お嬢はん、その眼鏡如何でした?




「結局、もらって帰ってきちゃった……」

 あれから一時間後。私は自分の部屋で、あの眼鏡と向き合っていた。
 今私の目の前にある、何の変哲もなさそうな赤い眼鏡。あの怪しい眼鏡屋に押し付けられた眼鏡だ。いらないって、きちんと断ったのに……変な気迫に負けて、結局持って帰ってきてしまった。
 彼が“萌えっ子眼鏡”と称したこの眼鏡。フレームは細くもなく太くもない。レンズもいたって普通だ。どこにでもありそうな、メタルフレームの眼鏡。どこがどういうふうに、他の眼鏡と違うというんだ。
 ふい
 眼鏡から視線をはずし、カーペットに横になる。そうして見上げた天井は、沁み一つない、白い壁紙が広がっているだけだった。


「お嬢はん。ほんまは変わりたいと思ってるのと違います?」


 自分の意に反して、あの男の言葉がぐるぐると頭の中を回っている。………彼の言うとおりだ。出来ることなら、私だって変わりたい。周りに愛想を振りまきたいとか、そういうわけじゃないけど……できるなら、もう少し優しく触れ合えるようにしたい。あまりに不器用なのだ、私は。いつも言いたいことを素直に言葉に出すことが出来ない。だから、クラスの男子達とも……要とも、うまくやっていけないんだ。
 眼鏡一つで、何が変わるわけでもない。そう、眼鏡で変わるわけがない……でも。心のどこかで、あの男の言葉を信じたがっている自分がいることも、確かだった。起き上がってもう一度眼鏡を見つめなおす。
 変わるわけがない。たった一つの、眼鏡のせいで―――


     ***


「あれー? さやちゃんその眼鏡どうしたの?」
 ……どうしてかは、私が聞きたい。こんな眼鏡、使うつもりもなかったのに。昨日の夜、机の上においてそのままだったはず。なのに、何故か今朝になって自然に手が伸びて……そして今、わたしの顔に眼鏡が乗っかっている。……何故?
 次の日の朝。私はあの“萌えっ子眼鏡”を掛けて登校した。教室に入った途端、由梨がツインテールを揺らしながらこちらに向かって走ってくる。
「うん、ちょっとね」
「でもさやちゃん眼鏡似合うねー! かわいいっ」
「可愛いのは由梨だよ」
 いつもと変わらず、高いとも低いともいえないテンションで会話が続く。

 由梨と会話を交わしながら、しばらく様子を見たものの……特に変わったことは起こらなかった。……なんだ、いつもと変わらないんだ。
 眼鏡を掛けたからといって、何が変わるわけでもない。彼はなりたい自分に変身できるって言ってたけど、実際には、眼鏡をかけたからといって特撮ヒーローみたいな変身も起こらなかったし、内面変化もなかった。私の中にいるのは、いつもと変わらぬ、『柚木さやか』――私自身だ。そう、何の変化もない。何も変わらない……重々承知していたことだ。
 なのに―――どうしてこんなに落胆してる自分がいるんだろう。 私は本気で、違う自分になれるって思ってたの? 私はこんなに、この眼鏡に期待していたっていうの? 何の変哲もない、この赤い眼鏡に…?
 答えは…Yesだった。そこまで私は期待していたんだ。私も、要みたいな優しい人格になれるって……。でも現実は違う。どうせ眼鏡は眼鏡。視力矯正しか、役目はない――

「そこ邪魔だと思うけどぉ?」

 ぴく
 由梨と会話してると突然、後ろから声がした。
 振り向くと、そこには昨日由梨に話しかけてきた二人の男子がいた。私が昨日彼らにかけた言葉を、そっくりそのままここで繰り返される。私達は教室のドアのところで話していたのだから、その台詞には納得できるけど…でも、この台詞にはそれ以外の気持ちが篭っていることは明らかだった。その台詞を発した神田君も、その隣の藤崎君も、薄笑いを浮かべている。
 小さなかたまりが、胸に落ちていくのがわかった。何か返さなきゃ……でも、何を? からかわれているこの状況で、何が言えるっていうの……?

「あ、ごめんね。おはよう、神田君、藤崎君」
「は?」

 ……は?
 目の前の二人は、私を凝視したまま固まってしまった。けれど、それは私も同じだった。
 い、今、なんて言った? 声からして、さっきの台詞は明らかに由梨のものではない。……私の声だ。
 今の、この、私が?
「あ、あぁ、おはよ」
 私の普段とは違う対応に、神田君と藤崎君は、戸惑いながら扉を通り抜けた。
「おはよ、神田君に、藤崎君。どうしたの? 変な顔しちゃって」
「あぁ由梨ちゃん! 本日も、ご機嫌麗しくっ」
「今日はまた一段とお美しい姿でいらっしゃる!」
 私が一歩ひいたそこには由梨がいたため、いつものコントらしきものが始まった。そんな彼らに、由梨はいつもと変わらずきゃらきゃらと愛らしい笑顔を振りまいていた。

 由梨が二人の会話に笑い声を上げている横で、私は一人考え込んでしまった。
『あ、ごめんね。おはよう、神田君、藤崎君』
 ……今のが、自分の口から出たことが信じられない。あの時、私はあんなことを言おうなんて思っていなかった。それどころか、どう言えばいいかわからずに、ただ彼らを見ていただけだった。彼らにしたら、私が睨みつけているように見えたかもしれない。でも、確かにさっき私はあの言葉を発した。私の意志とは、無関係に……もしかして、これが『眼鏡』の力?

