お嬢はん、眼鏡どうされはったんです?




 六月まで一週間をきった。中間テストが終わったこともあり、ホームルームを前にみな開放感に満ちた顔をしている。
「やっと開放された〜。こうなりゃ明日はパーっと遊ぶっきゃないな」
「コンビニで花火売ってたし、買い込む?」
「川原でパーっと?」
「いいねぇ」
「さやかちゃんもどう?」
 教室前方、廊下に近いさやかの席の周りには人垣。もともと頭の良いさやかの周りは、テスト時期には人垣ができていた。以前は女子ばかりだったそれが、今は男子ばかりに変わってしまった。
「ありがとう。でも、遅くなるとお父さんが心配するから」
「感謝の気持ち」
「俺達のさ、さやかちゃんに教えてもらったトコ、テストにバッチしでてたよ。今回は赤点なんとか免れそう」
「だよな、さやかちゃんのノートが無ければ、テスト乗り切れなかったよ」
 口々にのぼる感謝の声に、さやかは愛想よく応答していく。

 その頃には誰の目にもさやかは変わったと映るようになった。口調は優しく、可愛らしいものになったし、ニコニコと愛想が良くなった。異性にも可愛いと慕われるようになり、由梨以上にもてるようになった。

 狩野はいつも通り、小説を読んでいる――格好をしているものの一行も文章が頭に入ってこない。誰も彼が苛立っていることに気づかない。狩野は誰にもわからないようため息をつく。自分の苛立ちの原因はわかっている。

「……変わったよね、さやか」
 教室後方、窓際では明らかに不満そうな女子の声。席の近い狩野には耳をそばだてていないでも聞こえてくる。
「そんなこと、無いよ」
 テスト前までは必死に弁明していた由梨だったが、今ではその迫力がない。さやかを信じる自分の気持ちに疑いを抱き始めているのだろう。
 春まで由梨を取り巻いていた男子達は、今やさやかの目を引こうと必死だ。
「さやちゃんは……明るくなっただけだよ」
「そうかな? あれ、媚びるようになっただけだって思うけど」
「だよね」
「そう、かな……」
 由梨は所在無げにさやかを見やる。一瞬目が合ったものの、さやかは話しかけてくる男子へと視線を移す。
 眼鏡をかける前はこんなことはなかった。以前のさやかは表情が硬く、しゃべるのも苦手だった。勘違いされやすかったが、友人である由梨には分かっていた。彼女が誰よりも傷つきやすく、優しいことを。今も、あの頃と変わっていない――ハズだ。
 さやかの前では今も女子は今まで通り仲の良い友達面している。けれど、誰もさやかに良い感情を持っていない。
 さやかは知ってか知らずか、男子と話している時、由梨に視線を向ける。けれど、その視線が意味するものを誰も汲み取れない。さやかは楽しそうに男子の相手をしているのだから。
「さやちゃん」
 由梨はぎゅっと唇をかみ締める。さやかの視線は取り巻きから助けて欲しいのか、それとも優越感によるものなのか。どちらとも判断できなくて。以前はそんな視線を向けられると助け船を出しに駆けつけていた由梨だったが、不満そうな男子の様子に気づくと、さやかは何事もなかったかのように、再び愛想良く対応し始めるのだ。
 付き合いが良くなった。それだけなのかもしれない。けれど。決して女子に賛同し、さやかを批難するわけではないが、さやかは変わった。良いとばかりは言えない方向に――。

 狩野はため息を一つつくと、本をたたみ学生鞄にしまう。ふと、思いついたようにルーズリーフを取り出し、短い文章を綴る。それを四つに折りたたみ、無造作にポケットにつっこむ。

