ボーイミーツフィリップ!




 どこをどうやって帰ってきたのか茜は覚えていなかった。気がつくと見慣れた探偵事務所の一つしかない寝室――硬いベッドの上だった。なんの変哲もない白い天井をぼんやり眺めていた。
 もう零時を回っていた。だがフィリップはまだ帰って来ない。
「やっぱり」
 上品だけど色香を漂わせた“セクシー”なあの女性はいったい誰なんだろうか。茜は寝返りを打った。二人並んで歩いたさまが目に浮かんだ。
「お似合いだった。とっても」
 フィリップはいつもより数倍カッコよく見えた。二人のところだけ世界が違うような気さえした。
「でも、言い出したのはフィリップなんだよ。どうして? ……約束したのに。なのに」
 茜は何度となく寝返りを打った。クーラー嫌いの茜は扇風機を愛用しているが、蒸し暑い熱帯夜とあってなかなか寝付けなかった。扇風機は熱気を撒き散らしているだけだった。窓を開ければマシになるかと思ったがほとんど変わりなかった。白々と夜が明ける頃ようやく少し眠れた。
 いつもだったらベッドから飛び起きるのだが、それもままならなかった。
「もう起きないと」
 ノロノロとベッドから這い下りると茜はセーラー服に着替えた。顔を洗い化粧水と乳液をつけてから、セミロングの髪をブラシでとかした。
「うわぁ、眼の下にクマができてるよ。あれ? 化粧水つけたっけ? まあ、いいや、うん、あんまり変わりないだろうし」
 ぼんやりしていて茜は自分の行動を把握しきれていなかった。キッチンに立って朝ごはんを作っていた。ただし、いつものように手際よくとはいかず、無駄に時間だけが過ぎていった。
 事務所のドアの前に立つと、知らず知らずのうちに深呼吸をしていた。思い切ってドアを開けると、そこにはいつものようにソファの上で眠るフィリップがいた。上着は脱いでいるがズボンはダークスーツのまま――クリーニング代だって安くはないだろうに、また皺くちゃだ。顔の上には顔を隠すかのように被った山高帽。見慣れた光景にも関わらず茜は違和感を覚えた。
 お酒飲んでないの?
 煙草の匂いはするが、あの吐きそうになりそうな、アルコールと煙草が混ざったすえた匂いがしなかった。茜は昨日までのフィリップと違う気がして立ち尽くしていた。
「……レディ?」
 茜が何も言わずに立ち尽くしていたのでフィリップは訝しげな顔をしていた。
「ご飯できてるんだからさっさと起きて」
 茜は我に返って素っ気ない言葉を言って部屋を出た。

 茜は昨日のことを問いただそうか迷っていた。言ったところでどうにならないけれど聞きたいことは山ほどあった。あの女の人は誰で、フィリップの何なのか。どうして約束をスッポかしたのか。口にするのは怖かった。どれも口にしたら今の生活が無くなってしまう予感があった。
 だけど、緑に言われた事すべてを肯定することはできなかった。
 安心を求めちゃいけないの? だって母さんあんなだったし、父さんは……別に誰にも迷惑かけてないじゃない。いいじゃない。
 茜の頭の中はぐちゃぐちゃだった。それを振り払うように大きな声で、
「いただきます」
と言って、ご飯を頬張り味噌汁を飲んだ。穏やかな朝食とは言いがたい張り詰めた空気の中、気迫ある食べっぷりを見せた茜にフィリップが心配そうに声を掛けてきた。
「……レディ?」
「なにっ!」
 茜は思わず恫喝してしまった。
「なにか悲しいことでもあったかい? 眼の下にクマなんか作って可愛い顔が台無しじゃないか。ん?」
「別に何もないから。ところでフィリップ、昨夜はどうしたの?」
「……そんな昔のことは覚えていない」
 いつもだったら笑って聞き流せる台詞も茜には腹立たしいだけだった。
「あっそ。約束をすっぽかした挙句に、そういうこと言うんだ。男として紳士として恥ずべき行為じゃない?」
「約束なんて知らないな」
 茜は手にしていた茶碗と箸を置いた。
「昨日一緒にいた髪が長い女の人とっても綺麗だった。だあれ?」
「女性? 人違いじゃないかな……」
 フィリップは大真面目な顔で言った。依頼人とは答えなかった事に茜ははぐらかされた気がした。
「そう。言いたくないなら言わなくてもいいわ」
 フィリップは脚を組み椅子の背に左腕を乗せた。何か考え事をしているのか、時折、頭を掻いたり視線が窓の外に向かったが、茜と何度も目が合った。目が合うたびになぜかドキッとした茜だった。
「それから食事中は脚は組まないで。紳士のすることじゃないわ」
 茜が吐き捨てるように言うと黒ぶち眼鏡の奥のダークグレーの瞳が笑った気がした。
 茜はフィリップが何か言ってくれることを願っていた。けれどもフィリップは黙ったままだった。
「ごちそうさま」
 自分の使ったお茶碗を台所に持っていくとガチャガチャ言わせながら洗った。そして茜は「行って来ます」とカバンを掴むと学校に向かった。



