お嬢はん、これからも眼鏡をよろしゅう頼んます




「……お前」
 先に言葉を取り戻したのは要だったが、それ以上言葉を続けることはできなかった。
「要はんもお嬢はんも、眼鏡を捨てるなんてそないなことするわけじゃありまへんよな? それとも度数が合わんなったどすか?」
 さやかは思わず要を見上げる。それが要を頼っての行動だったのかは自分でもわからないが、要は奥歯をかみしめて眼鏡屋に鋭い視線を送っていた。
「要はん、そない睨まないどいておくんなはれ」
「……睨ませてるのはどっちだ。俺たちはもう眼鏡に頼らない!」
「要はんはそへん言いましても、お嬢はんはそないなこと思ってへんのではおまへんでっしゃろか」
「……柚木さん」
 要の視線が今度はさやかに突き刺さる。ついでに眼鏡屋とも目が合ってしまい、さやかは途方にくれてきょろきょろと視線をさまよわせた。
「えと、わ、私は」
 ――私は、何だというのだろう。
 捨てるつもりじゃない、この眼鏡をもっと掛けていたい。それは本音だが、そんなことを言っては要に嫌われてしまう。せっかくこの眼鏡の力を借りて仲良くなれそうだったのに、本末転倒だ。
 思わずこぶしに力を込めそうになって、掴んだ眼鏡がゆがむ感触にはっとして力を抜く。
 ――私は、柚木さやかは。
「……ごめんなさい!」
 叫ぶとさやかは身をひるがえした。後にあっけに取られた要と、相変わらずにやにや笑いを浮かべている眼鏡屋を残してしまったことは考えないことにする。
 ――だめだ私。眼鏡を掛けていないと、こうも言いたいことが言えないなんて。眼鏡を手に入れたことで性格も改善されたと思っていたけれど、それは大きな間違いだった。眼鏡を掛けているときだけの“魔法”なんだ、最初に眼鏡屋が言ったとおり。


 残された眼鏡屋は、さきほどまでの鋭い視線をひっこめて、からかうようにひらひらと手を振った。
「おやおや要はん、振られてしまいましたな」
 要はぽかんとしていたが、状況が飲み込めると、また先ほどの険しい顔に戻った。
「……うるさい。俺はもう決めた」
 言うと、要は手元の眼鏡を放り出した。黒縁の眼鏡はゆるいカーブを描いて眼鏡屋の手元に落ちる。
「俺にはもう要らない。柚木さんの眼鏡も、俺が取り上げてみせる」
「そうでしゃろか。やくたいな事せんといたほうがお嬢はんのためやと思いますけど」
 眼鏡屋が言い終わらないうちに、要はさっきさやかが駆け出していった方角に走っていった。


   ***


 さやかは走っていた。眼鏡を握りしめたまま。
 どうすればいいんだろう私は。その問いがさっきからずっと頭の中をぐるぐると巡っている。いつも通る通学路の道に出ても、家に帰りたいのかそれともどこか別のところに行きたいのか、自分でもよくわからなかった。
 消火栓のある角を曲がったとき、ふと向こうから歩いてくる人に気づいた。
「由梨!」
 さやかは思わず駆け出していた。一瞬、気づくのに遅れた由梨が目を丸くして、それでも駆け寄ってくるさやかに手を伸ばす。
「由梨、」
「どうしたのさやちゃん」
「……あのね由梨」
 腕を差し出してくれた由梨に手を重ねようとして、持っていた眼鏡に気づく。由梨の視線がそれを追って、さやかははっと由梨を見つめた。
「……あのさ」
「さやちゃん、何かあったんなら話聞くよ。うち、もうすぐそこだし」
「うん」


 ここ何週間も見慣れていたはずのさやかの眼鏡姿に、ずっと違和感を覚えていた。だから今眼鏡をかけていない素顔のさやかを見たとき、由梨はごく自然に手を伸ばした。手を伸ばすことにためらいはなかった。
 ――これがわたしの友達のさやかだ、という確信があった。


