そして時刻は動き出す




「汝、大海を知れ」
 その言葉を私が冷たく言い放つと、水道から勢いよく水が吹き出る。そして正確に、時には荒く、私の近くの白衣族から精確に標準を変えていく。その水は白衣族の持つ怪しい液体と混ざり、音を立てながら沸騰をしたり、その液体の器であるビーカーを割らんばかりのスピードで水が放出されたりすることもある。
 故に誰も私には近付かなくなった。否、近付けなくなった。

「汝、目を逸らすことなかれ」
 その言葉を私が気高く言い放つと、目の合った白衣族は動けなくなる。と言っても手首や関節等は動くのだが、如何せん体が中に浮いてしまっているので仕様がない。
 故に誰も私を見ることなく離れていった。否、自由獲得のために離れざるをえなかった。

「汝、理の矛盾を知れ」
 その言葉を私が低く言い放つと、物理法則を無視して物が飛び交う。すべてではないにしろ、一部は白衣族に向かって跳ねることや飛ぶこともある。誰だって危険な液体の入ったビーカーや分厚い本に猛烈かつ強烈な攻撃をされたくはない。
 故に誰も二本足で立つことはなく、机の下に身を隠したり化学室から出て行くことになった。

 ……なんて格好のいいことをする私。思わず調子に乗ってしまったのも仕方がない。


 真相はこうだ。
 別に大したことはなく、すべてコグレがやったこと。
 私には見えるけど、白衣族の人たちにはコグレが見えていないらしい。だから白衣族の人等にはすべてが超常現象へと発展する。ただコグレが蛇口をひねって小学生のように水をひっかけたり、白衣族を担ぎ上げたり、笑顔でその辺の物をポンポン投げているだけなのだが。……いや、ある意味正真正銘の超常現象なのかもしれないけど、見えている私にとってはただのクソガキのイタズラだ。
 それにしても相変わらずの立ち振る舞い。自分がよければ全て良し、が座右の銘であるだろうコグレは、私以上に調子に乗っている気がする。たぶん散々今までも私たち生き人にとって迷惑な事をしてきたに違いない。



 なぜこんなことになったか。
 それは単にコグレの思いつき。

 短い期間だけど私の感性によるコグレは、「ド」が付くほどのサディスティック。しかも本人が気付いていないものだから性質が悪い。まぁわかってないからドSなんだろうけどね。
 そしてコグレの新しく身に付けたワザ。その名も『モノに触れるンDEATH』。ネーミングセンスはともかく、現界に干渉することができると喜んで私に言ってきた。そしてそれを試さんがためにこう提案してきたのだ。もとい命令してきたのだ。

『なんかカッコイイこと言え。それに合わせてコイツらで遊ぶ』

 そうして私なりに必死に考えて先程の言葉を説いたのだ。国語力がある、と言った手前、どうしても誇りというものが存在してしまい、自分にしては結構悩みながら説いたと思う。実際吐き出した言葉は即興にしては思った以上に格好が良く、私も気にいっている。もちろん行動も気に入っている。なんだか魔法少女になった気分。
 けど魔法少女たる所以のマスコットキャラクターが、主である私より権限が高そうなので妄想がはじけ飛ぶ。いくらか露散したものは混ざり、戻ろうとはしていたが、やはりコグレがコグレであるうちは到底無理な考えだろう。

 まぁ私の思想はこれくらいにして。
 今大事なのは私が気に入っていることではなくて、気になっていることだ。
 それはコグレ――いや、近藤の一言。あ、この場合先輩ってつけなきゃダメなのかな? 中川先輩が近藤先輩って言ってたような気がするし。だから私にとっても先輩なわけか。そういえばなんか年齢は上って感じはしてたんだよね。っていうか私が中学の時にコグレはここで死んだらしいから年上なのは当たり前か。う〜ん、どうしよ? 今さらながら言葉を改めた方がいいのかな? 一応私も人気のある女の子。風体を気にしたりもするのだ。だから今後の私の学校生活のためにもこれは考えなければ……まぁいっか。コグレだし。