 教室に入った茜は自分の席に着いた。隣席の緑はいなかった。
 カバンがあるところをみると朝練なのかな? 茜はグラウンドを見下ろすと見慣れた姿が走っていた。授業開始の少し前に緑が戻ってきた。
「おはよう」
「おはよ」
 挨拶を返したものの、なんか素っ気なかったかなと茜は思った。
 昨日は巨大なリンゴ飴を買ってもらったのだから、ちゃんとお礼を言わないといけないよね。
「昨日はありがとう。リンゴ飴ごちそうさま」
 茜がそういうと隣の緑は小声で言った。
「ん? ああ、いいって。あれで元気が出たんなら安いもんだよ。それで、何か話したのか?」
「え? うん……あのねっ」
 茜が切り出そうとしたところへ先生が入ってきた。
「授業を始めるぞ。今日の日直は誰だ」
「後でゆっくり聞くから」
 緑は教科書を開いた。



 結局のところ昼まで緑と話をする時間などなかった。
「柿崎、弁当持って屋上に来い」
 緑は小声で言うと教室を出て行った。

「ごめん。お弁当忘れたから、食堂で食べてくる」
と昼弁友達に断ってから屋上へ急いだ。階段を上っていくと屋上へ続く扉は開いていた――普段は閉まっているはずなのに。

「栗生?」
 茜はそっと覗いて呼びかけてた。
「こっち」
 出入り口の裏から声がした。茜は声の方に歩いていった。
「鍵開いてたけど」
「ああ、借りた」
「誰に?」
「ウチの顧問」
 緑は何でそんなことを聞く? という顔をしていた。
「そっか」
 茜は緑の隣に腰を下ろした。
「んじゃあ、メシ食いながら話せよ」
「うーん、あのね」

 そうして茜は朝のフィリップとの会話――七夕祭にいく約束をすっぽかしたこと、女の人のことを訊ねたことを緑に話した。

 一通り話し終えると沈黙が漂った。気まずい雰囲気を破ったのは、やっぱり緑だった。
「それで、柿崎はどうしたいのさ」
「どうって?」
「俺は昨日話した通り深入りする前にあそこから出た方いいと思う。昨日、聞き忘れたけどお前はどう思ってるのさ」
 返答に困っている茜を探るような目で見ると緑は言った。
「こういうことは整理していかないとな。あいつを好きなのか?」
「え?」
 茜はまじまじと緑を見たがふざけた様子などなく、むしろ真剣な表情だった。
「正直に答えろよ」
「うん。好きだよ。あ、ただその好きが異性として好きかどうかは分からないけど。いい人だし……」
 茜は俯きながら言葉をフェイドアウトさせた。
「じゃ、次。ずっといるつもり? いや、いたい?」
「どうだろう。行くとこがないから。ううん、違う――母さんを思い出すからアパートに一人で居るのが嫌だったから」
 茜が言い直すと緑はきっぱりと言った。
「普通そうだろう? いきなり一人になったら、そう思うだろう?」
「うん」
 緑の言葉に茜はほっとした。
「だからフィリップと一緒に暮らすようになって嬉しかったの。アパートに帰らなくてよくて一緒にいてくれて」
「そっか」

