猫と女




 毎朝、9時半きっかりに。舞子は店のシャッターを開けることにしている。そうすると、自分の中に何か魂のようなものが入ってきて背筋がシャンとするような気がするからだ。1分でもズレてはいけない。それは店長でなかったころからずっと続けている習慣だ。──どんなに体調を崩しても、店に立つときは必ず9時半にシャッターを開ける。舞子は半ば強迫観念のように、その習慣をかたくなに守り続けていた。
 JR鎌倉駅から徒歩3分。少し裏通りに入った本覚寺の並びにあるこの店の名前は“フラワー・ポイント”。名の通り生花や植物の鉢を販売する花屋で、27才の舞子はある事情により、たった一人で店を切り盛りしていた。
 ……ただ、それも三ヶ月前までの話だ。
 床を掃くためにホウキを持ち出すと、レジ後ろの扉がキィと音を立てて開く。奥の部屋から漏れる光はテレビのものか、それともパソコンのものか。
 続けて、おい舞子、と声がかかる。それは若い男の声だ。
「今日の降水確率は午前30%、午後になるとグッと上がって80%だそうだ」
ガサガサと紙が摺りあわされる音。これは新聞をめくる音。
「午後は確実に一雨来るな。客足が鈍るぞ、どうする?」
「どうする? って……」
一人で店を掃除し終わり、レジの金を揃え、花の水を替え、フラワーアレンジメントのカゴを綺麗に並べ直していた舞子は、手を止めずに声に応じる。赤いTシャツにブルージーンズ、エプロン姿の彼女は凛とした表情で、きびきびと仕事をこなしていく。
「知ったこっちゃないわよ、そんなの」
水を満たしたカゴにピンクとホワイトのミニ・ブーケを並べ、配置を考えている舞子は上の空だ。
「雨で人が外を歩きたくなくなるのは自然の摂理よ。わたしにどうにかできるわけないじゃない」
「そういう問題じゃないだろう? 雨の日なら持って帰りやすいような小振りのアレンジメントをつくるだとか、いろいろあるんじゃないか」
……だからお前はガサツなんだよ、と。余計なことを付け足しながら、声は言葉を止めた。
「何よ」
ムッとしたのは舞子だ。
「働かないクセに何言っちゃってんの? アンタ」
つかつかとレジ奥まで行くと、勢い良く扉を開けた。
「アンタみたいなのを“ごくつぶし”っていうのよ、篁(たかむら)!」
 部屋に居た声の主は、ジロリと舞子に視線を返してきた。付けっぱなしのテレビ。ちゃぶ台に置かれたノートパソコン、無造作に開かれた新聞。そこに座っているのは……。

 眼鏡をかけた、一匹の黒猫だった。

 黒猫は、非常に人間らしい仕草でフゥーとため息をつくと、その特製ミニ眼鏡をはずし、ちゃぶ台に置いた。
「舞子、お前な」
口調はまるで、悪戯をした子供をたしなめるようなものだ。
「僕は働かないんじゃない、働けないんだ。この肉球とこの爪で、僕に何ができる? スイートピーの花弁を裂いて増やすことなら簡単だがね」
黒猫、篁は四足歩行で舞子に近寄る。その人語を話す猫の姿は、一言でいうなら「妖怪」。畳に座って新聞を読む猫は、そう片付けるにふさわしいものであった。
「それにな、僕には“穀潰し”という言葉は不適切だ。僕は穀類を食すことはない。食物を摂取することすらないんだ。僕はお前にコスト負担を強いていないと思うんだが、どうだ?」
「アンタ、人間の姿だってするじゃないの」
「それは夜だけだ。昼は力が足りなくてこの姿しか取れないんだ。……三月も一緒に暮らしてて、そんなことも分からんのか」
「うるさい、もーいいわよ」
あー、ムカつく。声に出して憎々しげにそう言うと、舞子は篁に背を向けて店へ戻ろうとした。篁は猫の姿をしているものの、やたら理屈っぽい男だ。舞子が舌戦で彼に勝てることはめったになかった。
「待てよ」
篁はその舞子の様子を見て、サッと跳んで彼女の前に躍り出る。愛らしい黒猫の黒い瞳で、彼女を見上げる。
「今、インターネットでアレンジメントのデザインを見てたんだ。参考になるかもしれないぞ」
「ほんと?」
舞子は篁を抱っこして、パソコンの前に座った。篁が黒い腕を伸ばし、器用にパソコンのキーボードを叩くと、画面に個性的なフラワー・アレンジメントの写真が次々と表示されていく。
「どうだ?」
斜に振り返り篁は舞子を見上げた。舞子は言葉に反応することなく、画面に釘付けだ。
 猫は苦笑し、舞子の膝を離れ眼鏡をかけ直していた。