 ……ごほん。話を戻そう。コグレの一言。
『全部思い出した』
 何をどう思い出したのかはわからない。そもそも幽霊ってのは魂だとか思念体みたいなモノって相場が決まっているのだから考える脳みそもないと思うんだけど。けどここでそんなことを気にしていてもしょうがないじゃない? だってコグレだし。
 とにかく思い出した、と言った。つまり私の珍道記は終わりというわけ。そもそもの発端が、コグレの眼鏡を探すか、コグレに似合う眼鏡を渡す、ということだったはず。後者はコグレを見ることが出来る私じゃないとできないだろうけど、前者はコグレでもできることなんだ。ただコグレは気前よく記憶喪失になっていただけで。
 つまり記憶を取り戻したということは眼鏡を探す必要がなくなったということ。そしてコグレが自分の眼鏡を装着する時期が近いということは、私は想像の中で似合う眼鏡を掛けさせることはもうできなくなるということ。実に名残惜しい。

 別に眼鏡を見つけてからも妄想の中掛け替えればいいじゃない、という声が聞こえてきそうだ。特に長谷川姉妹辺りから。
 だけど私にも拘りがある。そしてポリシーがある。
 唯一無二の眼鏡っていうのは眼鏡を掛ける人が自分で似合っている、必要としていると感じている眼鏡なのだ。その眼鏡をしている限り、他の眼鏡は何らかの模造品となってしまう。だから自分の眼鏡を見つけた後のコグレでは、妄想して鼻血を出したり悦に浸ることも出来なくなるのだ。
 だから私には彼氏ができないのかもしれない。眼鏡男子は好きなのだが、自分の好きな眼鏡を掛けた男子というのは今まで見たことはない。
 なんという矛盾だろう。眼鏡を掛けていない人には眼鏡を掛けさせたいのに、眼鏡を掛けている人には眼鏡を外させようとしている。私はいったい何を求めているのだろう。

 ……あぁ、また話しが外れた気がする。
 要はコグレにとって私は用済みになるということ。自分の眼鏡を探して自分で勝手に成仏して自分で天国にいって金髪美女天使と嬉しそうに暮らすんだろう。一人勝手に幸せになろうとするコグレへの落胆の核爆弾は一つ持っているつもりだけど、威力がどれほどかはわからない。それは最後のお楽しみということで。



 私は唱える間隔を意図的に長くする。即ちそれは白衣族に逃げる時間を与えるということ。案の定、化学室から白衣族は居なくなった。私をここに呼び出した中川先輩も当然居ない。まぁ普通、常人なら逃げるだろうけどね。私だって最初は叫んじゃったし。
 あれ? そういえばなんか今の『普通、常人』ってのは変だな。常人は普通なんだもん。同じことを二回ってのは変だ。あぁよかった。声に出してたらコグレに国語力ないなってバカにされるところだった。以後きちんとした日本語を使えるようにならないと!

 とにもかくにも。
 そういうわけで私は改めてコグレと話すことが可能になったわけで。遊ぶ相手がいなくなったコグレに次の標的にされないよう注意して話しかけてみる。

「それで。今度は私の話を聞いてもらうわよ? とりあえず思い出したことを教えなさいよ」
「なんで俺がお前に言わにゃならんのだ。お前は俺の母親か?」
「一応手伝ってあげたんだからそれくらい聞いてもいいでしょうが!」
「あーめんどい。知りたきゃついてこい。今から眼鏡取りにいくから」

 これでもか! と言わんばかりのコグレイズム。そしてそれを納得できてしまう私。
 いつから私はこんなに物分りが良くなったのかな?


 結局コグレの後についていく私。途中生徒にぶつかるコグレが、面倒臭そうにぶつかった相手を叩いていく。無論ぶつかった相手はコグレが見えないからなんのことかはわからないはず。だけど私がそこにいるためになぜか私が睨まれるハメになる。完全にコグレが私にとって天災となり始めた。いや、人災か。それに前からだね。
「ねぇ。眼鏡を手に入れたらすぐ成仏とかできるものなの?」
 何気なくふと聞く。それは純粋な疑問なのか。それとも仕返しのための伏線なのか。
「さぁ? でもよく言うだろ? 未練がなくなったら天から光が舞い降りて犬ともどもちっこい天使が連れ去っちまうってやつ」
 どう考えても違う。だがそれはそれでおもしろそうなので反論はしない。だってコグレが裸体の天使に強制拘束されて……
「おい? 何を笑っている? 気色悪いことこの上ない」
 一転興醒めをする。コグレのいう『気色悪い』という単語は殺傷能力が高くて困る。油断していた自分に喝を入れる。