「おはよう、柚木さん」

 そんな時、柔らかい声がした。私のちょうど後ろに、艶やかな黒髪の男の子が立っていた。品のよい眼鏡の奥から、真っ黒な瞳が私を見つめている。要だった。
「おはよう、狩野君」
 にっこり
 私が何を考えるよりも早く、私の口は言葉を紡ぎ、顔は笑顔を作っていた。
 嘘……ほんとに? 要に笑顔で挨拶できた! たったそれだけのことなのに、私は内心、飛び上がりそうなくらい嬉しかった。クラスメイトに普通に挨拶する。本当に、なんでもないこと。でも、私にとっては一大事だ。今までこれが出来なくて、散々悩んでいたのだから。
 私が微笑むと、彼の目は柔らかくカーブを描いた。癒しの効果があるんじゃないかといってもいいほどの、天使の笑顔。
「柚木さん、その眼鏡どうしたの?」
「え?」
「いや、初めて見るなって思って。柚木さんの眼鏡姿」
 ドキッ 要の言葉に、何故か心臓がはねる。
「最近目が悪くなってきたから、買ったんだ。」
 考える間もなく、口から言葉が溢れていく。
「……そうなんだ」
 ……? 要が作った間に、違和感を覚える。
「その眼鏡、よく似合うね。眼鏡を掛けたことで、何だかイメージが柔らかくなったみたい」
 でも、そんな一瞬の違和感はすぐに消え去ってしまった。にこやかに笑って言われた彼の言葉に、柄にもなく心を奪われてしまったから。男子に敵を作ることの多い私は、こういうふうにストレートに褒められた経験がない。
「あ、ありがとう」
 顔を赤らめてそういうのが精一杯だった。

 ……こういう時こそ、この眼鏡が働いてくれればいいのに。今までの愛想のいい挨拶は、どう考えてもこの眼鏡の仕業としか思えない出来事だった。ならば、ここでも気の聞いた言葉の一つくらい、出てくれればいいのに。
 ……あれ? 私、何考えて……いつの間にか、すっかりこの『眼鏡』の力を信じきっている自分がいる。どうして? 普通に挨拶しただけ。たったこれだけのことなのに。だけど、私にはこの眼鏡の能力を信じずにはいらなかった。それくらい、今日のこの朝の出来事は自分にとって信じられないものだったから。

 そしてこの眼鏡は、今日一日ものすごい効力を発揮した。
 媚を売るでもない。でも今までのような無愛想な態度でもなく、優しく他人と接することが出来たのだ。どうやらこの眼鏡は同性には効果がないみたいだったけど、異性には驚くほど効いた。由梨が騒いだくらいだ。『今日のさやちゃん、なんだか柔らかいね』って。いつもはそんなに固く見えたのかと、少しショックだったけれど、由梨から見ても私の変化は明らかだったらしい。この眼鏡のおかけで今日はいつもよりあからさまな敵意を浴びることは少なくなった。それが一番、私には嬉しかった。
 ……要と普通に会話を交わせたことも、同じくらい嬉しかったけど。


     ***


 放課後。私は部活を終え、帰路についていた。私の家から駅までは十分もかからない距離だったが、今日は少しだけ遠回りをして帰ることにした。駅から自宅へと続く道を途中で右折すると、小さな公園が見えてくる。その公園には、見事な一本の桜があるのだ。太い幹に支えられたその木は、春の一時だけ、見事な花を咲かせる。幹から四方に広がる桃色の屋根が、私はとても好きだった。

 公園に近づくにつれて、桜の根元が見えるようになってきた。茶色の根元に、赤い絨毯……誰かいる。夜桜を見に来た近所の人だろうか。いや、それにしては……え?


「お嬢はん、その眼鏡気に入ってくれはった?」


 びくっ
 どうして、こんなところに……? 紫色の座布団の上に上品に正座をし、二つの満月を思わせる眼鏡を掛け、こちらを向いて笑っている。彼の目の前の絨毯の上に並べられた眼鏡は、月明りを受けて自信満々に輝いていた。
「昨日の……」
 あの眼鏡屋が、桜の下にいた。
「やっぱり、よう似合ってはるわぁ! あての目に狂いはありまへん。眼鏡の効果もさることながら、その“ふぉるむ”! “れむ”が少し丸いほうが、お嬢はんには合いますやろ? 鏡見て溜め息つかれはれへんかったぁ?」
 にこにこしながら昨日と全く同じテンションで話しかけてくる。いや、今日のほうが高いかもしれない。相変わらず……怪しい。
「どうです? ちゃんと“効果”ありましたやろ?」
 びくっ
 そしていきなり核心に触れるところも、変わっていなかった。一瞬心臓をわしづかみされたような感覚に陥った。
「………えぇ」
「やろ? やろ!? そうでっしゃろ!?」
 テンションの低い私に対し、彼は満面の笑みで身を迫り出してきた。よほど嬉しかったのだろうか。少々迷惑だと感じた私は、一歩ひいた。
「ちょお、そんなひかんとってください! 如何です? ご希望のとおり、お嬢はんがなりたいと思うとった人格になれましたやろ?」
 人懐っこい笑顔を向けて、そういった彼。その目には確かな自信が込められていた。そういえば、自分の出す商品には絶対の自信があると、昨日言っていた様な気がする。その自信の表れだろうか? 硝子の向こうの瞳が一瞬吸い込まれそうなくらいの輝きを放った。

