デジャ・ヴュ
嘘を見抜く力があるという眼鏡。おじいちゃんは美空にその眼鏡を託した。
あたしを信頼して、そしてあたしの幸せを思って。
一年ぶりに見た眼鏡は、それでも変わらない優しさを放っていた。まるでおじいちゃんがついさっき置いていったような、そんな印象さえあった。おじいちゃんは、この眼鏡を使おうとしているあたしを遠くからじっと見つめているのかもしれない。ふと胸が締め付けられる思いに駆られながら、美空は眼鏡を箱に戻すと、カバンにそっとしまった。
おじいちゃんが亡くなってから、2年がたった。
あたしにはあたしを「好きだ」といってくれる人ができた。
学校は思いのほか退屈なところだ。放課後に用事があるときは、特に。
「美空、今日掃除当番だよ」
すぐにもカバンを持って教室を飛び出そうとした美空に、友人である夕美が声をかけた。10日おきに回ってくる掃除当番のことをすっかり忘れていた。カバンの中に入っているおじいちゃんの眼鏡がせかす。時間は限られているのだ。
美空の表情から、ただのサボりではないことを察したのだろう、夕美はひらひらと手を振ると、
「いいよ、代わってあげる。あたし暇だし」
「あ……ありがとう。次の当番のときはあたしが代わるから」
「交換ってことね」
親指を立てて美空を見送ると、夕美はそのまま掃除用具の入っているロッカーへと歩いていった。
「ほんとにありがと……夕美」
そっと囁いて、美空は廊下を駆け出した。
彼は、高校2年のときに初めて同じクラスになった人で、偶然席が隣だった。
何かと忘れ物の多い彼に、教科書を貸したりしているうちに仲良くなった。
最初は乗り方が分からずに手間取っていた市営バスも、今では慣れたものだ。ただ、5時間目が終わってすぐに学校を出ないと間に合わず、その次のバスがくるまでは少なくとも30分は待たなくてはいけない。
お昼を過ぎ、夕方近くになったバスには、買い物帰りと思われる主婦や子ども連れがちらほらといた。
「お母さん、次、降りるの?」
「まだよ。その、次の次」
微笑ましい会話を聞きながら、美空はぼんやりと外を眺めた。ものめずらしかった風景にもやがては慣れるものだ。通りを歩く人の中に、腰のずいぶん曲がったおばあさんがいるのを見つけた。ただそれだけなら、美空の目に留まらなかったかもしれない。その老婆を見ずにいられなかったのは、彼女が花束を持っていたからだ。白いカトレアの花束。
告白されたのは、夏休みに入る前。
ドキドキしながら、OKした。
子どもを連れた主婦がバスを降りていった。バスの中は急に静かになる。目的地まではもう少しかかる。
不意に思い立って、カバンの中から例の箱を取り出した。そっとあけると、部屋で見たときと変わらずに眼鏡は静かにそこにあった。
『――羽柴秀平、羽柴秀平をどうぞよろしくお願いします。必ずや、皆様の生活をより良いものにしていきたいと思う所存でございます……』
選挙カーが角を曲がってこちらへと入ってきた。必要以上の大音量に、自然と音源から目を背けていた。手元に視線を落とす。
嘘を見抜く眼鏡。
箱をもつ手がにわかに緊張した。
嘘を見抜くというけれど、いったいどのようにして分かるのか。おじいちゃんには分かっても、自分にはわからないかもしれない。
試してみる価値はあるかもしれない。
眼鏡を取り出そうと、指を伸ばした。指先がフレームに触れた。ひんやりと冷たい。しっかりと持ち直し、取り上げようとしたときだった。
「まもなく、葦原総合病院、葦原総合病院。お降りの方はお手元のボタンを押してお知らせください」
我にかえった。眼鏡を丁寧に元に戻し、窓際にある赤紫色のボタンを押した。
彼と一緒に遊んだのはほんの数日間だった。
けれど、彼を好きになるには十分な時間だった。
ある日、彼のお母さんから電話があった。
彼が、倒れたのだと。
バスを降りれば、病院の入り口はすぐそこだ。カバンのもち手を握りなおすと、美空は足を踏み出した。
「あら、小管さんのところにお見舞いに来た方ね」
すれ違う看護婦に会釈を返す。彼女たちの微笑が少しぎこちなく見えるのは気のせいなのだろうか。瞳の中に、同情と哀れみと諦めが宿っているように見えるのは、思い過ごしなのだろうか。どこまでが自分の被害妄想で、どこからが事実なのか、もはや美空には見分けがつかなかった。
彼が入院生活を始めてから、もう半年になる。美空には、彼の病名などは教えられていなかった。すっかり痩せてしまった彼に心配そうな視線を向けると、決まって彼は言うのだ。
「俺は大丈夫だよ」
骨ばった手で、美空の手を握り返して。
どこまでを信じればいいのか、分からなかった。
階段を3階までのぼり、病室にかかっているプレートを確認した。「こすげ あきひろ」の文字を心の中で読み上げる。ここは4人部屋だ。ただし、今入っているのは彼を含めて3人だが。
ゆっくりと深呼吸をした。息を吐ききるのを待ってから、美空はドアに手をかけた。
《続》