 いや、入れようとした。

 そう。入れようとした矢先、何の説明もなく扉を開く。その扉は応接間だった。
 そしてコグレが扉を開いたということはその中が見えるということ。私の視界にはなぜか教頭と中川先輩がいた。
「あれ? なんでお客さんいないのにこんなと」
「ち、近寄るなバケモノ! そ、そんなに僕が悪いことをしたってのか? いや、してない。断じてしてない! だから追いかけてなんかくるんじゃない!」
 私の言葉を遮り、キリキリ声の先輩が結構酷い言葉を使って私に攻撃をしてきた。そりゃあんなことがあったら怖くて気が動転するだろうけど、一乙女に向かってバケモノだなんて……
「そもそも全部あんたのせいでしょうが!」
 うっぷんばらしのためにコグレに手を上げる。ネーミングセンスの悪い『モノに触れるンDEATH』のおかげで、私の八つ当たりがコグレに炸裂。今回の原因となるコグレに痛みを思い出させることができた。まぁ痛いと思うのは幽霊としてはどう考えても非常識なんだけど。
『何をするんだこの阿呆が!』
「あんたが勝手に遊ぶわ、廊下でぶつかった生徒に仕返しするわ、何の言葉もなく応接間に入るわで私はとんでもない目にあってるんだから!」
『お前が付いてきただけだろう? 俺は別に強制していない』
「コグレが何も教えてくれないからでしょ! 化学室でさっさと教えてくれたら別についていかなかったわよ!」
 思わず声が大きくなる。そこで気付いた。この応接間に響くのは私の声だけ。

 そう。私たちは今、私しか存在していないのだ。

 当たり前だが目の前に居る二人は呆気にとられた表情。それも仕方ない。急に入ってきた女の子が一人でギャーギャー騒いでいるんだ。どう考えてもおかしい。
 だがそこは先輩。眼鏡男子の鏡といわんばかりに冷静さを取り戻していく。あんなにヤな人に変貌したというのに、どうしてこんなにカッコよく見えるのだろう。いや、もちろん眼鏡があるからってのは知ってるんだけど。
「今……コグレっていったのかい?」
 先程までのビビリでヘタレな雰囲気がほとんどなくなっている。
「あの時も言っていた……よね? そう、たしかあの時は僕と君の相違があった。僕は近藤さんと。君はコグレといった。そして今新たに君はコグレと名乗った。どこにいるのかはわからないが確かに君はコグレって人と話をした。それはどう考えても間違いじゃない」
 恐るべし眼鏡! 着眼点が違うし鋭い!
 たぶん先輩の中ではあの夜の時の会話が再構築されているはず。そしてその時の状況、今の状況を照らし合わせて正解を一人で導いていくはずだ。これだから眼鏡男子はカッコいい。


「おい、中川。どういうことだ?」
「センセェ……こっちは必死に考えてるんだよ。邪魔しないでくれる?」
 ぶつぶつとつぶやき声を出す先輩と、無駄に汗をかき、ハァハァ言ってる教頭先生。全然関係ないけど、どうして学校の教頭先生ってゴリラだとかカバだとかブタだとかの動物に似ているんだろう?
「なぜ遠坂さんがここにきたのかってのを考えたらある仮説が生まれてくる。いや、すでにあの時に真説となっていたのかもしれない。あの時の遠坂さんの慌て具合や、話の合い方。そしてさっきの騒動と今のこの状況。……こうとしか考えられない」
 あぁ、なんて素晴らしい絵画をみているのだろう。いや、動いているから動画か。眼鏡男子が普通考えられないようなことをありえないくらいスマートに真髄へと迫っていく。しかも先輩は化学をする人間。これからのことを絶対に否定しなきゃいけないはず。だけど今からこの不可思議現象を肯定する潔さと公式の証明のような流暢さを併せ持っている……気がする。
「遠坂さん。正直に答えてくれないかな?」
 先輩の中で結論が出たのだろう。私にそう問いかけてきた。
 私は私で軽く頷く。この眼鏡男子の行為に没頭してしまっていた。

