嘘吐きの夕べ




 おじいちゃんは決して嘘をつかない人だった。
 いつもにこにこしていて、たまに悪いことをしたらきつく怒るけれど、とっても優しかった。それに、まだ小さいんだからこんなこと知らなくていいんだよとか、大人の話だからあっち行ってなさいとか、難しいだろうからまた今度ねとか、”子供だから”という扱いを絶対にしなかった。傷つけないように、と優しい嘘もつかなかった。
辛い哀しいことでも、いつも本当のことを教えてくれた。
 そして、おじいちゃんはどんな嘘でもたちどころに見抜いた。どんなに嘘をつくのが上手な人でも、無意識に嘘をついてしまったときも、おじいちゃんは気がついた。
それを言うときも言わないときもあったけれど、美空にはいつもこっそり教えてくれた。おじいちゃんは色々なことを教えてくれたけれど、一番は嘘のことだった。
 あたしはおじいちゃんのことが大好きだった。おじいちゃんはいつまでたってもおじいちゃんで、ずっと自分を優しく厳しく見守ってくれて、丸い眼鏡の奥の穏やかな光を見ながら大きくなっていくのだと信じて疑わなかった。

 二年前におじいちゃんは天国に行った。
 いつものように膝掛けをして椅子に座っていたそうだ。まるで眠っているみたいだったと、あとからお母さんに聞いた。
 あたしを置いて行っちゃったんだ、と思った。
 おじいちゃんのいない日々にはなかなか慣れなかった。気がつくと、足がおじいちゃんの家に向いているのだ。家の前まで来て、ドアノブを掴んで、それが回らないのに気がついてようやく思い出し、泣きたい気分になった。
 たったひとつ、おじいちゃんはあたしに眼鏡を残してくれた。長く使い込まれてはいるけれど、とても綺麗で、上等の骨董品のような眼鏡。それを、一通の手紙と共にあたしに残してくれた。小さい桐の箱に入ったまま、お母さんが涙ぐみながら渡してくれた。
 あたしは長いこと、その箱を開けなかった。気にしない振りをしながら、いつでも見て手に取れる、机の端にそっと置いていた。
 裏切られたような気がしていたのだ。
 おじいちゃんは時折酷い咳をして、あたしはそのたび大地震が起こったような怯えを感じた。揺るぎないと確信していたものが、突然揺らいだように思ったのだ。
あたしはおじいちゃんに大丈夫、と聞いた。おじいちゃんは大丈夫、と答えた。嘘じゃない。でもわたしが、これからもずっとおじいちゃんは大丈夫よね、と重ねて聞くと、困ったように笑うだけで答えなかった。おじいちゃんは嘘をつかなかった。
 でも、あたしは裏切りのように感じていた。

 あたしが箱を開けたのは、ちょうど一年前、つまりおじいちゃんがいなくなって一年が過ぎた頃だった。
 その日もあたしは、おじいちゃんの家に無意識に行ってしまっていたのだ。悲しいことがあって、少しぼーっとしていたのだと思う。何が悲しかったのかは覚えていないけれど。
 もう何ヶ月もそうしていなかったから、久しぶりのその行動にあたしはとても驚いて、しんみりとしてしまった。
 そしてあたしは、相変わらず机の端でささやかな自己主張を続けていた箱を取り出した。
 思い切って開けると、中にはおじいちゃんの眼鏡が入っていた。丸いレンズ、どんなに長い年月が過ぎても曇らない、少し奇妙なほどにくるりと巻いた細い蜂蜜色のフレーム。懐かしくて、鼻の奥がつんとした。
 眼鏡をそっと手に取ると、箱の奥にフレームと同じような蜂蜜色の封筒が入っているのが目についた。
 それはおじいちゃんの手紙だった。

『美空へ。
 ”ずっと大丈夫”ではなくて、すまない。あのとき答えておけばよかったとも、答えなくてよかったとも思う。美空に嘘はつけなくて、でも本当のことも言えなかった。
おじいちゃんは美空に決して嘘をつかなかったと断言できるけれど、いつも本当のことを言ったと胸を張ることは出来なくなったね。
 美空にこの眼鏡をあげようと思っている。それがいいことなのか悪いことなのか、まだわからない。ひょっとしたら、美空の手には渡らないかもしれない。でも、この手紙を読んでいるということは、おじいちゃんは美空に渡すことを決心したんだろうね。
 これから書くことは、美空ならわかっていると思うけれど、決して嘘じゃない。全て本当のことだ。
 この眼鏡には、嘘を見抜く力がある。
 おじいちゃんがどんな嘘でも気がついたのはもちろん、眼鏡のおかげではないけれど、これが魔法の眼鏡であることは間違いない。
 どうしてかはわからないけれど、きっとおじいちゃんとずっと一緒にいたからだと思う。一緒に嘘を見て、一緒に笑ったり、悲しんだりしてきたからだと思う。
 美空はとても嘘に聡い子だ。全ての嘘がわかるわけではないけれど、大抵の嘘には敏感に気がつくだろう。
 でも、嘘かどうかわからないときが、いつか来るに違いない。そしてそのとき、美空は困っているだろう。嘘かどうかわからない、でもそれを知りたいと思うときは、きっと知らなければならないときだとおじいちゃんは思う。
 そんなときに、この眼鏡を使うといい。
 軽い気持ちで使ってはいけない、と言うまでもなく、これを使いたいと思うときは本当に必要なときだ。
 でも、覚悟だけはしておいて欲しい。美空がこれを使って打ちのめされるようなことにはなって欲しくない。この眼鏡が見破る嘘は、ひょっとすると知らなかった方がよかったと思えるものかもしれない。
 そして美空。嘘をつく人を責めてはいけないよ。嘘を憎んでもいけない』

 手紙を読んだあと、あたしは手紙と眼鏡を元通りしまった。それから一年、箱は机の端にひっそりと置かれたままだった。
 使っていいのかもわからなかったし、使うような機会も訪れなかった。眼鏡の力を疑ったことは、もちろん一度もなかった。どんなに荒唐無稽な話でも、おじいちゃんが嘘をつくわけがないのだ。

 そして、あたしは一年ぶりにこの箱を開けた。
 わからない。どうするのがいいのか、わからない。何もかもが嘘のようで、でも本当な気もする。嘘と本当を知ることがいいかもわからないけれど、でもあたしはこの眼鏡を使おうと思っている。
 眼鏡は以前よりもずっしりと重いような気がした。

《続》


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作者/しきみ