踏み出すのは新月夜の白へ




 見上げた夜空は、闇色と水とをその内に含んでいた。
 どろりとした粘つく空気が辺りを満たす。手足を動かしても風は生まれずに、ただ何かをかき混ぜてしまったような、妙な違和感だけが残る。数日続いた雨のせいなのか、踏みしめるアスファルトすらも、靴裏を水で繋ぎとめようとしているようだ。舞子はそんな、奇妙な気持ち悪さをどうしても頭から振り払うことができなかった。
 やだなぁ、と小さく彼女は言葉を漏らすと、ふるりと体を震わせる。気温が低い訳でもないのに、先ほどから二の腕の辺りをしきりにさすってしまう。
「舞子、怖いか?」
 アスファルトを踏む彼女の右足の近くから、からかうような声がかかる。舞子が足元を見下ろすと、琥珀色のフレーム、眼鏡の内側から、篁の黒い瞳がするりと彼女を見つめていた。
 それはどこか、彼女を試すようなものだ。怖いなら今のうちにやめるがいい。或いは、お前の思いはそんなものか。――からかいと同時に、片頬を上げて皮肉気に笑んで伝えるような。
 舞子はその視線の意味合いに気付き、ぷいと顔を黒猫から背ける。
「怖くないわよっ。もう――決めたもの、だから平気」
「……ならば、良いが?」
 篁は言葉尻をわざと上げて言葉を返した。それはどこまでも彼女をからかっているようなものでしかなく、一方の舞子は、悔しそうにむぅ、とむくれてみせた。
 しばらく歩いた後に篁は足を止めた。《外法》を行なう予定の、近くの雑木林まではまだ距離がある。しかし彼は立ち止まらずには居られなかった。ただ無心にその場所へと足を動かし続ける舞子からはどんどんと距離が開くが、彼はそれを気にもしない。
 ――誰かに名を呼ばれたような気がしたのだ。
「……新月か」
 彼の名を呼んだのは誰だったのか。――それは椿の似合う、彼の記憶の中の女性だったのかもしれないし、或いは、彼が唇に乗せた通り、空の向こうの見えない月だったのかもしれない。
 人とは異なるはずの――妖といわれる自分の、無いはずの何かが、きぅ、と音を立てて締まるようだった。それは、人であったときに感じていた喪失感に似ていた。この姿で過ごすのだと決めたときに、疾うに捨ててしまった感情にもかかわらずだ。
 彼は広がる頭上を睨むように見つめると、細い、闇色の四足を忙しく動かす。長い尻尾がはたはたと、彼の動きにあわせてせわしなく揺れた。

