お嬢はん、おひとつ眼鏡でも如何です?




 春は芽吹きの季節だ。
 寒く辛い冬の間に欲求不満に陥った花々が、我先にと競い合うように美しい花弁をほころばせ始める。
 そんな総ての生物を浮かれさせるような麗らかな日、柚木(ゆのき)さやかは友達の橋元由梨(はしもとゆり)と共に春祭へと出掛けていた。
「綺麗だねぇ」
 日暮れのなかに浮き上がる幻想的な桃色を見上げなら由梨が呟いた。それにさやかは素直に頷き、同意する。電信柱の高い位置にくくり付けられたデッキからは安っぽい雅楽が聞こえていた。
 桜は美しかったが、二人は目を刺す配色の屋台に並んだ食べ物たちに心を奪われる。若き乙女を前にしては、「花」は「団子」には勝てないようである。
 薄ピンク色のワンピースをひらめかせながら由梨はさやかを振り返り、声を弾ませた。
「さやちゃん、バナナチョコ食べない?」
 さやかは由梨の手元にちらりと視線を落とす。そこには齧られた林檎飴がしっかりと握られていた。
「由梨、さっきからちょっと食べすぎじゃない?」
 咎めるようなさやかの視線から林檎飴をそっと隠すと、逆の手で大きなピースを作り、由梨は胸を張った。
「まだまだこんなもんじゃないよ!」
「……わかったから。じゃあ、行ってらっしゃい」
 どこか投げやりで手を振ったさやかに由梨は不満そうに頬を膨らませた。
「さやちゃんも一緒に食べようよ」
「私はいいよ」
「えー、食べようよ!」
 さやかのYシャツの裾を引っ張りながら、由梨は駄々をこねだした。――こうなると長いのだ。言い出すと聞かない由梨の性格を嫌というほど知っていたさやかは、すぐ諦めたようにぼそりと呟いた。
「……チョコパイン」
 由梨は嬉しそうに破顔し、さやかの気が変わらないうちにと、黄色の布にチョコレート色の文字で「チョコバナナ」と書かれた屋台へ、一目散に駆けていった。由梨の足にくっついている真っ赤なミュールがからからと陽気な音を立てた。

 さやかと由梨は高校二年生でクラスメイトだ。あまり化粧っ気が無いさやかと比べて、由梨は同学年の中でも可愛いと噂されるような少女だった。風が吹けば飛ばされてしまいそうにか細い手足は、同性からみても庇護欲を誘うものである。それに比べて自分はどうだろう。にょきにょきと無駄に伸びた身長は、この年の女子の平均身長を遙かに上回っているし、それでなくても少し目が悪く、無意識に目を細めて物を見る癖があるから、睨みつけているのかと誤解されることもあるのだ。
 同性にはなぜか慕われるさやかであったが、異性からは無愛想で怖い、と敬遠される事が多かった。さやかは口がきつかったし、無駄に愛想を振りまくような性格では無い。しかし人から負の感情を向けられて平気でいられる程、強い訳でも無かった。何となく憂鬱な気分になり、さやかは人知れず深いため息を付く。
「はいっ! おまちど〜!」
 能天気な声と共に目の前に突き出されたのは、チョコレートでコーティングされたパイナップルだ。さやかはそこまで甘いものが得意ではなかったから、バナナよりは酸っぱいパイナップルとチョコの取り合わせの方が好きだった。礼を言いながら受け取ると、由梨はにこにこと満足顔でさっそく自分のチョコバナナにかぶりつく。その幸せそうな顔に苦笑を漏らしながら、さやかもチョコパインを一口齧った。酸っぱい柑橘系の味が口の中に広がり、チョコレートの甘みを抑えてとても爽やかだ。いつもなら口にしないようなものが、妙に美味しく感じられるのも祭のもつ魔力なのだろう。さやかは無意識のうちにそっと笑みを浮かべていた。

