セクシーミーツフィリップ!




 【七夕祭】――それは、人々が無意味に浮足立つ催しである。この町では最大の祭りで、その夜は町中がキラキラと眩しいほどにライトアップされる。天の川を意識しまくっているのは確実だ。
 しかし毎年のように曇り空で、七夕祭の夜は晴れた試しがない。そのためか、それゆえか、人々は人工の灯りを天の川に見立てて楽しんでいるのだろう。
 茜は、子供の頃から七夕祭が楽しみで仕方なかった。あまり表立って顔に出したことはないが、実は結構、いやものすごく楽しみにしていた行事だった。ずっと一緒に行っていた母が他界してしまったから、今年は行けないかも……と正直ガッカリしていたものだが、フィリップが一緒に行ってくれるというから、実は結構嬉しかったりする。
 七夕祭を今宵に控えた朝、フィリップが本日のデートプラン(?)を勝手に提案して来た。成り行きで一緒に暮らすようになって少し経つが、こういうロマンティックな行事にこそ新鮮さを求めるべきだろうと。
 このナイスガイは、単なる同居人の女子高生相手にどういった新鮮さを求めているのだろうか――と心の中で突っ込んでみたが、意外な事にフィリップが楽しそうな顔で話をしているため、茜は真面目に聞いてあげることにした。
「やはりデートっぽく、外で待ち合わせにしようかと思うんだが、どうだいレディ?」
 などと、非常にキラキラな眼差しで言われた日には頷くしかないだろう。
「いいよ。待ち合わせ場所はどこにするの?」
「そうだな、駅前のショッピングモールにしよう。あそこの飾り付けは最も美しい。きっと、今宵の二人を素敵にライトアップしてくれるはずさ」
 親指をぐっと立て、さらに片目をバチッとつぶり、フィリップは四十付近の男とは思えぬほどはしゃいでいた。
 どうしてフィリップがそこまでしてくれるのか、茜にはよくわからなかった。もしかしたら当人も楽しみにしているだけかも知れないが……気を遣ってくれているのではないかと思うと、何だか妙に嬉しかった。それに相手がフィリップとはいえ、未だデートもした事がない茜にとっては心躍る展開には違いない。
「今日は学校だから、帰ったら着替えてすぐに行くね! 絶対遅れないでよね!」
「当然さ。レディを待たせるなんて、男として、そして紳士として恥ずべき行為だ」
 またしても親指をぐっと立て、フィリップは自信満々でニヒルに笑った。