 話は三ヶ月前のある夜に遡る。
 舞子が一番“ひどい状態”だったころの一夜だ。
 彼女と結婚を約束していた圭介が胃ガンで死んだ。病気が発覚してからたった半年。“フラワー・ポイント”が開店から三周年を迎えた日、彼は冷たい土の下で眠ることになった。
 彼の死後、舞子は彼の両親と話し合い、店を譲り受けることになった。元々、花屋は圭介が開業資金を貯めて開店したもので、店の経営状況は悪くなかったし、舞子も圭介が愛した店を離れるには忍びなかったのだ。
 しかし店の経営は多忙を極め、舞子は悲しみから立ち直るための十分な時間をとることが出来なくなっていた。そのことが彼女を深刻な状況へと追い詰めていく。舞子は、アルコールに溺れるようになってしまったのだった。
 鎌倉小町通りにあるショットバーに、舞子は毎日通うようになった。最初はギムレットやマティーニなどを飲んでいた。それがやがて、ジャックダニエルのロックに変わり、最後にはワイルド・ターキーのダブルのストレートに変わっていた。
 酔ってフラフラになりながら、家に帰って一人泣く。そんな毎日を繰り返していたある夜のことだった。
 ふと夜中に目を覚ましたら、隣に服を着たままの若い男が寝ていたのだった。
 
「ギャーッ!!」
 その驚愕の声は、若い女性が上げたものにしてはあまりに品が無さ過ぎた。
 舞子は転げ落ちるようにベッドから離れ、自分が服を着ていることを大急ぎで確認した。返す瞳で見知らぬ若い男を睨み付ける。眠気は当然ながら一瞬にして吹き飛んでいた。
「誰よ、アンタ!」
「誰よって……やっぱりな」
男は寝転んだまま片手を頭の後ろにゆったりと回し、笑った。
 年齢は舞子と同じぐらい。水色のワイシャツにスラックスというサラリーマン風の出で立ちで、細いべっ甲フレームの眼鏡をかけている。
「随分と酔ってたから、覚えてないんだろ。僕のことをさ」
眼鏡男は、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた。
「バーで、名前は篁、と名乗ったがね」
「バーで? たかむら?」
「お前が言ったんだぞ。泊まるところがないならわたしの家に泊まっていいわよ、ってな」
篁は、舞子の口調を真似てヘナヘナした女のような声で続ける。
「……泊まってもいいけどわたしのカラダは駄目よ。まだダンナの喪が明けてないの、とも言ってたな。僕は別に、お前を抱きたいなんて全く思わなかったんだがな。愉快だったぞ」
「な……?」
思わぬ反撃にひるんで、言葉をグッと飲み込む舞子。相手は明らかに彼女をコケにしている。身体に残ったアルコール分が彼女の怒りを一気に倍増させた。
「ちょっと何なのよアンタ。すごいムカつくんだけど」
「お前こそ。酒が抜けてくるとノリが悪くなるんだな」
そう言いながらも篁は身体を起こし、目に見えて機嫌の悪くなった舞子を正面から見た。
「まあ、座れよ。ゆっくり話をしよう」
「こ・こ・はわたしの家よ!」
叫ぶ舞子。
「怒るな。そんなに怒ってばかりいると生理が来なくなるぞ」
「何言ってんのよ! 今すぐ出て行きなさいよ、このクソ野郎!」
「クソ野郎、か」
篁はゆっくりとベッドから立ち上がって、舞子の前に立った。彼の方が頭一つ分背が高い。静かな瞳でじっと舞子を見下ろす。
「な、何よ」
「僕は確かに“クソ野郎”かもしれないな。しかし、東堂舞子。僕がバーで提案した話に、お前は興味深々だったぞ。あの話はもういいのか? いいのなら僕はこのまま退散するがな」
「何の話よ」
舞子には訝しげに眉を寄せた。
「悪いけど、ゼンッゼン覚えてないわ。変な健康食品でも売りつけようとしてたワケ?」
「そんな下らないものじゃない。一つの取引だよ」
「取引?」
この後に及んで、一体何を言い出すのやら。舞子は強い視線で男を見上げる。