「あ、由梨ちゃんじゃん」
「まじっ? どこどこ?」
 由梨の名前を呼ぶ声に二人が顔を上げると、視界に入ったのは同じクラスの男子達だ。由梨にいつも声をかけてじゃれ付いているクラスの盛り上げ役の二人が、人混みを器用にすり抜けて近づいてくる。さやかの表情からは笑みがすっと消えた。
「由梨ちゃん、今日もご機嫌麗しく〜!」
「お変わりないご様子で、なによりでござる〜!」
 由梨はその冗談にきゃらきゃらと明るい笑い声を上げ、それに気を良くした二人はエスカレートしていく。後から追いついてきた数人の男子も、由梨に偶然会えたのが嬉しかったのだろう、可愛らしい格好をした由梨に見とれていた。
 立ち止まる集団につっかえ、通行人が迷惑そうな顔をしているのに気付くと、さやかは二人の永遠に続くような漫才を遮った。
「……そこ邪魔だと思うけど」
「は? 何だよ?」
 最後のオチのところで水をさされた二人は、むっと不満そうにさやかを睨みつけ、一瞬緊迫した雰囲気が漂った。
「ここに立っていると通行人に迷惑だから、移動した方がいい――って意味だよね? 柚木さん」
 聞き覚えのある柔らかな声。その人物が首を軽くかしげると、さらりと艶やかな髪が流れる。冷たい硝子の向こうに見える、すっと墨を引いたような涼しげな切れ長の目は、緩やかなカーブを描き、さやかを見つめていた。その人物の声色には人の心から棘を抜くような力を持っていて、喧嘩腰だった男子は「初めからそういやいいんだ」とどこか決まり悪そうに口を尖らせる。
 彼の名前は狩野要(かりのかなめ)。さやかのクラスの学級長だ。彼は謙虚で目立たないのに、自然と人の中心にいるような人だった。日本人にしては恵まれた肢体はすらりと長く、中性的な雰囲気を保っている。容姿でいえば、バスケ部の岡田君の方が整っているし派手だが、彼は静謐な湖のように穏やかで、傍に居たくなる様な不思議な雰囲気を持っていた。愛想の無い言葉で敵を作る事が多いさやかには、要は自分がなりたいと思い描く人物像であり、淡い憧れさえも抱いていたのだ。
 そんな要に心の準備もしないまま声をかけられたさやかは言葉につまった。傍から見たら、無視をしているようにも見えるだろう。男子はむっとしたようだったが、要は気にする事も無く程よく低い声で喉を振るわせる。
「柚木さんたちも桜見に来たの?」
「あ、うん! 実は花より団子だけどねっ!」
 由梨が勢い良く突き出したのは、齧ったあとがついたチョコバナナと林檎飴。要は一瞬、硝子越しの目を丸くすると、ふわりと音がするくらい柔らかく苦笑した。風に乗ってさやかの耳に聞えてきたのは「なるほど」という言葉。
「由梨ちゃん。よかったら、これから一緒にまわらねぇ?」
 そう言い出したのは、さっきさやかと険悪な雰囲気になった男子である。しかし由梨はコンマ何秒でそれをすっぱりと断った。
「さやちゃんとデート中だから。よくない」
「えーっ! マジかよ!」
 由梨の言葉に呆れながら顔を上げたさやかに突き刺さったのは、明らかに敵意の篭った視線である。ここで自分が男子達と一緒に行こうと言っても、断っても彼らは気に喰わないのだろう。さやかは重石を飲み込んだような気分になった。心の中で盛大に憂鬱のため息を吐きながら、さやかはなるべく感情が表れないように短調な声を出す。
「――由梨、悪いんだけど、私そろそろ帰らなきゃ。遅くなると父さんが煩いから」
「えー! なんでっ! 酷いさやちゃん! 私を捨てるのっ!?」
 まるでメロドラマのような事を言い出した由梨にさやかは思わず脱力しながらも、由梨を辛抱強く説得しだした。それは傍からみれば、まるで王子がご機嫌斜めの姫をなだめているかのようである。
「由梨、まだ食べたいものあるって行ってたじゃない。どちらにしろ私じゃお腹いっぱいで付き合えないし」
「さやちゃんと一緒に食べたいってことだったのにぃー! まだベビーカステラも、大判焼きのカスタードクリームもたこ焼きもわた飴さえも食べてないのにっ!」
「絶対入らないし無理だから。それ」
「やだっ! 入れて見せるから! ねっ!」
「入れて見せるって」
 子供のように駄々をこねだした由梨にさやかはお手上げ状態だ。すると要がさり気無く助け舟を出した。
「橋元さんもこう言ってるし、柚木さんも一緒に行かない? もう少しの間だけでもいいから」
 要の言葉に一瞬、心臓が跳ねる。由梨は除くにしても、少なくとも要だけは自分を疎ましく思っていないのだという事が嬉しかった。ついその声に促されて頷いてしまいそうになった時、要の肩越しに男子達の姿が目に入った。さやかを邪魔者だと言っている視線。
 その瞬間に、ふわふわとした幸福感は冷え、さやかは反射的に首を横に振っていた。
「私は――やっぱり帰るよ」