 新月を内に隠す夜は、後少しで雨音を奏で始めようとしている。


 篁が舞子にそれを告げたのは、二日前の夕方だった。
 黒い鳥影が群れを成して赤い空を滑ってゆく。夕陽の色に縁どられた街には、烏の子を歌った音が響き渡った。そして一通りメロディが流れた後には、これもいつも通り、役所からの放送が入る。六時になりました、早くおうちへ帰りましょう。
 この放送の流れる時間が、舞子の店、フラワー・ポイントの閉店時間だ。それは、彼女の前の店主がそうしていた時と変わりない。道々に存在する寺院に倣ったのか、この街は少しだけ夜が早く、そして少しだけ朝が早い。都心のオフィス街とは違い、夕暮れの時刻ともなれば人影はめっきり少なくなる。
 外壁に立てかけるようにして置いてあったフリージアのバケツを、舞子は店の内側へと入れる。アーチを描きながら咲く黄色の花が揺れた。ちらちらと揺れる花は、どこか彼女の胸の内側をくすぐるようにも見えて。
 舞子は耳元に、圭介の言葉を――思いかけず、うっかり、蘇らせてしまう。
 ――この街にいるからこそ、この時間に店を閉めることにしているんだよ。
 ――都心の花屋に比べれば、少し早目かもしれないけどね。
 何度も耳の内側にこだまする声を遮るように。
 がんっ、とフリージアのバケツを、地面に打ちつけるように彼女は置く。そうしてしまってから、この花が売り物であることに気付き、慌てて彼女はバケツの中身を確認した。花も、茎も、そして葉も大丈夫だ。今の衝撃に痛んだ様子は無い。
「良かったぁ、仕入れ直さなきゃいけないところだった……」
 ほう、と大きな息をつくと、彼女は外に出ているバケツを店の内側へと一つ一つ仕舞ってゆく。紅薔薇に、霞草。白菊、ピンクのカーネーション、藍の竜胆、深緑の葉を繁らせた榊――そして最後に、入り口近くに吊るされているオレンジの花玉を彼女は見遣る。
 舞子の視線の先で、春の風鈴と名付けられたそれの下部、結ばれたミント色のリボンが夕風に揺れていた。入り口の屋根に釘を打って吊り下げて。窓には同居猫がパソコンで作ったポップが貼られている。
 やはり彼女が思ったとおり、そのポップは自身で作るよりもずっと可愛らしく、いかにも手にとってみたくなるような色合いのものだった。「春の窓を飾るお花の風鈴です」――彼女自身が発した言葉にもかかわらず、それはまるでずっと前からこの花玉のために存在していたかのような。そんな妙な既視感すら、このポップに踊る文字やデザインから感じてしまう。
 ――つくづく不思議よね、篁って。
 口の中で呟くと、彼女はそっと花玉を屋根から下ろす。痛みやすい花の部分は決して触らないようにしながら、店の内側に持って入り、天井から再び吊り下げた。
 後は箒で一通り掃いてしまえば、シャッターを下ろすことが出来る。そうすれば、外側の仕事は終わりだ。内側の掃除はバケツを仕舞う前に既に終わっているし、レジ内のお金の確認も一通り済んだ。とりあえず一段落というところ。
 だから早く掃除を終わらせなくっちゃね。舞子は唇に小さな笑みを浮かべると、さくさくと手を動かし始めた。
 道路に映りこむ影が長い。腰を伸ばして空を見れば、紺青と紫、赤に黄色といった様々な色が、段々と闇色へと溶けてゆく。
「そうだ」
 一通り塵を集め終えて箒を仕舞いながら、彼女は思わず声を上げていた。
 見つめていた空の、複雑な色合いを見ていて舞子が思いついたこと。それは、先ほど仕舞いこんだもののことだった。
 春の風鈴――その新商品が売れるか否かは予想がつかず、彼女はとりあえず、オレンジ色のものを二三個だけ作ってみたのだった。すると、舞子の作る花玉のおかげなのか、或いは黒猫のポップのおかげなのか――毎日のようにそれが売れた。数はもちろんそこまで多くは無いが、毎日必ず、一つ、二つと。
 結構こういう手軽に飾れる花がいいのかもしれない。だからもう少し、色合いのバリエーションを増やしてもいいんじゃないか、と彼女は考えたのだ。今はオレンジの小花――薔薇やガーベラといったものでまとめているが、例えばマーガレット、スイートピーを使えば白いものも作れるだろう。アネモネやカンパニュラを選んでいけば紫の風鈴だ。
「篁にも一応相談してみて……で、上手くいきそうなら、またポップとかも作ってもらって、っと」
 ふふふっ、と嬉しげな息を漏らし、舞子はシャッターを下ろすために腕を上げる。その上げた腕を遮るかのように、部屋の奥から鋭い声が飛んだ。
「舞子」
「――何だ篁、帰ってたの?」
 呼び声に答えて彼女が後ろを振り向けば、奥の部屋へと続く扉の影から、黒猫がひょこりと頭を覗かせていた。べっ甲のフレームがゆるりと夕方の光を受けている。垂れた長い尾は、ぱたん、と長く伸びた彼自身の影を叩いた。
 ――何かしら。
 舞子は普段と少しだけ異なる黒猫の様子を少しだけ不思議に思いつつも、特にそこまで気にせずに言葉を続ける。今は何よりも、頭の中に浮かんだばかりのアイディアを聞いてもらいたかったのだ。
「ね、篁っ、良いこと考えたのよ? この間の新商品、あったじゃない。あれをね、もう少し色数を増やしてね。青いのとか、赤いのとか……そういう風に色々作ってみたらどうかなと思うのよ。人気があるみたいだし」
「――悪くないな」
 素直でない彼の、珍しいとも言える褒め言葉に、舞子はでしょでしょ! と嬉しそうに声を上げた。しかし、紡ぎ続けようとした彼女のはしゃぎ声は、舞子、と再び黒猫からかけられた呼び声に、ふつんと途切れた。
 彼の黒い瞳が、彼女を射るように見つめる。見つめ返す舞子の視線に答えるように、篁の瞳孔がきゅうと締まる。
 ――何か、怖い。
 彼女の瞳の奥で、そんな言葉が踊った。開けたままの店の入り口からは、夕風が彼女の足元を通り過ぎる。ざあ、と彼女の全身に鳥肌を生み出しながら。
「準備が整った――二日後の新月の夜には、術を行なえる」
 篁は首を巡らせ、決して舞子から視線を逸らさずに言い放った。
「どうする、舞子」
 後二日、考える猶予はあるが。最終的な判断はお前に任せよう。やるか、やらないか?
 続く言葉にも答えずに、舞子はその場に俯き佇む。ああ、驚いて当然だろう――ゆっくり考えれば良い。そう言いたげな視線を彼女に最後に向けると、篁は舞子に背を向けた。ひそりと音無く、右の前足を踏み出す。
 舞子はその遠ざかる背を逃さないように、すっと視線を上げた。
「待って篁」
「うん?」
 舞子は息を一つ、吸い込んだ。
「――やるわよ、当たり前じゃない」
 前々から決めていたことだ。後悔などしない。彼女は体の中に吸い込んだ息に、そんな言葉を乗せて、体中を巡らせた。大丈夫、大丈夫だ。
「そうか」
「そうよ――でね、さっきの、春の風鈴の話、なんだけどっ」
 ぱっと一瞬で表情を変えながら、舞子は天井に釣り下がったオレンジの花玉を指差した。リボンの色も、花の色合いに併せて変えて。で、篁には色々とポップを作ってもらってね。嬉しそうに――けれど何処か少しだけ先ほどとは違う声で話を続けようとする舞子を、篁はどこか痛ましげに見遣った。
 ――そうか、やるのか。
 じゃあ僕も、心を決めよう。
「何か、言った? 篁」
「いいや? で、赤の風鈴には何の花を使うって?」
 小さく呟かれた決意の言葉は、舞子の耳には届かなかった。
 がららら、と彼女が下ろしたシャッターの向こう側には、夕方の赤を食い潰すような闇色。地面とシャッターとが触れ合う寸前、最後に吹き込んだ一風が、棚に置かれた鉢植えの椿を揺らす。
 篁は舞子から目を逸らし、その花を見つめながら、散りそうだな、と。そんなことを思った。