「君の言うコグレって人は……近藤さんだね?」

 当然の如く私は頷く。
 あぁ、ヤバい。鼻血出そう。っていうかもう出てるかも。
 なんてカッコいいの? 今なら好きですって言われたら私も! って即答できるかもしれない。
 ……だけど。その存在どおり、見えない壁がそれを阻止してきた。
『この阿呆が。なんでバカ正直に答える必要がある』
 本当にコグレはすごい。これほど破壊能力のある言語を操る人はそうそういないだろう。
「べ、別に答えたらダメってあんたに言われてたわけじゃないし、答えて何か不都合になることもないんだから!」
『そうか。バカだからわからないんだな。人間の本質は嘘で出来ている。基本的に嘘をついておくのは当然のことだ』
 以前はデリカシーがどうたらこうたら言っていたのに、よくもまぁこんなに自分の意見を曲げて堂々としていられるものだ。
 ……私も死んだらこうなれるのかな? いや別になりたくないけど。

 ちょっとコグレに気をとられているうちに、また素敵な眼鏡がブツブツ言っている。
「……やっぱりそうか。僕の考えは正しかったんだ。でもここで問題が発生する。近藤さんはあの時の事故で死んでいるんだ。それは間違いない。どう考えてもこればっかりは疑いようもない。だけどこの眼鏡の存在を知るには今僕の持ってる資料か、作った本人から直接聞くしかない。そしてここでさらに問題が発生する。資料はもしかしたら他にもあるかもしれない。だけどそれを遠坂さんが解読することは不可能だろうし、第一それほど学業に興味があるとは思えない。それじゃあ後者の本人から聞く、という線はどうだろう? いや、これも違うだろう。先輩は自分の手柄を人に渡すような善人でもお人好しでもない。第一遠坂さんとの接点が見つからない。たしかロリコンではなかったはずだから、見た目が気に入って教えた、という説もないだろう」

 眼鏡男子はやっぱりスゴい。
 普段の私なら、長いのよ! って言いながら話を切るような長〜い独り言をひたすら続ける。あたかもそれは祈りの如く、私に聞かせようとも聞かせまいとも捉えられる小声で。眼鏡がなかったらどうなっていたのだろう。
 言い直そう。眼鏡パワーはやっぱりスゴい。

「……まさか。まさかね。そんなことありえるわけがない。けれど、もしそうだとしたら全ての話に合点がいく。なぜ眼鏡の話が漏れたのか。なぜ遠坂さんが探しているのか。なぜ成績が上がったのか。なぜさっきの怪現象が起きたのか。このすべての謎が明らかになる一つの仮説。自分で仮説を建てておきながら……完全に間違っていて欲しいと思う僕が居る」

 こくこく、と頷きながら眼鏡の苦悩を眺める。そして自分の新たな可能性を見つけてしまった。知的で格好が良く、冷静で素っ気無さそうでしっかりしている眼鏡もいいけど、キョロキョロしながら悶え苦しむ眼鏡っていうのもそれはそれでなんかこう……ね?
 けれど知的な眼鏡のほうが好きだということは自分で今感じている。両面とも違う属性を持つ眼鏡なら、自分の好きな属性を持つほうを見ていたい、と思うのは悪いことじゃないはず。だから私は手助けすることにした。
「あのね、めが……先輩。コグレは幽霊ですよ?」
 それを聞いた先輩はやっぱり落胆した。それに伴い私の中を知らない何かが通過し、体の真の芯からゾクゾクさせる。……あれ? さっきは助けようって思ったんじゃなかったかな?