 さやかは何度目かの由梨の部屋に入ると、促されるまま、眼鏡を手に入れた経緯について思いつく限りに語った。途中まで興奮状態で喋り続けていたものの、要が絡んでくる段になって、だんだんと声がしぼんでいった。それでも由梨が辛抱強く聞いてくれていたので、さやかはずっと隠していたあのうさんくさい眼鏡屋のことも話すことができた。
 今さっき、要に眼鏡を捨てようと言われた時に眼鏡屋に会って、どうしようもなくなって逃げてきたところまで話し終わると、由梨はそっとさやかの背中を撫でてくれた。
「……由梨、ごめんね」
 あんな変な眼鏡に頼るなんて、と思われたろうかとやや怯えながら謝ると、由梨はふっと笑った。
「そんなことないよ。――でも、私は眼鏡をかけてないさやちゃんの方が好きだな」
 要とまったく同じことをさらりと口にして、由梨は微笑んだ。
「うそ! そんなわけないよ。私はずっと由梨の明るいところとか、男子とも楽しく喋れるところとか大好きで、憧れてて、由梨みたいになりたいと思ってた。だから眼鏡をかけて男子とも喋れるようになったとき、由梨みたいになれるってうれしかったのに」
「でもさやちゃんのいい所がなくなっちゃったような気がしてたの」
「私の、いいところ?」
 そんなの、あっただろうか。目つきが悪く、口下手で言い方もきつくて、うまく笑うこともできないさやかの、いいところ?
「そうだよ。さやちゃんはいっつも真面目で、話も最後までくれて、勉強も教えてくれて、なのに威張ったところとかえらそうなところがなくて、私、こっそりさやちゃんに憧れてたんだよ」
 そんなわけない。由梨は優しいからそう言うだけで。
 でも、ここ最近なんだかよそよそしくなっていた由梨がそう言ってくれるなら、もしかしてそうなのかもしれないと、さやかは思った。そういえば最近、あまり由梨と話していなかった。最近っていつからだろう。――あの眼鏡を掛けるようになってから?
「今だから言うけど、さやちゃんはあの眼鏡掛けてから、私からは近づきにくくなっちゃって、ちょっと寂しかったんだ。いっつも男子に囲まれてて、私のことあんまり見てなくて」
 うなだれる由梨に、さやかははっとした。
 確かにさやかは、物怖じせずに話せる魔法を手に入れた。だがその魔法は、今までいた友達を失くす魔法にもなっていなかったか。せっかく親しい友達になれた由梨とも、いつも話しかけてくれていた他の女友達とも、ここしばらくお喋りできていなかった。それは。
「……私、やっぱり眼鏡やめるよ」
 捨てるよ、と言えない意気地のなさが恥ずかしかったが。由梨は大きく頷いた。
「これからも私たち、友達だよね」
「もちろん。ずっと友達だよ」



 また明日、と由梨の家を出て、さやかが次に向かったのは、二度目に眼鏡屋と会った公園だった。
 そこにいるという保障はなかった。だがどこに行っても眼鏡屋に会えるような気がした。あのうさんくさい男ならきっといる。
 果たして、眼鏡屋は紫の座布団の上に正座していた。だが今日はあの眼鏡をたくさん並べていた赤い布はない。代わりに、横に古い映画で見るような木のトランクが置いてあった。
「お嬢はん、おかえりやす」
 相変わらずうさんくさい笑みを浮かべて、眼鏡屋はさやかを見上げている。
「おや、眼鏡はどないしたんどすか」
「私はもう掛けないっ。眼鏡に頼らない!」
 言えた、とさやかは安堵に深呼吸した。手にしていた眼鏡を、眼鏡屋に放る。おととと、とおどけて手を伸ばして眼鏡屋が受け取ったのを確認すると、さやかは即座に踵を返した。
「お、お嬢はん! お待ちなされ! そいでこの眼鏡掛けんようになったら、これからどないしますの。要はんとも喋れなくなって、また元に戻るだけでっしゃろ」
「……いいです。だって眼鏡を掛けたまま狩野君と仲良くなれても、狩野君が見てるのは私じゃないから」
 ――眼鏡に頼らず、変わらなきゃ、と。要は言った。
「さいでっか。ほんだらあては、またお嬢はんが眼鏡を欲しくなったころにここに参りますわ」
「もう眼鏡は要らないからいいです!」
 今度こそ、振り返らずにさやかは駆け出した。
 手のひらには眼鏡の冷たいようなぬるいようなプラスティックの感触がまだ残っているが、それもじきに忘れるだろう。もうさやかはあそこには戻らない。