 茜はお弁当を無言で食べた。すると緑がハンカチを差し出した。
「え? 何?」
 茜が驚いて緑の顔を見ると呆れたような声で緑が言った。
「涙、拭けよ。俺が泣かしたみたいで気分悪いし」
 茜は慌てて自分の頬を手で拭った。
「ご、ごめん」
「謝んなくていいから涙を拭け」
 茜は「ほら」と差し出されたハンカチを受け取ると涙を拭った。
「それでもな、俺は、やっぱり、通り深入りする前にあそこから出た方いいと思う」
 緑の言葉に茜は素直に頷いた。
「そうだね」
「アパートはそのままなんだろう?」
 緑の問いに茜はただ頷いた。アパートはそのままになっていた。引き払うにしても荷物の整理をしなくてはならなかった。まだ母が亡くなって二週間ほどたっただけ、冷静に対処できるわけもなかった。フィリップも分かっているのか、そのことについては口にしなかった。
「思い出の場所で暮らすのは辛いと思うけど、だけど、お袋さんの面影とか溢れてんだよな。その中にいる方が落ち着くときもあるよな」
 そう言われるとなんだか、母の温もりのあるアパートに行ってみたくなった。
「引き払っちゃったら、そういった思い出の場所も消えちゃうんだね」
 茜は自分の言葉でさらに泣きたい気持ちになっていた。実際泣いていた。
「泣いてる暇ないぞ。昼休みは短いんだからな。さっさと食えよ」
 緑の現実的な発言に驚き、茜の涙は止まった。
「うん」
 茜は黙々と口に入れて飲み込んだ。



 午後の授業もきっちり受けてから茜は帰宅した。
 いつものようにタイムサービスに合わせて数軒のスーパーで買い物をした。フィリップが夕食を食べることは稀だが、余ったら冷凍してお弁当に回せばいいと夕食の準備に取り掛かった。

「すいませーん」
 探偵事務所の方から声がした。
「はーい」
 慌てて茜が出て行くと緑が立っていた。
「よっ! ちょっといいかな?」
「うん、いいけど……」
「これ」
 緑は包みを差し出した。駅から少し外れたところにある美味しいと評判の超有名な洋菓子店のケーキだった。
「ありがとう。入って」
 茜は緑を促した。
「お邪魔します」
 緑は応接セットのソファに座った。そして珍しそうにキョロキョロと辺りを見回した。
「へぇ」
 関心したような物言いの緑にクスリと笑ってしまった。茜はテーブルの上にケーキの箱を置くと、コーヒーを入れてお皿とフォークを持って戻ってきた。
「面白い?」
「まあね」
 ケーキの箱を開けると彩りも綺麗なケーキが並んでいた。
「うわぁ、美味しそう」
 目を輝かして茜が言うと緑は満足そうに笑った。
「栗生はどれにする?」
「俺はいいよ。柿崎だけ食べな」
「そういうこと言うと強制的に選んじゃうからね。ど・れ・に・し・よ・う・か・な?」
 茜はケーキを指差しながら歌った。
「分かった。選べばいいんだろ? おまえってさ時々強気だよな」
 緑はケーキの箱を覗くまでもなく言った。
「じゃあ、モンブラン」
 栗生だから栗? 茜は思った。すると
「違うわい」
という声とともに頭をコツンと小突かれた。
「痛っ。暴力反対!」
 茜はそんな年相応のやりとりが楽しかった。箸が転げても笑える年頃。笑は止まらなかった。