 ホームルームが終わってもテスト明けの余韻を満喫しようと学校に残っている学生は多い。さやかは話しかけてくる男子達を何とか振り切り、下駄箱にたどりつけたのはホームルームが終了して一時間も経ってのことだった。
 いつも一緒に帰っていた由梨は、このところ先に帰ってしまうことが多くなった。寂しいが、いつまでも由梨を待たせておくわけにもいかない。だから、仕方がないとさやかは思う。このところ、話掛けてくる人――主に男子を放っておけず、ついつい話込んでしまうのだ。それが、中身のない話だとわかっていても。
 眼鏡のおかげで緊張することなく誰とでも話ができるようになった。さすが魔法の眼鏡だとさやかは嬉しくなるが、どこか言い知れぬ違和感、疎外感を感じはじめているのも事実だ。最近は、由梨までも遠慮がちに話し掛けてくるようになってしまったし――
 靴箱を開けたさやかはそこに一通の手紙を見つけて、しみじみため息をついた。また、だ。なんと断ろうか考えながら封を開け、手紙を読む。

 ――放課後、図書館で待ってます。――

 シンプルな内容に首を傾げ、差出人の名前を探す。便箋にも封筒にもかかれていない。この手紙、いつから入っていたのだろう。男子達の話し相手から抜け出すことができず、放課後になってずいぶん経ってしまった。待ち人はいまだに図書館にいるのだろうか。面倒くさいと思いながらも、さやかは図書館へと足を向けた。
 放課後の図書館は下校時刻から時間が経っていることもあり静かだった。戸口から中をざっと見渡すが、図書館司書どころか誰の姿も無い。帰ってしまったのか? そう思い、踵を返そうとしたさやかだったが、パイプ椅子の背もたれの向こうに学生鞄がちらりとのぞいていることに気づいた。どうやら誰かいるらしい。
 手紙の主じゃないかもしれない。そう思い、さやかは上履きを脱ぎ、スリッパも履かずソックスのまま図書館へ入る。見上げるような書架の一番奥、窓を背に、明るい日差しの中、本を片手に読みふけっている男子生徒の姿。絨毯はさやかの足音を消し、しんと静まり返った図書室に響いているのは彼がくるページの音だけだ。
 彼に近づきながらさやかは驚きに目を見開いた。
「狩野、君?」
 驚いたのかぎょっと目を見開き、狩野はさやかを見た。狩野に感じた違和感――いつもきっちり止めて着ているカッターシャツ、襟元を大きく開け着崩している。それに眼鏡を掛けていない。
 まるで別人のようだ。いつもの穏やかで、優しげな雰囲気は無い。
「私を呼び出したのって狩野君?」
「……あぁ、忘れてた」
 ぶっきらぼうな言い方。さやかは不思議な生物を見るように狩野の顔をまじまじと見やる。狩野はむっと顔をしかめ、胸ポケットにしまっていた眼鏡を掛け、身だしなみを整える。いつも通り。見慣れた委員長が現れる。
「ごめんね、呼び出したりして。話があるんだ」
 先ほどのことなど無かったかのように話はじめる。
「待って――あのね、私――」
 やんわりとお付き合いの申し出を断ろうとすると、
「悪いけど、そういう話じゃないんだ」
 苦笑交じりに微笑まれ、さやかは首をかしげた。
 狩野は眼鏡をはずし、名残惜しげにフレームを見つめていたが、やがてまたポケットにしまう。眼鏡を掛けていない狩野が怖い、そう思ってしまうのはなぜだろう。
「柚木さんも眼鏡はずしたら?」
 どこかつっけんどんな言い方。
「どうして?」
「わかってるだろ? それ何て言ってたか――萌えっ子眼鏡だっけ?」
「なんでっ!」
 狩野がそのことを知っているのだろう。
「僕のは委員長眼鏡とか何とか言ってた。魔法の眼鏡だってアイツ言ってただろ? 確かにそれは魔法と呼べるものだろうな。治したいと思っていた性格が変わるんだから」
 そこでクスリと笑う。優しげな笑みではなく、馬鹿にしたような嘲笑。
「でも、考えてもみなよ。柚木さんは眼鏡を掛けつづけることなんてできると思うか?」
「……どういう……こと?」
 眼鏡を掛けた自分と、本当の自分の間にある深い溝。それは埋めることのできないもの。さやかはその事実に薄々気づき始めていたけれど、目を背けていた。みんなから愛されているのは眼鏡をかけた自分なのだ。
 眼鏡を掛けた自分を好きだと言われても、嬉しくない。告白はすべて断らなければならない。だって、みんなが好きなのは眼鏡を掛けた私であって、本当の私が好きなわけじゃないのだから。
「わかってるだろ?」
 狩野に促されたが、さやかは頷けなかった。青い顔をして、表情を強張らせる。
「眼鏡によってみんなには愛されるようになる。でも、特定の人に愛されるわけにはいかない。だって、バレたら嫌われる可能性の方が高いからね」
 そうだ。本当は愛想も良くないし、何を話したらいいのかわからなくなり、ついつい黙り込んでしまう。飾らない言葉はキツイと言われる。みんなに勘違いされる。嫌われる。