「……そうか。確かに近藤さんなら成りかねない。ありえないありえないとは思うけど、あの人はそれらを覆す何かを持っている。いつも僕の斜め上からバカみたいにさらに斜め上に進もうとするバカみたいな天才だ」
『ほう。こいつも言うようになったな。最後に天才と言わなかったら垂直落下式DDTをしてやるところだったのに』
 拳を作って悔しがるコグレ。いや、DDTに拳は必要ないと思うんだけど。
 でも一応先輩に注意しておこう。コグレなら掴まずに投げるかもしれない。いわゆる投げっぱなしというヤツだ。
「先輩、コグレは今見えないだろうけど隣に居ます。つまり今の話を全部聞いています。今さっきの先輩の言葉を聞いてそれなりに怒りを感じてる模様です」
「ひっ……す、すいません! で、でも先輩はアレじゃないから大丈夫ですから!」
 あぁ、ゾクゾクする。アレってのが何を示すのかはわかんないけど、このへの字眉毛が。このへっぴり腰が。ふわふわと空中に漂う拒否拒絶を示す両手が。それらすべてが私を快感の渦へと巻き込んでいく。
 ――――そう。私はいつの間にか笑顔になっていた。


 ってちょっと! 私はそんな女じゃない!
 落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。
 ただ最近の非常識さに少し挙動不審になっただけのこと。ただドSなコグレがいるから少し感化されただけのこと。ただコグレ臭に当てられただけ。
 そう。落ち着け。私はなんてことのないただの眼鏡男子好きな女。そっち関係には全然興味なんてないんだから!



「……ということはもしかして遠坂さん、眼鏡を取り返すためにここへ? つまりただ近藤さんに振り回されていただけっていうこと?」
 はっとする。そう、変な考えをしている場合ではない。今はなんかそれなりに緊迫した状況なのだ。
「まったくもってその通りです。これ以上憑いてこられるのは御免ですのでそうそうに先輩が預かっている眼鏡を返して頂きたいのですが……。この気持ち先輩ならわかってくれますよね?」
「わかる。非常に痛いほどわかるよ。けれどその提案に同意するわけにはいかないんだよねぇ」
 眉毛をへの字にさせながらも力強く答えてくれた先輩。けど話の中身は否定だった。
「え? なんでですか?」
 簡単な疑問に対する反応。なんだかんだ言って私も常人なわけってのをつくづく感じた。
「これはね、装着した人の脳を活性化させる眼鏡なんだよ。わかりやすく言うと頭が良くなる眼鏡。その完成品がまだこれしかないんだ。これを化学部で発表しつつ、学校の生徒にこの眼鏡を義務付けることで教育評価を得ようってのがここにいるセンセェの魂胆ってわけ。だから渡せないんだよねぇ」

 ……何言ってるの?
 あれ? 先輩って実は電波さん?
 眼鏡を掛けたら頭が良くなるってことでしょ?
 そんなのありえるわけないじゃん!
 そもそもそれって眼鏡なの?
 眼鏡っていうのはその装着者を輝かせる何かを持っている至高のアイテム。
 視力矯正ってのもあるけどそんなのはコンタクトで代用できる。
 視界の広さから言って本当に視力を求めてる人は眼鏡人にはいないと思う。
 だから……だから……

 ただひたすらに意味のわからない怒りに体が震えた。

「ちょっとコグレ! これどういうことなの? あんたの眼鏡じゃないじゃん!」
 それは原因であるコグレに対しての怒りだったのか。私に全てを教えてくれなかったコグレへの怒りなのか。そんなこともわからない私に対しての怒りなのか。
 とにかくコグレに当たった。当たらざるを得なかった。

 それに対してコグレは平然と言ってのけた。
『あぁ、これあいつの妄想だから気にしなくてもいい。あいつの言ってる眼鏡は俺の眼鏡で間違いない。とりあえずこのまま話してろ』
 断言するコグレ。間違っているのは自分以外というコグレ。
 本当にコグレらしい言葉。だからだろうか。即座にそれを信じられた。
 こいつは嫌なヤツだけど嘘は言ったことはない。話を捻じ曲げたり、はぐらかしたりはするけど、騙したりはしなかったからかもしれない。

 そして先輩に近付くコグレ。
 そう、私に先輩と話をさせたのもそのためだということに今気付いた。
 だから私はその話を再会することにした。

「それで完成品はいつになったら渡してもらえるんですか? 生徒に渡すっていうくらいだから量産とか始めているんですよね?」
「それについてはノーコメント。ですよね、センセェ?」
「あ、あぁ。それ以前にこの眼鏡の件もノーコメントでいて欲しかっ」
「本当に頭が回らないなぁ、センセェは。近藤さんがいるんだから存在は絶対バレちゃうってことわかんないんですかねぇ」
「……いつになったら渡してもらえるかも教えてもらえないんですか?」
「そうだねぇ。全ての作業が終わったら……ってあぁ!」