「お前は、夫を病で亡くしたと言っていたな。そいつを生き返らせてやる、と言ったんだ」

「……え?」
「僕の提示する条件を呑むなら、お前の夫を現世に呼び戻してやってもいいと、そういった話をした」
言葉の意味が理解できない様子の舞子に、篁ははっきりとした声でもう一度説明した。
「僕は言ったとおり宿無しだ。しばらく滞在できる場所が欲しい。しばらく僕をここに住まわせてくれるのなら、外法を使ってお前の夫を生き返らせてやる。どうだ? 交換条件としては悪くないハズだがな」
 舞子は呆然とした表情で、篁を見上げている。言葉もない。
 真夜中に突然現れた男から、恋人を生き返らせてやるなどという突拍子もない提案をされたのだ。相手の言葉の意味を飲み込めない彼女の反応は当然と言えた。
 少し時間が必要かと、顔を傾けて相手の顔を覗き込む篁。
「聞いてるのか?」
「──何言ってんのよ。わたしを馬鹿にしてんの!?」
すると突然、舞子は叫ぶように言い放って、男の胸を両手で打った。
「圭介が帰ってくるわけないじゃないのよ! 最低よアンタ。そんな宗教まがいの嘘八百並べて、こんな……こんなに悲しくて死んでしまいそうなわたしを騙そうと……」
言葉の最後は嗚咽に飲み込まれた。舞子は涙を隠すように両手で顔を覆う。
「騙すつもりは、ないんだがな」
さすがの篁も、泣き出した彼女を前に小さく言った。そっと肩に触れ、手を弾かれたものの、根気良く彼女の手をとる。
「見てみろ、ほら……」
篁は部屋の窓を指差した。そこには黒い闇が広がっている。
 窓に舞子が視線を移すと同時にパチン。篁は指を鳴らした。
 そこが一転、銀幕のようなスクリーンになった。
 映し出されたのは、一人の若い男性の姿。笑顔を浮かべながら、あのフラワー・ポイントの店内で薔薇の花を束ねている。舞子が何度も何度も見、そして目の裏に焼き付けている光景だった。
 画面の中の男性と舞子の視線が合う。彼はにっこりと微笑み、何かを話しかけてきた。
 その口の動きを見て舞子は悟った。彼は、圭介は“舞子”と、自分の名前を呼んだのだ。
「どうだ?」
映像を見せ終わった後、篁は静かに言う。
「言い忘れたが、僕は普通の人間じゃない。妖怪だのバケモノだの、どんな言い方をしてもらっても構わんが、見てもらった通り。お前の願いを叶えることは出来る」
「分かったわ」
舞子は、映像の消えた窓を穴のあくほど見つめている。
「篁、って言ったわね。わたしの部屋に住んでもらって結構よ。ベッドは別に用意するから」
「契約成立だな」
「それともう一つ、訂正しなくちゃいけないわ」
まだ、舞子の視線は窓を見たままだ。怪訝な顔をする篁。
「圭介はわたしの夫じゃないの。だって、わたしたち本当はまだ結婚してなかったから……」
彼女の大きな瞳からほろりと一筋。涙がこぼれ落ちていた。


