そして、猫と女




 一面を覆い尽くす白い光の中、舞子は確かに自分を呼ぶ声を聞いた。
 それは、懐かしい声音。
 優しく響く、誰よりも大切な人が奏でる音。
 瞳を閉じていた舞子が、自分の名を紡ぐその声に目を見開くと――。
「――え?」
 目の前には、想像していたはずの姿の代わりに一人の女性がひっそりと立っていた。
 落ち着いた紺色の着物を身にまとったその女性は、やわらかい笑顔を浮かべたまま舞子の隣にいる篁を見つめている。
 まるで、このときを待っていたかのような、そんな微笑みで。



「なっ……」
 女性の姿を視界に入れた篁は、思わず言葉を失う。
 すべての暗闇を飲み込むかのような白い光がおさまったそこに、彼女はいた。
 自分の中に残っている記憶、そのままの姿で。
 控えめな存在感も、やわらかい微笑みも。
 自分自身を見つめる優しいまなざしまでも変わらない、遠い過去に死んだ女、初。
「やっと、会えましたね」
 舞子の恋人である圭介を呼び出したはずなのに、なぜ目の前に初がいるのだろう。
 茫然と目の前の女性を見つめる篁にむかって、初はにっこりと笑顔で口を開く。
 それは、懐かしい声。
 懐かしいイントネーション。
 遠い昔、好きな書物を読みふける合間、些細なことを話し掛けたときに応えてくれる優しい声音。
 繕い物の手を止めて、やわらかい笑顔と共に返事をしてくれたあの頃が甦る。
 一寸も変わっていない。あの頃とまったく同じ初が目の前にいた。
「お久しぶりです。あなた」
 時が、戻る。
 まだ篁が人だった頃に。
 人を喰らうことなく、日々を平和に過ごしていたあの頃に。
 永遠に続く醜い生の螺旋に陥る前に。
「……ど、どういうことよっ。篁っ?!」
 茫然と目の前で微笑む初を見つめていた篁の耳に、泣き出しそうな女の声が聞こえてくる。
 泣き出しそうな、舞子の叫び。
「圭介は? 圭介に会わせてくれるんじゃなかったのっ?」
 そんなことは僕が聞きたい。
 舞子の詰問に思わず篁は呆然と呟く。
 一体、何がどうなってしまったというのだろう。
 確かに自分は<<外法>>によって圭介の魂を呼び戻したはずだった。
 そのつもりで術を行ったはずだ。
 過去、何度か行った術でこのような失敗をしたことはない。
 ――失敗?
 目の前にいる初は、失敗だというのだろうか?
 自分は、目の前にいるこの女に会いたかったのではないだろうか。
「ま、いこ……さん?」
 篁に向かって食って掛かっていた舞子の耳に、優しい声が聞こえてくる。
 本来なら、今ごろは彼が口にしてくれている自分の名前。
 その名を、優しげな和服姿の女性がおずおずと口にする。
「なんですかっ?」
「誰よりもあなたを大切に想っている人から、あずかりものがあるのですよ」
 そう言って、初はいつから持っていたのか、両手に抱えたていものを舞子に差し出す。
 それは、黄色いフリージア。
 舞子の中にあるやわらかい記憶を刺激する、小さな花たち。
 アーチ状に揺れるその花は、舞子の中に住む圭介の存在を浮き彫りにする。
 花に囲まれた店内で優しく微笑む大切な人の姿。
「自分の代わりに、これを渡してくれと」
 目の前で咲き誇る黄色い花に目を奪われていた舞子は、初のその言葉に顔を上げる。
 そこには、圭介と同じぐらい柔らかな笑みを浮かべる優しそうな一人の女性。
「はい」
「あ……」
 ふわり。
 柔らかな空気と共に、舞子の腕の中にそれがやってくる。
 抱えきれないほどたくさんの、フリージア。
 抱えきれないほどたくさんの、圭介との想い出。
「え?」
 そして。
 フリージアをその胸に抱きしめた瞬間、舞子の身体を懐かしい空気が包み込む。
 それは、舞子が愛した彼の存在。
 まるで、圭介が優しく舞子を抱きしめたかのような、そんな穏やかなあたたかさ。
「け……圭介?」
 自分を包む懐かしい空気を感じた舞子がその名を口に出した瞬間――。
 舞子の耳にふわりと届く、声。
 穏やかな、優しさに満ちた圭介の言葉。
 その言葉を聴いた瞬間、舞子の頬に大粒の涙がつたっていった。



