思い出に散るは椿の赤




 人の魂を喰らう妖しである篁も、かつては”人”と呼ばれる存在だった。
 実家であった「高村屋」は江戸でも一、二を争う老舗の呉服屋で、人並み以上に裕福といっても差し支えなかったように思う。跡継ぎとして厳しく躾けられた兄とは違い、次男である自分は幼い頃から自由に育てられた。なにより好きな書物を読み漁っている時が、篁にとって至福のときだったのだ。妙にこまっしゃくれて理屈っぽかった自分は、将来は学者になりたい、などと漠然とした夢さえも持っていた。
 兄は、要領よく生きていた自分よりも遙かに真面目な人だった。しかし海千山千の商人達を相手にするには、その繊細な神経では少しばかり荷が重かったのかもしれない。周囲の期待を一身に受け、かかる重圧に耐え切れなくなった時、ついに兄は一人の女と姿を消した。
 何が兄をそこまで追い詰めていたのかは解らなかったが、彼が決して帰ってこないことを、篁は無意識に知っていたのだ。
 そうして結果、「高村屋」は篁が跡を継ぐことになった。
 本音を言えば兄を少しだけ恨んだ。兄のように周囲の期待が重かったわけではない。ただ単に面倒臭かったのだ。
 それなりに頭の出来も悪くなかったから、商いを切り盛りするのは難しいことではなかった。それまでの周囲の侮りとも取れる態度を実力で変えてやった時は溜飲が下がったものだ。篁は自分では認めないが結構な負けず嫌いだった。
 そんな篁にも人生の転機が訪れる。祝言の話が持ち上がったのだ。
 夫である自分よりも三歩下がった所でひっそりと微笑むその女とは、けして好きあって祝言をあげたわけではない。恋愛ごとには淡白だった篁に、お節介な叔母がどこからか見つけてきたのである。家名を守る、という立派な意思を持っていたわけではないが、嫁を取るのは当たり前のことだと思っていたから、特に反発もしなかった。
 その女の名は、初(はつ)といった。
 初は物静かな女で、篁が喋らなかったら一言も言葉を交わすことなく一日が終わってしまうほどだった。最初は「なんて陰気な女だ」と怒り半分、薄気味悪く思っていた。しかしいつも、何を言っても柔らかく微笑んでいる初を前にすると、篁の怒気はことごとく挫かれた。怒っているのが馬鹿らしく思えてくるのである。
 そしてその沈黙が次第に心地よくなるのにさほど時間はかからなかった。
 初はどこにでも居るような凡庸で退屈な女だった。
 しかし、一つ忘れられないのは、戯れで贈った椿が彼女の笑顔に酷く似合っていた事だ。
 他の女に浮気するような性分でもなかった篁は、初が病気でこの世を去るまで五年連れ添った。残念ながら子は成らなかった。それが理由で随分と実家での風当たりが強かったのだと後で聞いたものだが、あんな風に笑っていたら気付くはずが――気付ける筈がなかったのだ。
 初が結核で死に、その葬儀を終えたとき、初めて篁はその胸に穴を開ける喪失感に愕然とした。
 まるでぱさぱさに乾いた白砂が、知らぬうちに無常にも指の間をすり抜けていくような。