 カチャリとドアが開いた。
「……レディ。また随分とご機嫌だな。ところで、こちらのナイスガイは誰だい?」
 茜が笑い涙を指で拭いながら言った。
「お帰りなさい。同じクラスの栗生くん」
「はじめまして、栗生 緑です」
「よろしく、ボーイ。フィリップって呼んでくれ」
 フィリップは右手を差し出した。緑は戸惑いながらも手を差し出して握手を交わした。フィリップは茜と緑交互に見てから、自分の顎に手をやり撫でながらニヤリと笑った。そしてボソッと呟いた。
「これが美しい友情の始まりってやつだな」
 緑はフィリップの態度にちょっとムッとしていた。
「あの、柿崎とのこの生活、これでいいと思うんですか?」
「ボーイは、また随分とストレートだな」
 フィリップは机に腰掛け煙草を銜えるとライターで火を点けた。相変わらず長い炎はフィリップの前髪を二、三本焦がしていた。旨そうに紫煙をくゆらせると天に顔を向けて煙を吐き出した。
「先々の事考えてください」
「……先のことは分らない」
「先のことを後回しにしていいことないです。柿崎のことをもっと考えてあげてください。大人なんですから。昨夜のことだって」
「……そんなに昔のこと覚えてないな」
「ああ、もうアンタと話してると頭がおかしくなる。俺帰るわ」
 緑は吐き捨てるように言うと事務所を出て行った。後を追うように外に出た茜に緑はA四の茶封筒を寄こした。
「柿崎、これ!」
「なに?」
「読んでおいて。じゃあ、また明日」
 茶封筒を覗いて驚いた。
「未成年後見人? え、何これ?」
 茜は茶封筒の中身を元に戻すと寝室に駆け込んだ。緑が持ってきた茶封筒の中を全部出すといろんな資料が入っていた。それによると未成年者には親権を行う人がいないといけないらしい。もしいない時、たとえば両親とも死亡したり管理権を剥奪された場合には未成年後見人が必要らしい。
 私みたいに親が死んだ時は――『親権者はいなくなり後見が開始』――何? それ全然分からない。
 なになに――『離婚後親権者になっていた母が死亡すると、父親が自動的に親権者や後見人にはなれず、この時点で父親が後見人として適格か、あるいは、後述の親権変更に値するかについて、家庭裁判所が判断します』――私には関係ないね。父さんは死んでるんだから。
 茜は口を尖らせて眉間に皺を寄せた。
 両親が死んだ場合は――未成年の子について未成年後見人を選任します――誰が? 家庭裁判所? また家庭裁判所か。
 それに児童って年じゃない気がするが――『児童相談所で単身で生活することがいいのか、どこか施設などに入所できないのか等を相談します』
「そっか。簡単なことじゃないんだ」
 茜は改めて事の重大性を認識した。



 茜は夕食後、両親の形見の黒ぶち眼鏡を持ってアパートに向かった。
 葬儀のあの日、着替えを持ち出してから一度も戻っていなかった。階段をそっと上った。母はいつも言っていた。
「いい? 階段は静かに上がるのよ。足音って響いてうるさいんだから。人様の迷惑になるようなことはしちゃいけないわ」
 茜もそう思った。
 ポケットからキティちゃんのキーホルダーの付いた鍵を出して鍵を開けた。立て付けの悪いドアを開ける。少し斜め上に引き上げてから開けるのがコツだ。
 ずっと締め切っていた部屋はムッとする暑さだった。急いで窓という窓をすべて開け放った。
「ふー」
 額から流れる汗を拭うと開け放った窓辺に腰掛けた。母さんの大馬鹿もの。そう思ったら母の顔がみたくなった。茜は押入れの奥からアルバムを引っ張り出した。
 手で埃を払ってアルバムを開いた。茜が赤ん坊の時の写真もあった。数こそ多くはなかったが年齢ごとに数枚ずつきちんと収めてあった。母の生前を考えると腑に落ちないものがあった。その証拠に小学校入学を境に、パタリと写真が少なくなった。
 ひょっとして、この写真は父が整理したものなんじゃないかな。表紙がところどころ破けたアルバムの最後のページにポケットが付いていた。その中を覗くと手紙らしいものが入っていた。
 宛先は『柿崎 律子様』、差出人は『鈴木 一朗』。いかにも偽名っぽい氏名だ。

『この街に戻ってきました。何か困ったことがあったら言って欲しい。君たち親子の力にはなりたいと思っている。この街には君と幸せだった思い出が溢れている。だから遠慮なく言ってくれよ。これが美しい友情の始まりってやつだ』

 名前は銀行の書き方見本のように堅いくせして、なんて気障なんだ鈴木 一朗。もしこれが本名だったら大いに笑える。この芝居がかったセリフのような文章は凄いセンスだ。フィリップに負けていない。
 「あの人はお星様になったのよ」といつもの笑顔で答えた母の顔が浮かんだ。茜はふと父のことを知りたいと思った。
 せめて名前くらいは知りたい。
「戸籍……だったら分かるかな?」