「……どう、いうことだ?」
 初の渡したフリージアを抱きしめてしゃがみこんでしまった舞子を見て、篁は茫然と呟く。
 何もかもが、理解不能だ。
 あの花を通じて、舞子は何を感じたというのだろうか。
 初は舞子に何を渡したのだろうか。
 それ以前に――。
 ここにいる初は、一体何者なのだろうか。
「彼の想いが彼女にきちんと届いたのですよ」
 茫然としたまま舞子を見つめていた篁に、初がやわらかい声で言葉を返す。
 それは、二人が生きていたあの時代のままで。
 ごくごく自然に交わされる日常会話のようで。
 時が、遡る。
 遥か昔、まだ篁が高村屋の跡取りだったあの頃に。
「お前は……本当に、初、なのか?」
「はい」
 信じられないような篁の問いかけに、初は柔らかな笑顔で頷く。
 その仕草は、確かに初のもの。
 その笑顔は、確かに椿の赤がよく似合う大切な女性のものだ。
「あなたが私を呼んでくださったでしょう?」
 初のその言葉に、篁は思わず息を呑む。
 今まで何度か行ってきた<<外法>>。
 今思えば、この術を入手した最初に初を呼び出せばよかったのだ。
 篁が一番会いたかった相手は、目の前にいるこの女なのだから。
 妖しになった自分は、そのような気持ちすら忘れてしまっていたのだろうか。
「ずっと、見ていましたよ」
 遠い昔に置いてきた初への想いを手繰り寄せていた篁に向かって、初は穏やかにそう話し掛ける。
「ずっと、あなたの行っていることを見ていました」
「な、んだって?」
「人を喰らい続ける妖怪。そうなってしまったあなたを、ずっと見ていましたよ」
 穏やかな話し方はそのままで、しかし一歩も引かない強さを秘めた声音で初は言葉を続ける。
「なぜ、そこまで執拗にこだわるのですか? 人を喰らうてまで生きながらえるその先に一体何があるのですか?」
 初の厳しい問いかけに篁は思わず言葉を失う。
 なぜ。
 なぜそこまでこだわるのか。
 生きながらえたその先に何があるのか。
 そんなことは篁本人にもわからない。
 ただ、腹が空くから人を喰らう。
 この螺旋を断ち切る術がわからないから、生きながらえる。
 ただ、それだけのこと。
 その想いを口にしようとした篁に向かって、初はそれまでの厳しい口調から一転やわらかい声を出す。
「……きっと、あなたにもわからないのですよね」
 優しげなまなざしで自分を見つめる目の前の女に、篁は胸が苦しくなるのを感じる。
 妖しである自分には無縁なはずの、胸の痛み。
 遥か昔に置いてきたはずの人としての感情。
 それが、篁の胸を、心を支配する。
 ああそうだ。
 僕にとって初はこういう存在だったのだ。
「お前には、わかるのか?」
 喉に何かが引っかかっているかのようなかすれた声で、篁はゆっくりと言葉を吐き出す。
 その篁の問いかけに、初は微笑を崩さずゆっくりと頷いた。
「はい」
 当然のことのように応える初に、篁は思わず言葉を飲み込む。
 なぜ、初にはわかるのだろうか?
 篁には、他の誰よりも自分自身が一番わからない。
 あの時、朦朧とする意識の中で思った気持ちがなんだったのか。
 霞んでいく視界の中で願ったものがなんだったのか。
 畜生となって、空腹のまま人の魂を喰らうているうちに、篁はそのことを忘れてしまった。
 残ったのは、妖怪となった己の身体。
 卑しく生きつづける、醜き生の螺旋。
「私に、聞きたいことがおありなのでしょう?」
 初の声に顔を上げると、そこには昔と変わらぬやさしい笑顔がある。
 控えめで、穏やかで、常に篁のそばにいた優しい女が立っている。
「私が先に逝ってしまったから、聞けなかったことがおありなのでしょう?」
 甦る、あの悲しみ。
 初の位牌を胸に抱いた瞬間に感じた、あの感情。
 逢いたくて逢いたくて。
 僕は、もう一度初に逢いたかったのだ。
 初に逢って、きちんと尋ねたかったのだ。