 送ろうか? という要の言葉を辞退して、さやかは一人家路についていた。
 町の中央を流れる相良川沿いには桜が並んで植えられており、見事に綻んだ桃色の蕾は、ほの暗い水面をほんのりと色づかせていた。もはやあの雅楽もさやかの耳には届かないし、食べる気が失せてしまったチョコパインは勿体無いながらも捨ててしまった。浮きだっていた気持ちはすっかりと冷え、まるでたった今までの事が夢か幻だったような気さえしてくる。
 今頃、由梨はお腹いっぱい食べているのだろうか。――要と一緒に。
 そう思うと、また鳩尾の辺りに鈍い痛みが蘇り、さやかは少し表情を歪めた。

「もしもし、お嬢はん」

 唐突にかけられた西訛りの言葉。さやかは声が聞えてきた暗がりに視線を向けた。よく目を凝らすと、地面の上に紅い布を広げて男が座っている。その男はちょこんと行儀良く紫色の座布団の上に正座をし、その身に纏うのは濃紺の和服である。ゆっくりと視線を上にずらすと見事な丸眼鏡だけがきらりと光っているから、まるで小さい二つの月が宙に浮いているようだ。何かを売っているみたいだが、祭の屋台が集まっている所からは相当距離はあるし、普通ならこんな所に店を出してもお客が来ないことは明白である。不審者に遭遇してしまったのだと判断したさやかは早足に通り過ぎようとした。すると男は焦ったように前に乗り出す。
「お嬢はぁん! お願いやから無視せんといて下さい! めっちゃ傷つくやんかぁ……!」
 走り出す用意もしていたさやかは、その脱力するような情けない声につい足を止めてしまった。
 よよよ。
 まるで歌舞伎の女形が涙を流す時のように、裾で目じりを押さえていた男はぱっと顔を綻ばせる。
「やっぱりあてが見込んだ人やわぁ! あてのような寂しさに耐えながらも物を売っている商人の言葉を、聞かへんかったふりして見捨てはる他のひととは違うわぁ!」
 良心を嫌な感じに刺激するその言葉に、さやかは警戒しながらも男の前へと足を進めた。男は柔らかそうな座布団の上にきちんと座りなおすと、慣れた動作で優雅に腰を折る。
「ようおこしやす。どれもうちの自慢の品ですわ。ようよう見て行ってください」
 男が広げた紅い布の上には、どこから集めたのだろう様々な色、形をした眼鏡が所狭しと並べてあった。老人がかけている様ながっちりとした黒縁眼鏡から、アンティーク風な細工を施した片眼鏡、挙句の果てには牛乳瓶の底の様な丸眼鏡まで置いてある。どこか古めかしさを感じさせるデザインの眼鏡が多く、ただでさえ眼鏡をかけていないさやかにはまったく必要の無いものだ。さやかはしゃがみこみ、軽く男を睨みつけた。
「……これ全部、眼鏡ですけど」
「いややわぁ。眼鏡屋のあてが野菜売ってどうするん?」
 男は自分の冗談にからからと笑ったが、さやかの表情はぴくりとも動かない。
「私、眼鏡なんてかけてません」
「へぇ。存じてます。そやけどお嬢はんがうちの眼鏡を必要としてはると思たから、あて、声かけましてん」
「は?」
 男は、きょろきょろと周りを見渡し声を潜めると、さやかに手招きをした。勿論、祭から遠く離れている川縁には人影など見えもしない。さやかは直ぐに逃げ出せる用意をしながらも、恐る恐ると男に耳を寄せた。白檀の香りがする男は秘密を打ち明けるようにそっと小声でとんでもない事を言い出した。