 それなのに。



 学校が終わって速攻で探偵事務所に帰り、お気に入りのワンピースを着込んで、茜はウキウキ気分で駅前へと向かった。いわゆる一張羅を着て来てしまって、改めてみると何だか浮かれているみたいでちょっと恥ずかしい。いやいやこれは、七夕祭が楽しみで仕方ないのよ! なんて独り言を言いながら。
 駅前のショッピングモールは人で溢れ返っていた。ファミリーにカップルに女の子のグループ……みんな七夕祭を心から楽しんでいるように見えた。フィリップが言っていたように、ここのライトアップは格別に美しい。それだけでも十分幸せな気分になれた。
 フィリップと待ち合わせた時間は午後六時、場所は一階にある人気のカフェ。ちょっと早めに着いたけど、「レディを待たせるなんて……」云々言っていたし、もう待っているかも知れないな、と思いながら茜はカフェを目指す。
 とりあえず店内を探してみたが、フィリップの姿はない。嫌でも目立つ風貌だ、いれば一目で見つけられる自信がある。
 今日は仕事が入っていると言っていたし、もしかしたら長引いているのかも。そんな風に考えて、茜は屋外の席にひとり座った。屋外席はがらんとしていて、人もまばらだ。一見してフィリップの姿はないと判断できる。
 席に着くとすぐ、店員さんがオーダーを取りに来た。何か注文した方がいいかな……と思うものの、フィリップがすぐに来るかも知れない。とりあえず人を待っているからと告げると、店員さんは快く承知してくれた。そういえば、この店が人気なのは“店員の感じが良い”というのも理由だったなと思い出す。
 それから五分ごとに携帯で時間を確認しながら待っていたが、フィリップはなかなか現れない。もしかして仕事が長引いているのか……それとも仕事中に何かあったのか。心配になって事務所に電話を入れてみるも、出てきた時にセットしてきたまま、フィリップの変な留守電メッセージが再生されるだけ。
 ちなみにフィリップは探偵のくせに携帯を所持していない。ゆえに連絡手段といえば事務所の黒電話のみなので非常に面倒くさい。
 すでに約束の時間から三十分が経過していた。さすがに不安になり、茜は席を立った。待ち合わせ場所はこのカフェで違いないと思うが、反対側の入り口にもカフェがあったはず。
「もしかして、あっちだったのかな?」
 独り言をつぶやいて、茜は慌てて向かった。
 けれど、そこにもフィリップの姿はない。もう一度朝のやり取りを思い出して、やはりさっきのカフェだった……と溜め息を零しながら戻っていると、視界の片隅に見慣れた姿が映った気がして、茜は弾かれたように顔を上げた。
 見間違いかと思って目を凝らしてみる。人の流れに乗って歩いて行くあのハードボイルドという言葉をまんま形にしたかのような姿は……間違いなくフィリップだった。
 茜は慌てて一歩踏み出したが、その足はすぐさま止まった。そうしてまるで金縛りにあったように動けなくなる。フィリップの隣に、誰かが並んで歩いていたのだ。
 その誰かは女性だった。髪が長くて、そして綺麗な大人の女性。
 一緒に住むようになって、何度かフィリップの“同伴者”を見た事はあった。それなりに綺麗な人ばかりだったけど、今度はただ“綺麗”なだけじゃない。派手でなく、上品な色気を漂わせたまさに大人の女性だ。高級そうな服をさりげなく着こなし、高いヒールのパンプスも難なくはきこなし、笑顔もこびること無く自然で、すらりと伸びる足もエステの広告の人みたいにきれい。身体のラインは程よく強調されていて、まさに“セクシー”の言葉が相応しい。
 そして何より大打撃だったのは――フィリップと並んでいて、とてもお似合いだったこと。
 それ以上追いかける事ができず、茜は立ちつくしたまま二人の姿が消えてゆくのを見送っていた。こんな人ごみの中では、自分の姿なんて“その他一部”くらいにしか見えないのだろう。
 気付いた時には背を向け、歩き出していた。どうしてか瞳には涙が浮かんで来て、堪えようとすると余計に溢れて来る。慌てて柱の陰に隠れ、頬に伝う涙を拭おうとした。バッグに手を突っ込んでハンカチを探ってみるも、こういう時に限って忘れてしまっている。
 泣き顔を見られたくなくて……そして今は何も見たくなくて。代わりにいつも持ち歩いている、今では両親の形見となってしまった眼鏡をかけた。度が合っていないから視界が歪むけれど、どうせ涙で歪んでいるんだから構わない。
 フィリップがいつどこで誰と何をしようが、自分には口を挟む権利はない。けれど、どうして今なんだろう。自分との約束を放り出しても、あの人と一緒にいる理由とは何だろうか。とても楽しみにしていたのに……頑張っておしゃれもしたのに。
 考えれば考えるほど、涙は止めどなく溢れて来る。
 悔しいのか悲しいのか、自分でもよくわからなかった。