 かくして天気予報は的中し、午後には雨が降り出した。
 表通りの人通りが途絶えたころ。フラワーポイントの店内には無言の二人。レジカウンターに座り、もくもくと手を動かしている舞子に、その隣りで店の仕入支払帳を整理しようとパソコンのキーを一心不乱に叩いている黒猫の篁。
「出来た!」
 舞子がそう言って誇らしげに掲げたのは、オレンジ色の小さな花をボール型にまとめたフラワーアレンジメントだった。大きさはリンゴの実ぐらい。ミントグリーンのリボンを持って、吊るして持つことができる。
「ね、篁。どう、コレ」
問われて、篁は面倒くさそうに眼鏡を直しながら、舞子に目を向けた。
「お前にしては、上出来なんじゃないか」
「あ、そ。ありがと」
上機嫌の舞子には、あまり皮肉が通じない。「ね、これの商品名ひらめいちゃった。“春の風鈴”っていうの。どうかな? ……春の窓を飾るお花の風鈴です……ってPOPつけて軒下にぶら下げてみようと思うんだけど。どう思う?」
「いいんじゃないか。POPなら僕が作ってやる」
「ホント? ありがと。アンタ妖怪のくせにけっこうセンスいいもんね……。頼んじゃおうかな」
 舞子は立ち上がり、嬉しそうに新作を高々と持ち上げて眺める。と、その視線が二時半を指し示す壁掛け時計のところで止まった。
「あ、そうだ。銀行、行かなきゃ。閉まっちゃう」
彼女はそのまま、パソコンを叩く猫に目を落とした。
「悪いんだけど、篁。留守番しててくれる?」
「ああ。外に準備中の札出しとくの忘れるなよ」
「うん、じゃあ行ってくるね」
ニコッと微笑んだ舞子は、カウンターの奥に回って、手短に荷物をまとめた。そのままそっと手を伸ばし、後ろから篁の頭を撫でる。
「こらッ、よせ」
嫌がる黒猫の姿を見て、あはは、と舞子は屈託なく笑って、店を出て行った。

 一転、店を静寂が包み込む。
 篁は舞子を見送ったあと、ため息をついてパソコンに視線を戻そうとした。──しかし、ふとまた目を上げる。
 いつの間にか、コートを着た男が店の外に立っていたからだ。
「遅かったな」
 篁が静かに問うと、男はすでに店内に居た。ガラス戸は空いていない。
「貴方があまりにも常世に近い処にいるので、なかなか近寄れなかったのです」
 水をポタポタと落としながら男は言った。照明を背にし、俯いた顔は影に隠れている。
「ご用件を伺いましょう、篁殿」
「久しぶりに外法の術を打とうと思う。力を貸せ」
「何ですと!?」
 男はわずかに顔を動かし、驚愕の声を上げた。
「篁殿、何を考えておられるのです?」
 フン、と篁は鼻を鳴らした。
 男はその猫の様子を、俯いたままじっと見つめていたようだった。篁殿、ともう一度たしなめるように、その名を呼ぶ。
「三月もこんなところに留まった上、外法を打とうなどとは狂気の沙汰です。何をしておられるのです、早く、あの女の魂を食らって、身をお隠しなさい。貴方は目立ち過ぎています。巫女どもに狙われてもおかしくない……」
「うるさい、お前は僕に意見するのか」
返す篁の言葉には怒気がこめられていた。
「なぜ、ここに留まるのです? あの女の魂に何か問題でも?」
しかし男は食い下がった。篁は猫の手で自分の耳を塞ぐようにして首をブンブンと振る。
「うるさい、うるさい、僕は酒臭い魂を食らうのが嫌だっただけだ」
「はあ?」
「お前に言われなくたって、あいつの魂を食らうさ。ただ──今がその時じゃないだけだ」
篁は、ゆっくりと言った。昂ぶった心を落ち着けるように、何かを自分に言い聞かせるように。

《続》


表紙 - 次項

作者/冬城カナエ