「――お前は、僕と一緒になって幸せだったのか?」

 それは、初の葬儀のときにはじめて気づいた気持ち。
 こんな無愛想な男と一緒になって、初は幸せだったのか。
 短い人生を、負けず嫌いで理屈っぽい男と共に過ごして、本当によかったのか。
 すべての問いかけは未消化なまま篁の中に残る。
 そして、その想いが、篁を人ではないものへと変えてしまった。
「幸せでしたよ」
 未消化となっていた篁の問いに、初は少しも迷うことなくはっきりと答える。
 その声には、一寸の迷いも感じられない。
「私は、あなたのそばにいられるだけで幸せだったんですよ」
「僕のそばにいるだけで? 僕はお前に何もしてやれなかったのに?」
 あまりにあっさりと出された応えに思わず声を荒げてしまう篁に対して、初は穏やかな微笑みを絶やさず言葉を続ける。
「私は、あなたが私のことを知るずっと昔から、あなたのことをずっと見ていましたから」
「な……に?」
 篁と初の縁談は、篁のお節介な叔母によっていつのまにか決まっていたことで、篁は家同士が勝手に決めたものだと思っていた。
 家名を背負った一家の主が惚れた腫れたで相手と一緒になることはまずなかった時代だったし、篁自身色恋沙汰にはめっぽう疎く相手は誰でもよかったので、初も同じようなものだと思っていたのだ。
「私は、あなたとの縁談が持ち上がる前から、あなたのことを好いていたのです。だから――」
 だから、一緒にいられるだけで幸せだったのだ、と。
 初は優しく微笑んで言葉を続ける。
 その言葉を聞いた瞬間、篁の中で何かが外れる音がした。
 それは、永遠に続くと思われていた、螺旋を断ち切る音。
 終わることのない醜い生の輪を外す、開放の音。
「お前……」
「やっと、鎖が外れましたね」
 ぼんやりと自分を見つめる篁に向かって、初はふわり、と手を差し出す。
 白くて華奢な、細い指先。
「さぁ、一緒に逝きましょう。あなた」
 差し出されたそれは、永遠に続くと思っていた生の螺旋から抜け出す唯一の光。
「今ならその姿を捨てることができますよ」
 にっこりと微笑む目の前の女は、自分が求めつづけてきたただ一人の大切な人。
「――殿っ! 篁殿っ!」
 差し出された白い手をとった瞬間、篁の耳に馴染み深い声が突き刺さる。
 ふと視線を動かすと、そこにはコートをまとった強面の男が立っている。
 篁は気付かなかったが、どうやらあたりには細かい霧雨が降り続いているらしい。
 しっとりとコートをぬらしたまま、颯は鋭い視線を篁に向けていた。
 人にあらざるものとして共に生きてきたもの。
 巫女に追われる生活の中で、何かと面倒を見てくれた相棒。
「どこにいこうとなさるのですかっ?!」
「颯」
 自分を止めようとする颯に向かって、篁はにやり、といつもの調子で皮肉な笑みを浮かべる。
「世話になったな」
 残す言葉はたった一言。
 そして、篁はゆっくりと昼夜問わず手放さなかった琥珀色をしたべっ甲のフレームに手をかける。
 それは、巫女から奪ったという<<外法>>そのもの。
 颯が自分に渡した、死者を還す術を行う道具。
「迎えがきたから、僕は先に逝くぞ」
 眼鏡を外した男は、はっきりとした口調でそう言って目の前にいる和服姿の女性の手を取る。
 と、同時にあたりを包む真っ白な光。
 それは、先ほど<<外法>>の術を行ったときと同じぐらい強い光。
 周りをすべて飲み込む白い光。
 しかし、その光に先ほどのまがまがしさはない。
 あるのは、柔らかなあたたかさのみ。
 まるでその場にいるすべての人の心を癒すかのような、優しい光。
 その光が篁たちを中心に大きく膨らみ、そして――。

「た……かむら?」

 光が消えた後、フリージアを抱きしめしゃがみこんでいた舞子が視線を上げたその先には。
「篁殿……」
 降り続いた霧雨が雑木林の落ち葉を湿らしている地面の上に、ぽつんと置かれた一つの眼鏡。
 そして、その横にはちょこんととどまっている一匹の黒猫。
 舞子が出逢ってからずっとかけていたべっ甲の眼鏡を外した黒猫は、邪気のない声で小さくにゃぉ、と鳴く。
 そこに、妖しの気配はまったく感じられない。
「篁?」
 にゃぅにゃぅと鳴きながら舞子の足元に擦り寄ってくる黒猫に向かって舞子は三ヶ月前に出会った男の名を呼ぶ。
 しかし、それに応えるふてぶてしい声はない。
「……」
 そんな舞子の様子を見ていた颯は、小さくため息をついて地面に置かれていたべっ甲の眼鏡を手に取る。
 ずっしりと手のひらにかかる、術の重み。
 その眼鏡を丁寧に自らのコートの内ポケットに入れて、もう一度舞子に視線を移した颯は、その後、音もなくその場から姿を消した。
 後に残されたのは、降り続く霧雨の中でフリージアを抱えた舞子と、その足元にまとわりつくあどけない黒猫。
 闇色の空から降り続く雨は、残された舞子の心の中をすべて洗い流してくれるかのような、優しい温度を保っていた。






 JR鎌倉駅から徒歩三分。少し裏通りに入った本覚寺の並びにその店はある。
 色とりどりの花で彩られたそこには、明るい笑顔をした一人の女性が毎日テキパキと働いている。
 店舗の軒下には赤や白や紫といったさまざまな色の花で作られた風鈴たちが訪問者を優しく出迎えており、吊るされたミントグリーンのリボンが軽やかに揺れている。
 店の入り口から覗く空は目にまぶしいほど力強い青。
 蝉の泣き声をバックに新作のフラワーアレンジメントを作成していた舞子は、頬をなでる初夏の風にふと顔を上げる。
 その視線の先には、毛並みのいい黒猫。
 にゃぁ、と小さく鳴いた猫に対して、舞子は思わず微笑む。
「ほら、今回の新作もかわいいでしょ? タカムラ」



 外は快晴、突き抜けるような初夏の空。
 とてとてと足元に擦り寄ってきた黒猫を抱き上げて、舞子は黄色い小さなフリージアで作られた風鈴を軒下にそっと吊り下げた。

《了》


表紙 - 前項

作者/ 真冬