「眼鏡をとりなよ」

 狩野が怖かった。彼も同類なのだ。だから。秘密を知っているから怖い。
「……いや……」
 やっと声が出た。
「やっと、あこがれてた性格になれたの! なのになんでそんな酷いこと言うの?」
「君の為だ」
「私の為? じゃあ放っといてよ!」
「眼鏡をずっと掛け続ける気か?」
「そうよ、それでいいじゃない」
「よくない」
「私はそれでいいの!」
「良くないよ!」
 睨み合う。二人は数分間睨みあっていた気がしたが、実際には十数秒ほど。タイミングよく扉の開く音がして、
「狩野君、留守番ありがとう。職員会議長引いちゃったわ〜」
 おばさんと言うよりはおばあさんの声。司書さんの声だ。
「狩野君? いないの?」
 声を張り上げる。本棚の側面に張られた『お静かに』という文字は彼女の字のはずだが、利用者のいない図書館では意味をなさないらしい。
「すいません、います」
 狩野は声をかけ、数冊の本を抱え、カウンターのある戸口に向かって歩き出す。

「俺は――眼鏡掛けてない柚木さんが好きだったんだけど」

 すれ違いざまに小さな声。ささやく、というより腹立たしそうに呟き声。
「え?」
 狩野に言われた言葉を逡巡するさやかだったが、ポケットから眼鏡を取り出し、掛ける狩野の姿を見て、
「自分だって眼鏡が無きゃダメなんじゃない」
「……わかった。じゃ、眼鏡を掛けない」
 腹立たしそうな声。眼鏡をポケットにしまい、去っていく。
「だからお前も眼鏡を掛けるな」
 反論できないまま狩野は去った。さやかは憮然としたまま、立ち尽くしていたが、
「図書館閉めるわよ〜」
 慌てて眼鏡をはずし、図書館を出る。誰もいないことを確認し、小走りで歩く。眼鏡の無い視界は怖い。誰かにすれ違いそうになったらどうしても顔をそらしてしまう。二ヶ月前まではこれが普通だったのに、今は怖くて仕方ない。学校を出て辻を二つばかり曲がったときだった。

「お嬢はん、眼鏡どうされはったんです?」

 誰もいなかったはずの後方から声を掛けられる。そこにはあの怪しい眼鏡屋。紅い布に広げられた眼鏡と、行儀良く紫の座布団に正座している姿はずっとそこにいた雰囲気だ。さっきまで何もなかったのに。
「……いつの間に」
「お嬢はん、よぉ似合ぅてはりましたのに」
 驚くさやかを無視し、言葉を続ける。
「もしかしてどこかにぶつけられた? それとも落とした? もぉ、そないなことでしたら早ぉ言うてもろぉたらお直ししますわ。"あふたーさーびす"もさせてもろうてます、うちは信頼と安心のお店やさかいに」
 黙ったままのさやかに、男は首を傾げる。
「お嬢はん?」
「放っといて!」
 逃げ出すように駆け出す。家まであと少し、