「おじょ」
 プルルルッ
 彼が何かを言おうとしたちょうどその時。タイミングよく携帯電話が鳴った。でもその着信音は明らかに私のものではなかったし、実際私の携帯は何も着信してはいなかった。
「もう、こんな時に……だから文明進んだもんは嫌いなんですわ。お嬢はん、ほんますんません。堪忍してくださいね? 失礼します」
 ぬっ そう言って、彼が懐から取り出したもの。それは私が予想したものとははるかに違うものだった。
 ………あれは携帯電話か? 小さくて黒い正方形の形をした、アンテナのやたらと太い機械。トランシーバー? ……いや、違う。思い出した。あれは、一世代、いや、二世代前の携帯電話だ。『文明が進んだもの』? そんな馬鹿な。私が心の中でツッコミをいれていると、彼はその携帯電話で通話をし始めた。

「はい? あぁ、君ですか。今可愛いお嬢はんと会話してる最中ですねん。え、あ、すいまへん! 警察だけは勘弁してください! ……いや、こっちの話。気にせんといてください。え? はい、はい……何ゆうてはりますのん? あてはお客様選ばしてもろてます。あてらの眼鏡をほんまに必要とする人にだけ、御声かけさせてもろてるんですわ。えぇ。はい、はい……なんや、せやったらなおさらあてのゆうことわかってくれるんと違います? それに、あんさんはもうわかってるとおもてましたけど。すいまへんけど、お嬢はん待たしてるんで、ここらで切らしてもらいますわ。さいなら」

 ブツッ 現代の携帯電話からしてはありえない音で、通信が切れた。その通話を終えた後の彼の顔に、私は釘付けになってしまった。おどけた顔しか知らない彼の、初めて見せる真剣な顔。次の瞬間にはもう元の姿に戻ってしまっていたけど……あの瞳は、とても印象的だった。

「ほんまに申し訳ありません。会話の途中に電話なんて。気ぃ悪ぅされました?」
 心底申し訳なさそうな顔をして、彼が言う。
「いえ、そんなことは」
「ほんまでっか!? さすがあての見込んだ御人です! 心が広いわぁ!」
 私のそっけなさすぎる返事に、彼は破顔した。
「あの、なにも用事がないようでしたら、私、帰りたいんですけど」
 呑気に浮かれている彼に向かって、水を指すような一言を口にした。
「え?! あ、やっぱりさっきので怒ってしまいはったん?」
 突然彼の顔がゆがんだ。怒ったとか、そういうわけじゃない。ただ、この会話に意味がないものなら早く帰りたいと、そう思っただけなのだ。
「特に用事とか、そういうのはないんです。ただ、お嬢はんがあての眼鏡気に入ってくれはったかどうかが気になっただけですわ。半ば強引に渡しましたやろ? お気に召されたんやったらそれでいいんです。また何かあれば、なんなりとゆうてくださいね。ほな、さいなら」
 え?
 彼は私が思った以上に早く、会話を終わらせてしまった。しかし私は、彼のあまりに不自然すぎる対応に何の疑問も抱かず、まっすぐ家路に着いた。何故この公園に彼がいたのかとか、『何かあれば言え』と言われても、連絡先はもとより何も知らないということだとか、いろいろな疑問が湧いてきたのは家に帰ってからだった。その時は何も考えずに私は素直に彼に背中を向け、家に帰った。


     ***


 プルルルッ
 お嬢はんの姿が完璧に見えへんようになってから、再度携帯電話が鳴った。
「はい?」
『俺だけど』
「なんや、あんさんもしつこい御人ですなぁ。さっきも説明しましたやろ?」
『あれじゃだめなんだよ。このままじゃ柚木さんは確実におかしくなる。まだお前そんな仕事してたのか?』
「あてはこの仕事、誇りにおもてますんで」
『人一人の人生をつぶすのに、か?』
「……相変わらずおおげさな言葉好きでんなぁ」
『それはお前のことだろ?』
「全く。いい加減にしはったらどないです?」


「要はん」


 魔法の“萌えっ子眼鏡”が本物の魔法の眼鏡であることを知ったさやか。
 しかしその裏では要が? 眼鏡屋が? どうなる、次号!?

《続》


表紙 - 前項 - 次項

作者/ことは