 ――僕はあの女の事が好きだったのか。

 初の代わりとなった位牌を胸に抱いた時、篁は初めてその感情に気がついたのだ。それにはすべてが遅すぎた。
 
 もともと小食だった食は、段々と細くなり、憔悴していった篁はついに病に伏せた。奇しくも篁の命を削っていったのは初と同じ結核だった。
 あの日、病床に伏せっていた篁は、自分の死を予期していた。咳き込むたび、着物の袂に散る赤が椿のようで、篁は無意識のうちにそっと微笑む。――あの時、自分はらしくもなく理性を失い、狂いかけていたのかもしれない。
 朦朧とする意識の中で初の名前を呼び、霞んでいく視界の中、もう一度だけで良いから初に逢い、聞きたい事があるのだ、とそれだけを思った。それが執念と言い換えられるものだとしても、篁があれほどに何かを強く望んだ事は無かった。
 その執念が仏に届いたのだろうか――もしも、いるとすればの話だが――次に篁が目を覚ました時、彼はとてつもなく腹を空かせていた。瞬きをすれば、ぼんやりとしていた視界が徐々に鮮明になっていく。卵の黄身のような月が空に浮かんでいるという事は、どうやら今は夜なのか。篁は自分の身体に巣食っていた病魔の気配がないことに驚いた。胸が軽く、咳き込むような息苦しさもない。そして、ふとなにげなく落とした視線の先にあったものにぎょっとする。黒いぽてっとした小さな動物の手があったのだ。それを恐る恐る持ち上げてみれば、自分の意思どおりに黒いものが持ち上がる。
 これは僕の身体なのか?
 手を覆っていたのは艶のある黒い毛皮である。この分なら手だけとは言わず全身真っ黒なのだろう。そして手の先には、人間にしては鋭すぎる爪がにょきりと存在を主張していた。
 篁は混乱した。どうやら自分は人から畜生に生まれ変わったらしい。僕は初に逢いたいと言ったが、なぜこのようなことになっている。ああ、それにしても、なんだか無性に腹が空く。
 酷い渇きと飢え。人であった時には感じなかったその焼け付くような感覚に、やはり身体が変わったからだろうかと篁はそう結論付ける。考えごとをしていた篁の鼻を芳香がくすぐった。甘い、まるで女子供が喜んで食べる砂糖をまぶした菓子のような匂いだ。それに惹きつけられて、篁は本能のままにふらふらと歩き出していた。
 日が落ちてからは人の通りはぱたりと止む。このなような刻に出歩くなど、妖しか盗人ぐらいのものだろう。そしてついには暗い空から雨粒が振り出した。
 その香りに引き摺られる様にしてきてみれば、軒下に一人の若い女が居た。着物を着崩し、開いた襟からは白い柔肌が覗く。その艶やかな格好から、女はどうやら遊女であるらしかった。
「あら」
 女は篁に気がつくと、しなやかな腕を伸ばし、気安い様子でひょいと篁を抱きかかえた。もちろん持ち上げられるなど初めての経験だった篁は動揺し、その手から逃れようともがく。しかし、女は猫の扱いに長けているのか、首の下をひとなでされれば心地よさに篁の強張りはとれた。そしてあの甘ったるい匂いが鼻腔を刺激した。
 ――嗚呼、なんて美味そうな匂いだろう。
「アンタ、一体どこの子?」
 女は気だるい語調で話しかけてきたが、篁の意識は既に凶暴な欲に支配されていた。話しかけてくる女の声も耳を素通りし、篁はただその甘いものだけに心を奪われる。篁の黒い瞳が金色に輝き、瞳孔が獰猛そうにすっと細まった。
 喰え。喰らえ。喰ってしまえ。
 目の前が真っ赤になった瞬間、ぶわりと篁の身体から黒いものが立ち昇った。それは煙のようでもあり、獣が牙を剥き出しにしている影のようにも見えた。女は恐怖で目を見開き、悲鳴を――。

「殿――篁殿!」
 はっと、自分を呼ぶ声に意識を戻された。ずれた小さな眼鏡を器用に肉球で押し上げながら、篁はすっかりコートがトレードマークになった男を軽く睨む。
「何だ、颯(はやて)大声を出すんじゃない。舞子に気付かれたらどう言い訳するつもりだ」
 不機嫌そうな篁の視線を受けても、慣れているのか颯は怯む様子も無い。颯は一見、強面で堅気の男には見えないが、口を開けば几帳面で礼儀正しい男である――但し足音一つ立てずに現れる事が出来る彼は、篁と同じ”人ならざるもの”だが。