   ***


 翌朝はいつもより少し早く目が覚めたので少し早く家を出た。
 朝から蒸し暑い陽気だが、いつもとほんの少し時間がちがうだけのはずなのに、景色さえもちがって見えて、なんだか少し不思議な気がする。
 太陽がまぶしい。ここ一ヶ月ほど掛け続けていた眼鏡がないからだと気づいて、思わずため息をつきそうになったが堪える。だってもう、さやかは眼鏡に頼らないと決めたのだ。今日学校に行ったら、素顔のままで要におはようを言って、それから、眼鏡を返したと報告しよう。
 と、考えていたところだったので、ぽんと後ろから肩を叩かれた瞬間、さやかは硬直して金魚のようにくちをぱくぱくさせてしまった。
「……柚木さん?」
 どうした、とでもいうように要が見下ろしている。
「あ、えと……、お、おはよう」
 詰まったけど、ちゃんと言えた! 思わずガッツポーズをしたら、要がそのこぶしに気づいたらしい。「おはよう」と返しながらそれを見て笑っていた。
「えっと、これは……」
 さやかが言い訳する前に、要が言葉を続けた。
「柚木さんも、眼鏡外したんだな」
「うん。昨日由梨に会って、それで、もうやめようと思って。それに……狩野君が外すっていうなら、私もと思ったし……。ちゃんとあのうさんくさい眼鏡屋に返してきたから」
「そうか」
 ほっとしたような表情の要に、さやかはやっぱり眼鏡をやめてよかったと思った。それに、眼鏡がなくても、いちおうだけど要に挨拶できた。眼鏡のチカラに頼るより、この方がとても気持ちいい。

♪ラ・ラララララ・ラーララ・ラーララ・ラ・ララララ

「……何?」
「俺の着メロだ。マナーモードにするの忘れてた。でも誰がこんな時間に」
 要が制服のポケットから携帯を取り出す。非通知か、とつぶやきながら通話ボタンを押した途端、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「要はーん、お達者どすか?」
 思わず終話ボタンに手が伸びた要を察知してか、電話の向こうの人物が慌てた声をあげる。
「ちょぉ待ってくださいよ要はん!」
 しかめっつらの要をいぶかしんで、さやかも要の携帯電話に耳を近づける。
「そこにお嬢はんもいらっしゃるんでっしゃろ?」
 さやかはあわてて顔を離して、周りを見回した。だがどこにもあのうさんくさい紺色の着物の男は見当たらない。登校途中の小学生がちらほらと見えるだけだ。
「……何の用だ」
「おぉ声が怖いどすなぁ。わいは要はんの誤解を解こうと思うてお電話させてもろたんどす。要はん、昨日どえらい機嫌悪うかったおすから」
「誰のせいだと思ってる」
「そやからお電話差し上げたどす。お二人さん、わての眼鏡、返して寄越しましたやろ。そないしたら、幸せになりましたやろ」
 何を言っているのかわからない。二人は首を傾げる。
「要はんはわての眼鏡をさんざんこけにしてくれはりましたけど、うちの眼鏡はかならず幸せを運ぶ眼鏡なんどすえ。眼鏡を掛けはって要はんは優等生の委員長に、お嬢はんは萌えっ子になられました。そして二人は仲良しになれたんとちゃいますか」
「……」
「どうでっしゃろ。“はっぴーえんど”とちゃいますか」
 さやかと要は顔を見合わせた。
「ここから先はお二人さんできばりやす。わての仕事はもう終わりどす。これから思う存分逢引されたらよろしゅおす。初“でぇと”はうちやない眼鏡屋でっしゃろか? お二人とも視力は落ちとるさかい、眼鏡をかけられんのがえぇと思てます。そないして帰り道に公園で“ふぁーすときっす”を……」
 今度こそ要は終話ボタンを押した。さっさと制服のポケットに仕舞って、姿勢を正す。
「……えっと柚木さん……」
「……狩野君、学校行こうか」
 二人の間を吹きぬけた生暖かい夏風に、僅かに白檀の香りが混ざっているような気がしたが、それもすぐに消えていった。


   ***


「そういえば、なんで要はあの眼鏡屋の携帯電話知ってたの?」
「あの十年以上前の古い携帯、ヤツに提供したの俺だから……。まさか使い続けてるとは思わなかったが」



 二人の“はっぴーえんど”はこれから始まる!! ご読了ありがとうございました。
 佐東汐先生、ことは先生、青野優子先生、千草ゆぅ来先生の次回作にご期待ください。

《了》


表紙 - 前項

作者/ 千草 ゆぅ来