「”眼鏡屋本舗”で取り扱ってるのは、まじないがかかった”魔法”の眼鏡なんですわ」

「帰ります」
 顔を引き攣らせ、立ち上がりかけたさやかの腕を男はがっしりと掴む。
「そういう変なものは買わないことにしているので。他を当たってください」
「ほら話ちゃいます! 騙して売りつける詐欺なんかとは一緒にせんといて下さい! あての所は、伝統の技を引き継いだ、由、緒、正しい、眼鏡屋ですわ……!」
「そんな胡散臭い話、信じられるわけないです」
「ほな試してみはったらええですわ。もし眼鏡が気にいらへんかったら、全額返しまひょ!」
 名案だとばかりに男は拳をぽんと叩いたが、さやかは疑いの目でじろりと男を睨む。
「そんな事言われても、明日ぐらいには店なんて姿かたちも無くなってそうですけど」
「お、お嬢はん。どんだけ疑り深いお人ですの? あてがこんなにも頼んでるのに……あっ、こないな品、如何です? お嬢はんにぴったりやと思うんやけどなぁ……!」
 男はなんとか腕を振りほどこうとしているさやかの鼻先へ、ひとつの眼鏡を突きつけた。フレームが白っぽい硝子でできた華奢なつくりの眼鏡である。きらきらと縁が銀色に光っていて、なかなか高価そうでお洒落なものだ。男はおもむろに人差し指をぴんと立てて、もったいぶった口調で語りだす。
「この眼鏡は、取っておきですわ。名付けて、すけるとん眼鏡」
「すけるとん眼鏡?」
 訝しげに聞き返したさやかに、男はひとつ咳払いを返すと、胸を張り付け加えた。
「これをかければ、あら不思議! 衣服がみるみるまに透けて見えるっ! これで貴方も気になる異性の秘密の花園を覗けます……! って、お嬢はん、どこ電話してはるの?」
「警察です」
「堪忍してください」
 男、ひたすら頭を深く下げての平謝りである。

 さやかが漸く携帯電話から手を離すのを確認してから、男はちょっとおどけてみただけやんか……とぶつぶつと文句を言った。しかし、さやかの冷たい視線に気付くと、男は焦った様子で、次の眼鏡を取り出した。赤いフレームの眼鏡は男が売りに並べていた中では比較的、凡庸なデザインをしている。
「こちらに取り出しましたのは、世にも不思議な萌えっ子眼鏡!」
「萌えっ……子眼鏡?」
「あら、お嬢はん、知らはらへんの? 今、巷では空前の”眼鏡っこぶぅむ”やて言いますやん。だからあてもちょっと”なうい”言葉使ってみたんですわ」
「……帰って良いですか」
「ちょお! お嬢はん、見た目以上に短気やなぁ。短気は損気やっておかあはんに習いまへんでした? あっ、嘘ウソ! 説明しますから。ゴホン。――この眼鏡。実は”変身”できるんですわ。自分やない別人に。例えば”かめんらいだぁ”みたいなもんでっしゃろか」
 たっぷり三秒は見つめあっていただろうか。さやかの反応を期待する瞳に、とうとう堪忍袋の緒がぶち切れた。
「――馬鹿にするのもいい加減にしてください」
 さやかは、勢い良く立ち上がる。
 いい加減な言葉を紡ぎ続ける目の前の男に腹が立ったのもあったが、半分以上は理不尽な八つ当たりだ。クラスの男子達に邪険にされ、親切にフォローしてくれた要にもお礼さえ言うことが出来なかった。もしも違う自分になれれば。そう――誰にでも優しく接することができて、要とも自然に話せるような自分だったら。それはどこか心の隅で思っていたことで。そんな眼鏡ひとつで解決するような簡単なものでもない。

「そんな眼鏡一つかけただけで別人に変わる訳ない」

 直ぐに謝るかと思った男は、凪いだ海を思わせる双眸でじっとさやかを見上げている。その瞳の色は暗いが澄んだ濃紺だ。男は静かに息を吸い込むと、柔らかさの残る声で諭すように言った。
「お嬢はん。ほんまは変わりたいと思ってるのと違います?」
 そして男は手に持っていた赤色の眼鏡をすっと差し出す。そして瞳をにっと細めて、どこか懐かしさを感じさせるような笑顔をひっつけた。

「うちの眼鏡、お嬢はんにはぴったり似合うと思いますけど」



 こうして、さやかは、眼鏡屋本舗印、魔法の「萌えっ子変身眼鏡」を手に入れた。
 この変身眼鏡を手に入れたさやかの命運やいかに!? まて次号!

《続》


表紙 - 次項

作者/佐東汐