 最初は人の魂を喰らう事に抵抗があった篁も次第にそれに慣れた。人も他の生物の命を奪って生きているのだし、それと同じなのだと篁は自分をそう納得させた。そうでなくても極度の飢えを感じると、自然と喰ってしまうのだからしょうがない。その頃の篁は、凶暴な衝動として湧き上がってくる欲を抑える術を知らなかった。力をつけた今ではそれをコントロールできるようになり、場所や時を選ばず人を襲うということは無いし、選り好みさえもするようにもなったのだが。
 罪悪感は消えた。しかし人を喰えば、篁は自分が人ではないことを改めて実感するのだ。
 篁は年を経るたびに己の力が強くなっているのに気がついた。古くなった器物が力を宿せば付喪神と呼ばれる妖怪になるが、何百年も人の魂を喰って生きながらえるなんて自分も押しも押されぬ立派な妖怪である。螺旋のように続く生にも飽いていた。しかし死に方も知らなかった。心の隅にある後悔と感傷がときどき胸を苛んで、 篁はそれを無理矢理、押し込める。そんな時に出会ったのが颯だった。
 颯とは巫女と呼ばれる連中に危うく退治されそうなところを助けてやってからの付き合いだ。それからは自分を慕っているのか、頼んでも無いのにいろいろと世話を焼いてくる暇人である。
 その”暇人”は、そっけない篁の言葉にひとつ咳払いをしてから、どこか緊張した面持ちで言葉を紡いだ。

「篁殿。《外法》の準備が整いました」

 颯の言葉を聞いた篁の表情にピリッと緊張が走る。以前、颯がここに姿を現してから一週間たらずしか経っていない。
「そうか。相変わらず早いことだな」
 篁は颯を見ながら頷いた。

 人を還らせる《外法》を篁に教えたのも颯だ。
 その《外法》の術は元はといえば、颯が巫女から盗みだしたものだった。
 死人を還らせる術。
 それは人の世では決して許されない禁忌とされている。しかし、許されないとは知っていても願ってしまうのは人の業だ。その術が存在して言うという事が、何よりの証ではないか。
 その禁じられた術を手に入れてからは、篁と颯はしばしば巫女に狙われるようになった。それまでのらりくらりと人の魂を喰いながら時代の影を生きてきた篁にとっては颯はとんだ面倒ごとを運んできた疫病神だ。それだから篁は腹いせのつもりで颯を目いっぱいこき使ってやることに決めたし、颯にしても篁に使われる事を喜んでいる節がある。適材適所だろう。
 《外法》は大掛かりな術だったから、打てば巫女に感知される恐れがあった。これまでに《外法》を打ったのは数えるほどだったが、今回は長くこの地に留まっているから、自分の妖気を辿って彼女達は近くまで来ている可能性がある。
 それでも篁の心は決まっていた。
「舞子を呼んでくる。お前は帰れ。巫女に見つかると面倒だからな」
「篁殿。こんな事を申し上げたくは無いのですが、何故貴方はご自分の古傷を抉るような事を……」
 躊躇するような颯の言葉に、篁は射殺すような鋭い眼を向けた。
「うるさい。帰れと言っているのが聞えないのか。あとは僕がやる」
「……解りました」
 颯のついたため息が妙に耳障りだった。ふと空気が揺れると颯の姿は掻き消える。
 舞子を呼びに行くたびに振り向いた篁の目に鉢植えの椿が目に入った。それは赤い花を見事に綻ばせながら、短き生を謳歌していた。その花がまるで自分に笑いかけているような気がして、忘れていた痛みがちくりと篁の胸を刺す。

 ――お前は幸せだったのか? それとも僕を恨んでいたのか?

 篁は問いかけてみたが、椿は美しき顔で沈黙を守ったままだ。それから視線をそむける様にした篁は自分でも気付かぬうちに、自嘲の笑みを浮かべる。
 そして再び顔を上げた時には、くだらない感傷は消え失せていた。妙に冷えた心の中で、誰に言い訳するわけでもなく、篁は同じ言葉を繰り返す。

 これは余興だ。あの女の魂を喰らうまでの暇つぶしなのだ。特に深い意味など――無い。

 それは、不可解な感情を持て余す自分を納得させるためのものだったのかもしれない。

《続》


表紙 - 前項 - 次項

作者/佐東汐