 次の日、茜は学校へ行く途中で役所に寄った。総合案内所で「戸籍謄本が欲しいのですが」と聞くと「戸籍担当へ行ってください」と告げられた。
「戸籍全部事項証明書? 個人事項証明書?」
 茜が迷っていると感じのよいお姉さんが教えてくれた。
「目的によって違うのです。謄本と言われてたのが戸籍全部事項証明書です。そして、抄本と言われてたのが個人事項証明書です。運転免許取得かしら?」
 茜は首を振った。
「亡くなった父の名前を知りたくて。それで」
「そう。亡くなった方と同じ戸籍に配偶者やお子さん達がいれば『除籍』にならないはずだけど、お母様は旧姓に戻したかしら?」
 茜は首を振りながら言った。
「まったく分かりません。母も亡くなったので」
「そう、『戸籍全部事項証明書』でいいと思います」
「はい」
 茜は申請書に自分の名前を書いて戸籍謄本を申し込んだ。

 しばらくすると呼び出しの声がした。
「柿崎さん、柿崎 茜さん」
「は、はい」
「そこで収入印紙買ってきてくださいね」
 茜が収入印紙を差し出すと「間違いありませんね?」と本籍地の住所の確認を求められた。
「はい」
 茜が返事をすると収入印紙と引き換えに謄本を渡してくれた。茜は受け取って手近な椅子に座った。
「え?」
 そこに鈴木一朗と協議離婚という文字が書かれていた。茜の心臓がドクドクと音を立てていた。
 父の名前は『鈴木 一朗』。偽名じゃないんだ。死別じゃなくて離婚? 生きてるってこと?
 あれ以来ずっと持ち歩いてる黒ぶち眼鏡を無意識に取り出していた。
「と、とにかく学校に行こう」
 フラフラとした足取りで学校に向かった。



 二時間目に滑り込むと隣の緑に言った。
「相談したいことがあるんだけど時間ある?」
 緑はチラッと茜を見てから言った。
「いいよ。昼休みに屋上な」
 茜は小さく「ありがと」と言った。



 「ごめん。今日も食堂で食べてくる」と友達に断ってから屋上へ急いだ。
 茜はそっとドアを開けた。緑は昨日と同じような場所にいた。
「ごめんね」
「別に気にすんなって。それより、何話って」
「あ、あのね。生きてるの。父の名前が知りたくて戸籍謄本をもらったの。そしたら父は死んでなかったの」
「は?」
「母とは離婚だったみたい。父は生きてる」
 茜は握り締めてきた戸籍謄本を緑に差し出した。
「見ていいのか?」
 茜は頷いた。緑は神妙な顔で受け取り、戸籍謄本を穴が開くんじゃないかと思うくらい見つめていた。茜はお弁当を突っつきながら緑の顔を伺った。緑は気が済んだのか戸籍謄本を茜に返した。
「柿崎のこと探してるかもな」
 緑がホツっと言った。
「え?」
 茜は緑を見上げた。
「うーん、だって。親父さんなんだろう? お袋さんが亡くなったの知って――引き取りたいって思ってもおかしくないよな」
 茜は驚いて声を上げた。
「そんなの! だって全然覚えてないし、写真だって何にもないのよ? あるのはこの黒ぶちの眼鏡と手紙だけで……」
「親父さんが親権者になってくれれば一番いいと思うよ」
 茜はプルプルと首を振った。
「そんなの嫌だよ。知らない人に厄介になるなんて」
 緑は心底呆れたような顔をしていた。
「知らない人って何だよ――お前の親父さんだよ? あいつ、フィリップに世話になるよりよっぽど普通じゃないか」
 茜はハッとした――そう、フィリップは他人なんだよね。フィリップに厄介になるよりは普通なことだ。
 母の葬儀が終わった後、茜の身の振り方を巡って親戚は大いにもめた。それが何事もなかったかのように静かになったのは何かしら結論が下されたと考えるのが妥当だ。
 父、『鈴木 一朗』って一体どんな人なんだろう。私のことを探してるのだろうか。
 茜は箸を握り締めたまま考えていた。


 午後の授業を受けた記憶はなかったが、探偵事務所の鍵を開ける時には茜の左手は複数のスーパーの袋を持っていた。習慣と無意識は恐ろしいものだと茜は思った。
「ごめんください」
 茜が慌てて出て行くと件の女性が立っていた。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 音和 奏