「……柿崎?」

 名を呼ばれて顔を上げると、目の前に誰かが立っていた。涙と合わない眼鏡のせいで視界はひどく歪んでいるため、それが誰なのかわからない。
「だれ……?」
 怪訝そうに答えると、目の前の人物は間をおいてから困ったように返事をした。
「眼鏡してんのに見えないの? ていうかその眼鏡、すげえ野暮ったい上にオヤジくさいんだけど……」
 そりゃお父さんのだからね! と心の中でムッとして、茜は口を尖らせたまま眼鏡を外した。それでも歪んだ視界で見てみれば、目の前にいたのは確かに見慣れた顔だった。
 栗生緑(くりお みどり)。クラスメイト、しかも隣席の男子である。
 緑は、茜の顔を見て何やら困惑していた。
「何かあったのか?」
 その困惑ぶりを感じ取り、茜は改めて自分が泣いていたことに気付き、慌てて下を向いた。
「な、なんでもないよ」
「……何でもないワケないだろ。すげードン底って顔してるし」
「ほんとに、なんでもないの。ごめんね」
 何で謝っているんだろう、私。でも今は誰にも会いたくないし、放っておいて欲しいのだ。だから、緑が飽きれてどこかに行ってくれればいいのに、と心の中で祈った。
 茜はひたすらに一人になりたいと願い、緑はおそらく困惑しているのだろう。その心情を顕著に表わすかのごとく、奇妙な沈黙が漂った。
「あのさ」
 先に口を開いたのは、緑の方だった。
 そして声をかけられたと同時に、何でか手を繋がれていた。
「ちょ、ちょっとなにっ?」
 慌てる茜をよそに、緑は繋いだ手を引っ張って歩き出してしまった。
「いいから。あんなとこで一人泣いてるとアホな男にナンパされるぞ。こういう祭の時って、浮かれたバカがうろついてるもんなんだから。実際おれ、ここに来るまでに二回ほどいたいけな女子を救出したんだぜ」
 自信満々に言いながら、緑はにやりと笑った。
 緑はサッカー部の副部長で、後輩の面倒見もよい。スポーツマンの名のもとに男らしく爽やかで、女子はおろか男子からも人気高い。そういう性格だから困っている人は放っておけないのだろう。
「なんて言って追い返したの?」
「一番効果的なのは“待った?”って女の子に声かける方法かな。喧嘩腰で行くとおれも怖いし、まあだいたい引き下がるな」
 なんて笑って言っているが。恐らくそのナンパ人たちは、緑が自分よりも格段に格好いいから引き下がらずを得ないのだろうと思った。怖いとか言っているけれど、緑はたぶんそんな臆病じゃない。でもそれをあえて出さないところが、彼の魅力なのかも知れない。
 そこで茜ははっと我に返る。何だか勢いで付いてきてしまったが、フィリップと約束があるじゃないか自分。
 でも……フィリップはもう来てくれない気がした。あの女性は依頼人なのかも知れないけれど、今日はもう自分には会いに来てくれない気がした。たとえば仕事で遅くなるにしても、携帯に電話くらいできるはずだから。
「なんかあったのかも知れないけどさ、せっかくの七夕祭なのに泣いてるなんて勿体ないぞ? 運良くか悪くか知らないがここで会ったのも縁だと思って。おれが飴でも買ってやるから元気出せ」
 緑はおそらく長男で、弟妹がいるに違いない。
 そんな風に考えながらも、なんだか今はこの優しさがちょっと嬉しくて。
「……大通りで売ってた、巨大なリンゴ飴がいい」
「げっ、おまえアレ欲しいのかっ? ひとつ千円もするんだぞ!」
「買ってくれるんじゃないの?」
「……おまえってさ、案外図太いな」
 レディを気遣う紳士なフィリップだったら、きっと文句ひとつ言わずに笑顔で買ってくれるはず。
 でも今はそんなやり取りが楽しくて、茜は声を出して笑っていた。