「どうしてこの場所を選んだの、篁?」
 舞子は足元の黒猫にそっと声をかけた。それが微かに震えているのに彼は気付く。
 彼女の頭上には、木々が覆いかぶさるように枝を広げあっていた。日の光の下であればエメラルドグリーンから深緑までのグラデーションが美しいはずのそれも――この光の無い夜の中では、ただただ、恐ろしげな葉陰にしか見えない。
 うきゃあ、きゃあう、と悲鳴のようにも聞こえる鳥の声が周囲に響いた。
「ある程度の広さが無いと、必要な陣が敷けないからな。それに、その術を発動すれば――大きな光と音が出る。お前の店なんかでやってみろ、周囲の店だの家からすぐに苦情が来るだろうが」
「そうだね、火事だ、って思われちゃうね」
 鳥の声や震える葉ずれの音を隠してくれるような。そんな黒猫の言葉に、彼女は小さく微笑んだ。
「さあ――始めるぞ。準備はいいか、舞子」
「いつでも」
 舞子の返事に満足そうに篁は頷くと、その黒い背をぐぐ、と縮めるように動かす。彼の闇色の瞳、その内側の瞳孔がきゅうと締まり――やがて、金色に光りだす。どくん、どくんと脈拍を打つようなリズムで背が揺れて、そこから黒い煙が立ち昇る。ざあ、ざあ、ざあと音を立てながらそれは伸び、膨らんだ。
 どくん、どくん――その音に併せて黒い影はその色を濃くし、一方逆に、彼女の足元にあった筈の黒猫の姿はどんどんと薄くなった。
「ふう……さて、やるか」
 頭を一つ振った篁のその姿は、舞子よりも頭一つ高い、人間のそれ。猫の姿の時と変わらない闇色の髪の毛が、彼のついた息に併せて揺れた。そして、同じく変わらない琥珀色のべっ甲の眼鏡。その内側で――黒い瞳がすっと細まり、舞子をちらりと見つめた。本当に良いのか、と。流し目で最後の確認を。
 舞子は、言葉を発すことが出来ずにただ頷く。
 ――怖いというのかしら。
 あんなにも望んだことなのに? あんなにも、何度も、思い描いたのに。
 彼女は閉じた瞳の中で、そんな言葉を繰り返した。以前に黒猫が見せた、スクリーンに映ったような圭介の姿をその言葉の上から重ね合わせる。ま・い・こ――彼女の目の裏に、脳裏に再び浮かび上がるその姿。その唇が紡ぐ、彼女の名前。
 ――この街にいるからこそ……。
 彼女の耳元に蘇る圭介の声。遮るフリージアの黄色。
 風に踊るミントグリーンのリボン。
 紡がれ続ける、篁の低い声――その意味は彼女には最早分からなかった。それが祈りであるのか、或いは――呪詛であるのかも。
 ただただ、彼女はぎゅうと瞳を閉じて――頭の中に、耳元に蘇り続ける様々な声や姿が、もう出てこないようにと。耳を両手で抑えることしか出来なかった。早く、早く、早く。彼女の口からはその言葉だけが発せられる。
 そんな、放っておけば小さく丸まってしまいそうな舞子の様子に、するりと目をやりながらも。決して篁は言葉を紡ぐのを止めなかった。《外法》を行なう為の呪詛を途切れさせてしまったなら、逆にそれは自らへと返ってきてしまう。
 死人の魂を呼び寄せ、この世に再び作り出した身体へと戻す。
 そんな大掛かりな《外法》であればなおさらだ。中途半端に止めてしまったりなどしたら、どんな反発がこの身に返るか分からない。例え命を拾ったとしても、弱った身体を晒す他無い。篁の耳は――人にあらざる彼の耳は、先ほどから自らを追う巫女たちの荒げられた声や靴音を全て拾っていた。今はまだ、彼女らが探す場所はこの雑木林からはずっと遠いが、もし術が未発に終わってしまったならば、途端に見つけられて、終わりだ。
 ――そうなる前に、一刻も早くこの《外法》を完成させて、そして。
 篁は再び、ちらりと横目で舞子を見遣る。
 この隣で震える彼女が、還り来る恋人に喜ぶその瞬間――その歓喜に満ちた、甘い甘い魂を喰らってしまわねばならない。一刻も早く。
 早く、早く。早く。
 はやく!

