通り過ぎた。
「決まらないねー捺芽」
「うっさいなぁ」
からかうように告げられた言葉に、あたしは逃げるボールを追いかけながら返事をした。いつもいつもやっているはずのその動作すら、今日は憎たらしくて仕方ない。ボールがまるで意思を持っているかのように、あたしの元から逃げてゆく。
「捺芽、あれだよね。今日全然集中してないでしょ。何かあった? ――ああ、棗君とか?」
あくまで軽く。たった今思いついたかのように。
そんな風に冬香(ふゆか)が言った言葉は、逆にあたしにとっては恐ろしく直球で。せっかく捕まえたバスケットボールをまた取り落としそうになってしまった。あたしは慌てて両手に力を入れる。
「冬香っ」
「あーら、図星っ」
勢いよく振り返ってみれば、片手でボールをつきながらにやにや笑ってみせる親友の姿。そのもう片方の手は、わざとらしく腰に当ててみたりしているのだ。
「図星でも何でも無い!」
「嘘ばっかり。あんたすぐに顔に出るのに」
彼女に指差しながら告げられて、あたしは思わず頬をぱっと抑えてしまう。あ、ボール! 気付いた時にはもう遅く。片手では押さえきれなかったオレンジ色が、だん、だん、と派手な音を立てながら、また。転がってく。
「冬香が変な事言うからー! ああもうっ」
転がっていったボールは、とりあえず置いておいて。まずは話を終わらせてしまおう。あたしはそう結論付けた。あんな風に直球の言葉ばっかり言われてたんじゃ、どうにも今のあたしじゃ、ボールを捕まえてなんて居られない。
そんな風に。気持ちが治まってくれないのは、冬香の言うとおり、棗との一件があった昨日以来だった。やっぱり。
目の前の親友を見てみれば、続けていたドリブルを止めて、床に静かにボールを下ろすところだった。手の内のボールを転がらないように置いてから、長い髪をうっとおしげにはらって、あたしを見つめる。
その視線はどこか、棗と似ているようなそれ。――だからあたしは思わず、棗にしてしまったように、瞳を逸らす。
「随分お悩みみたいねえ。しかも、さっきの反応を見れば、原因もばればれ」
「――原因については、黙秘、します」
「ばぁか。そういうのは黙秘って言わないのよ」
けらけらと彼女が笑い声を上げるのに合わせて、その髪の毛が揺れた。彼女はひとしきり笑ってから、まあ、と言葉を継ぐ。
「棗君と何があったのか知らないし……あんたが言いたくないなら聞かないけど。悩んでばっかりじゃあ前進なんてしないよ。直接聞くとか、言うとか。何かしら自分でアクション起こさないと、どうしようもないって」
そんなに簡単に言わないでよ、そういう大切な事を。
冬香の意見は正しくて。真っ直ぐで。でも、だけどだからこそ、そうするのが難しくって。だからあたしは、そんな、反発するような言葉しか思い浮かべられない。素直に受け止めて、素直に行動を起こすだけの力と勇気が今のあたしには無い。
だって、それは。
――棗に本心を聞くって、そういう事なんだもん。
この状況から抜けるために。あの、余りにも普通の様子で、普通の言葉を、当たり前の言葉を返してきた棗に。あたしの気持ちを打ち明けて、その本心を聞くということ。
「そんなの、出来るわけないじゃん」
「――ま、そう言うとも思ったけどね」
どこか苦い笑みのようなものをちらりと見せてから、冬香は体育館の入り口の方へと視線をやった。慌てたように足元のボールを拾い上げる。
「捺芽、ほら、部長と顧問来てるって。急いでボール拾ってこないと!」
「え、うっそ、やば!」
冬香の目が示す向こうに、あたしも同じく視線を動かしてみれば。その言葉の通り、バスケ部長と顧問の先生とが体育館へと脚を踏み入れようとしているところだった。部長が首から提げている笛を吹き鳴らして。全員集合、なんて声をかけたなら、すぐさまそこへと駆けつけなくちゃいけなくなる。
その前に、端っこの方まで逃げていってしまったさっきのボールを、この手に収めて来ないと――だって、使っていたものをそのままにしておくなんて、叱られるためにやっているようなものだから。
集合がかかる前に、早く、と。慌てて端へと駆けるあたしの背に、冬香は最後に一つだけ言葉を投げた。
「そんなに分かりやすいのにねえ。ま、棗君も鈍いっていうか、むしろあえてっていうか」
あえて、って何よ。
そんな冬香の言葉に疑問を挟む余地は無かった。
ボールを手にした瞬間に、体育館中に響き渡るような笛の音。だからあたしは、今だけは棗のことも、冬香の言葉も頭から追い出して、必死になってボールを片手に走らざるをえなくなったのだ。
冬香の言ってた「あえて」って、何?
いくら考えても、あたしにはその言葉の意味は分からない。その前の「鈍い」っていうのなら、まだしも。――だって実際、棗はあたしの気持ちなんてまるで無視したかのように、普通に「ゲームの続きをしたいから泊まりたい」なんてことを言うんだから。
それはつまり、お兄ちゃんとか、ゲームとか。そっちの方がずっと大切だって、そういうことに他ならないってことだ。そう、それはあたしではなくて。
ようやく思いついた、棗に問いただした理由。そう。あたしはその言葉が返ってくるのを待っていたのだ。けれど返事は全然違っていたから、余計に悔しくてたまらなくなって、部屋を飛び出してしまったのだ。
けれど、理由が分かったところで――棗の返した返事だったりを考え始めると、どんどん、胸がむかむかしてくるような気がしてならなかった。理由が分かったって、心の整理がつくはずもない。
だからあたしは、辿り着いた自宅の前で、大きな深呼吸を一つ。すう、はあ――息を吸いこんだときにちらりと見えた空は、いつかと同じ、青さを含んだ鼠色。
やだなあ。
それは、昨日のやりとりを思い出させる色だった。――こんな気持ちで、棗にちゃんと、会えるんだろうかと不安になる。だって、今日だってきっと、あたしの部屋でゲームをやっているに違いないのに。
「そんなに分かりやすいのにねえ」
冬香の言葉がリフレインする。――こんな風に、ぐちゃぐちゃの頭のままで会ったりしたら、きっと彼女が言うとおり、きっとあたしは顔に何かを出してしまう。途方も無い言葉を発したりしてしまう。
昨日欲しかった返事とか。
ゲームとかじゃなくて、あたしをちゃんと見なさいよ、とか。
棗は一体何を考えているの、とか。
そんな言葉をきっと。あの真っ直ぐな、眼鏡越しの視線の前で。
散々数分間家の前で悩んでみて結局、あたしは意を決して扉を開けた。風が段々と冷たくなってきていたし、このまま外に居るのが辛かったのだ。
そして扉の内側にそっと視線を落とす。くしゃりと履き潰されたスニーカーがそこに――
無かった。
玄関にただ、あったのは。
靴箱の上に乗せられた細い眼鏡。――そう、棗がいつもかけていた、それだった。
《続》