 大通りにて巨大リンゴ飴(千円)を買ってもらった頃には、茜はすっかり楽しくなっていた。緑は財布の中身を見て「ぼったくりだ」とブツブツぼやいていたが、母と来ていた時も毎年買っていたと思い出話をすると、緑は困ったように頭をかいた。
「おまえんとこ、たしか親父さんも亡くなってたよな。今は一人暮らしなのか? どこに住んでるんだ?」
 そう聞かれ、素直に「見ず知らずの中年探偵の事務所で一緒に住んでいる」などと言えるわけがない。やばい商売でもやった末に囲われていると思われても仕方がない。
「え、えっとその、し、知り合いの人のところに」
「それって確実な知り合い……要するに親戚とかなのか? おれにはどうもそうは見えなかったけどな。あのおっさんは」
 意外な返答にはっと顔を上げると、緑はえらく真剣な顔をしていた。
「おれの従兄があの辺で店開いててさ。よく遊びに行くんだけど、この間偶然おまえの姿見かけて。隣の男誰だって見てみたら、今どき有り得ないほどハードボイルドを文字通り行くようなおっさんでびっくりしたんだよ。まあ、おまえちょっと楽しそうだったし、怪しげな雰囲気には思えなかったけど、連れ立って入って行ったのが古びたビルだったし……おまえってそういうやばい商売するような女には見えないから、何か事情があるのかと思って、それから少し気になってたんだよ」
 フィリップと連れ立って外に出る事はあまりないが、仕事が早く終わった時とか、ごく稀に居合わせることはあったりする。たぶん、その時見られたのだろう。
 茜はしばし悩んだ。全て話してしまってもいいものだろうかと。けれど今日のフィリップの約束すっぽかし事件を、誰かに聞いて欲しいと思っていたのも事実だったりする。
「誰にも言わないって、約束してくれる?」
 俯いたまま、茜は同意を求めた。
「基本的にはおれは秘密厳守主義だ。でも時と場合によるな。おまえがあんまりにも危ない橋を渡ろうとしていたら、おれは誰かに相談するかもしれない。おれの考えなんて所詮は十数年生きて来ただけのガキくさい代モンだし、対処できなかったら止むを得ないな」
 これが、大人と違って地に足のついた高校生の言葉なのだ。それでも、こうしてはっきりと意見を言える緑は十分大人びた考えをしていると思った。だからこそ、話す気になれたのかも知れない。
「実はね……」

 そうして茜は、母が亡くなってひとり公園で途方に暮れていた時にフィリップと出会った事から、今日のすっぽかし事件に至るまで、ゆっくりだが自分の言葉で緑に話して聞かせた。

 一通り話し終えると、またしても奇妙な沈黙が漂った。
 そして先に口を開いたのは、やはり緑の方だった。
「おまえさ、もしかしてあのおっさんの事好きなのか?」
「ええーっ?!」
 意外な言葉に、茜はびっくり仰天して緑の顔を見上げた。
「どういうことで、そういう展開になるのっ?」
「ていうか、話聞いて、そんでさっき泣いてた場面を考えたら、そうとしか思えないだろ」
「す、すきって……違うと思うけど……」
 でも、もしかしてそうなのかな。だからあんなにショックだったのかな。そう考えると何だか好きみたいで、もう帰ってもフィリップと顔を合わせられない。というか、とんだオヤジ趣味じゃないの私ったら! などと茜は一人困惑、いや浮かれていた。
 けれど。
「やめておいた方がいいと思うぞ、おれは」
 ちょっと真剣な声で緑が言った。
「物心ついたときには親父さん亡くなってたんだろ? おまえさ、あの人にそういう父親の影を求めてるだけなんじゃないの? 見た感じ生活感はゼロだったけど、“大人の男”って感じはしたし。そういうのが安心できるだけなんじゃないのか?」
 舞い上がり始めていた心が、急激に落ちてゆく。
「おれはあの人と直接会ったことはないから、どんな人なのかは知らない。おまえの話を聞く限りでは、見た目はどうであれ誠実さはあると思う。でも、おまえがあの人に対してどんな感情を抱いていても、深入りする前にあそこから出た方いいと思う。あの人は、おまえの恋人にも父親にもならないよ」
 現実を突きつけられた胸がズキリと痛んだ。腹の奥底で怒りみたいなものが沸き起こったが、緑の言葉は正しいような気がして。
 茜は、何も言い返す事ができなかった。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 水那月 九詩