「お嬢はん、」

 さやかはギョッと足を止めた。あの男がさやかの家の前で紅い布を広げている。先ほど見た時と同じ格好。
「逃げんとって下さい。あてが何かしましたか?」
「何で?」
「何って、お嬢はんが逃げられるからやありまへんか」
 男は自分の眼鏡をはずし、袂からハンカチを取り出しぬぐってかけなおす。
「あてはおかしな商売はしてまへん。皆さんに幸せになってもらぉ思うて眼鏡屋本舗印の眼鏡をお安ぅお分けしてます。せやからお嬢はんがなんで眼鏡をされへんのか、お聞かせ願えまへんか?」
 眼鏡越しに見つめる目はギラリと鋭い。さやかは蛇に睨まれた蛙のように動けない。

 プルルルッ

 はじかれたように、男は懐から携帯を取り出す。
「はい? あぁ、また君ですか。はい、いてはりますけど……」
 ちらりとさやかを見る。
「替われて、商売の邪魔……すいまへん、それは堪忍して下さい。替わります、替わらせてもらいますて」
 携帯をさやかに渡す。
「誰?」
「要はんですわ。ご存知でっしゃろ?」
 要、狩野要――だ。なぜ彼がこの怪しい男の携帯を知っているのだろうと思いつつ、重い携帯に出る。
「柚木さん?」
 聞こえてくるのは狩野の声。眼鏡を掛けていないのだろう。その声にふんわり漂う優しさはない。
「今から言う場所までこられる?」
「眼鏡屋さんが――」
「放っとけばいい。急いで」
 場所を聞くと、さやかは男に携帯を無造作に返し、走り出す。
「どこ行かれはるんやろなぁ」
 男は小さく息をつき、陽炎のように姿を消した。広げた紅の布、眼鏡、座布団も男とともに消える。

 息が切れそうになる頃、海に面した公園に到着した。遊具は無く、ベンチがいくつかあるだけの小さな公園。
 幼い頃はよく遊びにきていたが、高校に上がってからは久々だ。見渡す海は初夏の日差しで宝石を散りばめたかのように輝いている。
 柵にもたれ掛かるように狩野は立っていた。学生服姿のままのところをみると学校帰りにそのままここへ来たのだろう。
「狩野君」
「柚木さん、こっち」
 狩野は手を上げ、さやかを招く。息を整えつつ近づくと、狩野は真剣な顔で、
「僕は決めた。眼鏡が手元にあると、掛けてしまいたくなる」
 狩野は前置き無く話し始める。片手には眼鏡。図書館でした話の続きなのだろう。
「持っていたら絶対掛けたくなる。でも、それじゃダメだ。眼鏡に頼らず、変わらなきゃ」
「――うん」

「捨てよう」

 衝撃的な言葉。さやかは動揺する自分自身に驚いていた。いつの間に眼鏡の存在がこれほど重要になっていたのだろう。
「柚木さん?」
「……後戻りできない、ね」
「でも、それが普通なんだ」
 誰からも愛されていた時間を失うのは怖い。さびしい。でも、あの時間は眼鏡の力によってもたらされたもので、自分の性格が変わったわけじゃない。
「『せーの』で投げよう」
「でも、」
 さやかは眼鏡を取り出し握り締める。捨ててしまうのは惜しい。

「要はん、お嬢はん」

 誰もいなかった背後から聞こえてきたのは忘れられない京都弁。眼鏡を握り締めたまま、二人振り向く。そこにあるのはあくまでにこやかな微笑をたたえた顔。表情は笑っているのに、視線は鋭い。二人を凍りつかせるには十分過ぎた。

「あての眼鏡、お気に召されまへんでした?」


 眼鏡の力に頼らないことを決意した二人だったが、そこに立ちはだかる眼鏡屋の男。次号完結――

《続》


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作者/青野 優子