 舞子の繰り返す言葉が、篁の背を押した。

「――はっ!」
 篁が両手を前に出すと、雑木林の落ち葉に埋もれた五芒星が輝いた。そこから広がる白い光が、膨らみ、膨らむ。黒く染まった葉陰を明るく縁どり、一瞬緑に輝かせ、そして白に塗りつぶす。
 枝々を、空へ伸びる幹を、悲鳴に似た鳥の鳴き声を。
 白は全てを飲む。喰らう、飲みつぶす。
 手足に粘つく空気すらも、広がる闇夜までも、そして、それに紛れるように居た舞子と篁、二人の影すらも。
 飲んで、喰らい、膨らみ、伸びた。
 
 舞子はその光に一層瞳をきつく閉じ、最後の呪詛を唱え終えた篁も、余りの光の強さに一瞬瞼を閉じる。目の内の暗闇を灼いてしまうかのような光の強さ。痛みすら覚えてしまいそうなそれ。
 光に二人が飲み込まれるその瞬間。
 ――舞子。
 ――あなた。
 耳元に響いたその二つの想い人の声は、舞子と篁、どちらの耳に早く届いたのか。


 水を抱え続けることに飽いた空が、一つ。
 涙のように雨粒を、膨らむ白に落とした。

《続》


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作者/ねこK・T