 その声の叫びは部屋中に響く。
 そしてその声と共に上げられる二つの手。
 その先にはなんとも言えない普通の黒縁眼鏡。
 さらにその先にある手の主は偉大なる我侭魔人コグレ。

 そう。私が話をしている隙に、コグレがモゾモゾと先輩の制服を探していたわけ。もちろんコグレの眼鏡を。
 誰かに触られていて気付かない先輩も先輩だけど、触られているという認識を視覚で得られなかったら実際には先輩のように気付かないかもしれない。もちろん私だったら気付かないと思う。

 とにかくミッションコンプリート。コグレはその眼鏡をその容姿端麗な顔へと近付いていく。
 高鳴る鼓動。
 意識しない情熱。
 止む事のない期待。
 それらを同居させつつ、じっくりとその行動を。神聖なる行動を最後まで見届ける。



 一言。
 カッコいい。



 理想とまではいかない。美しいとまではいかない。
 けれど完全に私の眼鏡ランキング一位へと一気に上り詰めた。
 やっぱり私の考えは間違っていなかった。間違えではなかった。
 自分で好きな眼鏡を掛ける。それがこれほどしっかり絵になるということを。
 なんの飾り気のない真っ黒な眼鏡。
 確かにベースとなる顔はそこらの男子よりか整っている。
 だがその理由以上に至高のアイテムは輝いているように思えた。

「おぉ! 久しぶりの視界良好! やはり世界は美しい!」
 間抜けながらも何故かカッコよく聞こえるコグレボイス。これも眼鏡による効果なのだろうか?
 驚きといっていいだろうこの感情のせいで声を普通に出せずにいた私は、平静を装って先程の真相を聞くことにした。

「も……妄想ってなに?」
『あぁ、あの二人に遊びで以前催眠術を仕掛けた。そしたらものの見事に的中した。その内容が、俺はこの眼鏡をしているから頭がいい、というものだ』
「……それってもしかして――戯言ってこと?」
『妄想と戯言の違いはわからんが、その類ということに間違いはない。つまりあいつらは一生できない研究をしているわけだ。どう考えても眼鏡を掛けて頭が良くなる、なんてのはありえない事象なのに、それを信じ込むことができるっていう人間の脳は評価したいがな』
「そのことは伝えないの? 可哀想と思ったりは?」
『催眠術で遊んだ後に屋上で休憩してたら俺はこうなった。だからこれは仕様がないといってもいいだろう。まぁそれ以前に面白いから放っておいただろうがな』

 なんてことのないただの事実。
 そして間違えることのないコグレイズム。

 私はそんな中でひとつの気持ちを保持していた。

 それはたったさっき芽生えた。今までそうあって欲しいと思っていた。
 そしてそれが実現したのは偶然なのか必然なのか。おそらく必然なのだろう。
 もしかしたら当初から思っていたのかもしれない。ただ自分のプライドのせいで、無理に押し隠していたのかもしれない。
 そして途中から気付いていたのかもしれない。影響されたのもそのひとつの効果だったのかもしれない。

 だから私はコグレに告げた。

「……私の傍から居なくならないでよ」
 自分で驚いているのか驚いていないかのような表情でコグレを見る。私が見る限りコグレは笑いを止めたが驚いてはいなかった。
『なんだそれは。告白か?』
「そんなのはわかんない! ただそう思っただけ」
 なんとも思っていないのかもしれないコグレと、自分では必死な私。
 この場には私たち以外にもまだいるけど目に全然入らなかった。
「眼鏡掛けたんだからわかるでしょ? 私だってそれなりに女の子してるでしょ?」
『そうだな。不細工の域ではないな。可愛いかと聞かれたら可愛いと答えるな』
「それじゃあ……私と一緒に……」

 もうこの気持ちはわかっている気がする。私はなんだかんだいってコグレが好きになったんだと思う。一目惚れなのか、いろいろあって好きになったのか、ドSぶりがいいのかは関係ない。ただ好きという真実が私の中に今はある。

『ごめんなさい』
 そんな乙女真っ最中な私を壊したのはコグレ。それもたった一言で。
 私の中から血の気が引く。
 さっきまで高ぶっていた感情が一気に足先から地面へと流れていく感覚。

 一度も経験したことはない。
 けれどわかった。私はフラレたんだ。

「ど、どうして……」
『悪いが俺は委員長属性を持った眼鏡美人しか興味がない。お前がいくら可愛かろうと関係ない。だから俺は一刻も早く天国で金髪美女天使に会いに行かなければならないんだ』

 時が止まる。
 いや動き出したのかな?

 さきほどの重たい感覚はない。逆にさっぱりした気持ちが溢れてくる。
 私はどうかしてた。こんなヤツを好きになるハズがない。なれるハズがないんだ。
 私の中にさっきまであった感情は恋とか愛じゃない。たぶん嫉妬と憧れだったんだ。
 それにようやく気付いた。今まで私がしてきたことをコグレがしてきたことによってようやく気付くことができた。
 私以上に眼鏡が好きで私以上に自分が好きで。なんでもできるコグレみたいになりたいと思っていたことを。……もちろん一部を除いて。

 一瞬ヤバいことになった私自身への恥ずかしさと、この感情の招待を教えてくれた感謝の意味を込めて言ってやった。
「コグレなんかとっとと逝っちまえ!」
『当たり前だ。なんの未練があってこんなところに居なきゃいけないんだ』
 皮肉を皮肉と思わないこの幽霊は、ごく自然に透明になっていく。
 コグレが言ってた天国への行き方とは違うけど、たぶんこれは成仏するってことなんだろう。つまり、もうコグレと会話できるのもほんのわずかな時だということ。
 と、いうことは切り札を使う時がきた。ここで使わなきゃ意味がない。核爆弾が不発弾にならないように使うタイミングを見計らう。


 そして時が来た。下半身が完全に、そして上半身が半透明になったころに私は発射した。

「ところでさ、あんたは幽霊だけど眼鏡はこの世のモノだから天国行くときには結局眼鏡はこっちに残るんじゃないの?」




「し、しまったぁぁぁ……――――」








 コグレが完全に居なくなり、支えとなる本体がなくなった眼鏡は床へと落ちる。
 その際レンズが割れた。

 そこで気付いた二人の存在。もとい思い出した存在。
 中川先輩と教頭が眼鏡に恐る恐る近付く。
 そういえばコグレが見えていたのは私だけ。つまりこの二人は見えていないということ。ってことは、さっきコグレが眼鏡を掛けている時は、フワフワと眼鏡が宙に浮いているという世界の不思議を見ていたということ。ビクビクしているのも仕方ない。
 私に近藤先輩が居ないことを確認し、もう天国に行ったということを告げると、必死になってカケラとフレームを集め、笑顔になりながら応接間から出て行った。


 そうして私の小さくて大きい珍道記は終わった。
 完全に部屋に一人となった私。
 中途半端に今までの出来事を反芻する。
 たまに吐きそうになるような苦い思い出もあったけど、それなりに充実していたような気がする。テストもいい点取れたしね。
 なにより最後に一泡吹かせることができた。それが何よりも嬉しい。こういうのをなんていうのかな……下克上?

 それに学んだことがある。
 私もコグレほどじゃないけど人を傷つけていたということ。
 私がしていた行為をされると悲しくなったというのは事実として受け止める。受け止められる私はやっぱりコグレとは違っていい人間なのだ。

 だから今回成長できたのだからそれなりにコグレに感謝をしてもいいとしよう。まぁランキング一位の座をあげたってのが感謝の印という事で。



 明日――いや、今からはまたいつもの日常。
 あの姉妹にとやかく言われながらも眼鏡男子観察を続ける日常。

 ただ少し変わるのは。
 ほんの少し違うのは。
 告白された時にはすぐ断らないようにするということ。


 一度は伊達眼鏡でも掛けさせて、それから判断するということ。
 それだけなのです。

《了》


表紙 - 前項

作者/ エムダヴォ