ガールミーツフィリップ!




 不幸というものはお決まりのパターン――そう、ほんの些細なことから転がり、雪だるま式に大きさをまし、悪い方へと向かうものである。
 柿崎茜(かきざき あかね)は公園で一心不乱にブランコを漕いでいた。
 セーラー服での大胆な公園ジャックは誰にも見咎められることはない。
 なぜならもう完璧に日は沈みきり、本来なら我が物顔で遊ぶ園児達の姿がないからである。
 ただ、ブランコだけがその寂しさを哀れんでいるかのようにキィキィと金属的な音で泣き続けていた。

「……これからどうしようかな」
 茜は、誰に言うでもなくそう呟く。
 そんな彼女の膝の上に置かれたのは白い骨壷の入った箱――今日は母の葬儀だったのだ。
 亡くなった茜の母、柿崎律子は少しずれた人間だった。いや、正直に言えば、頭の中のネジを何本か落っことしてきたとしか思えないぐらい間が抜けていた。
 頭の中は年中お花畑で、そこからつけられた標語は『律子が歩けば災厄起こる』。
 買い物先で財布を落としてくるのなんて日常茶飯事だし、悪徳商法に捕まり怪しげなツボをまんまと買わされるわ、なんといっても極めつけは、怪しげで聞いた事のないような宗教勧誘の人を家にあげて、一緒にのほほんとお茶を飲んでいた事だろう。
 いつも茜がどれだけ怒っても、言い聞かせても、律子は穏やかな表情で「あら、私は大丈夫よ。茜ちゃん」と言うのだから、最後はいつも諦めのため息を吐く羽目になる。そんな世話のかかる母親だった。
 彼女が亡くなった原因も非常に彼女らしく、何かに気をとられ余所見をしている時に車にはねられて……そうして呆気なく、彼女は茜を一人残し、逝ってしまったのだ。

 母さんの、大馬鹿もの。あれほど周りに気をつけてねと、口を酸っぱくして言ってたのに。
 茜は律子に文句を言うが、同時に胸の奥から悲しみと後悔がこみあげてくる。
 もし、自分がお醤油を買ってきてくれなんて頼まなかったら、母は事故にあわなかったかもしれない。もし、私が一緒に言っていれば。もし。
 そんな仮定が次々と浮かんでは消え、ちくちくと茜を苛む。葬儀のときは実感がわかなかったが、茜はずっと頭の隅っこであり得もしないことを考えていた。もしかしたら、またなんでもない顔をして、笑いながら母がひょっこり姿を現すんじゃないかって。
 しかし、無機質な箱をこの胸に抱いたとき、茜はそれが現実であることを悟った――そして、自分が本当に一人になってしまったことも。
 茜の父は、茜が物心ついた時には居なかった。
 一度、母に聞いてみたら「あの人はお星様になったのよ」といつもの笑顔で答えたから、母にしては気が利いているなと幼心ながらにも思ったものだ。そして、唯一、父親の形見だと母親が大事にしていたのは、野暮ったい黒ぶちの眼鏡だった。それは今、二人分の重みを帯びて茜の掌に収まっている。
 母の葬儀が終わった後、茜の身の振り方を巡って親戚は大いにもめた。
 厄介者扱いされている事に腹が立ち、貴方達に迷惑はかけず一人で生きていくと、勢いまかせで啖呵を切ったところまでは良かったが、はっと我に返ってみれば、自分に残っていたのは母にかかっていた僅かな生命保険だけ。贅沢をしなければ生活費はまかなえるかもしれないが、到底、学費までは手が回りそうにない。今更、親戚に頭を下げるのも嫌だったし、あのアパートに一人で居るのも母を思い出して辛かった。だからこそ茜は公園で時間を潰していたのだ。

 茜はぼんやりと見つめて続けていた眼鏡を、何の気なしにかけてみた。
 視力は悪くは無いから、世界は刹那、ぐわんと歪む。そっと夜空を見上げれば、奇妙に滲んだ空では星が曲線を描きながら流れていった。子供っぽいジンクスが頭を過ぎ、茜は立ち上がり掠れた声で叫ぶ。

「私をっ――ひとりにしないで! ひとりにしないで! ひとりにっ」

 しないで。
 そう最後まで言い切る前に星は儚く消え失せ、茜の胸には虚しさだけが残る。ふと、茜は自分の頬がずうっと濡れていたことに気づいた――視界が滲んでいるのは眼鏡だけの所為じゃない。
 叶うわけないのに馬っ鹿みたい。さっさと帰ろう――どこへ?
 踏み出そうとした足を止め、ぎゅっと唇を噛み締めた時、茜は周囲の違和感に気づいた。
 そして、音もなく自分の傍らに立っていた人影に心臓は喉から飛び出しそうになる。
 その人影はがっちりとした体格からいって男のようだった。断定できなかったのは彼が茜に背中を向けていたからだ。山高帽を被り、身を包んでいるのはトレンチコート。いわせて貰えば、今は夏で気温三十八度は越す熱帯夜である。

「だ、誰?」

 茜が震える声で問いただすと、無言のまま男はゆっくりと、やけに勿体ぶった動作で振り向いた。
 ――無駄に老け顔。
 茜が抱いた第一印象はそれである。年は四十台に差し掛かった頃であろうか、それなりに精悍な顔をした男は眉間に皺を寄せ、あさっての方向を見つめている。顔の中心には知的な印象を与える黒ぶちの眼鏡がおさまっており、ちなみにトレンチコートの中はダークスーツを着込んでいた。正気の沙汰とは思えない。
 男は茜の方を見もせず、煙草を銜えると懐からライターを取り出す。シュボ。改造されているのかライターから立ち上った炎の長さは十センチは越えていた。その拍子に男の前髪が二、三本ちりちりに焦げる。紫煙をくゆらせながら、美味そうに煙を肺に溜めている男から茜はじりじりと距離をとったが、駆け出そうとした瞬間、おもむろに不審者が口を開いた。

「――レディ、アンタのような若い娘さんが夜中の公園で一人ぼっち。そんな時は何か問題を抱えてると考えるのが妥当なとこだ。そして俺はそんなレディを放っておけない性質でね」

 まるで役者が芝居を演じているような語りに、茜は呆気にとられて足を止めた。男はやっと茜のほうに目を向ける。それはスーツと同じ、ダークグレーの瞳。

「まぁ、とりあえずこれでもやるかい? 俺の奢りだ」

 ニヒルな笑いを唇の端に乗せながら男が突き出したのはイチゴミルク。
 熱帯夜にあらためて飲みたいものでもなかったが、茜はなにかに魅入られたように頷き、それに手を伸ばす。ありがとう、とその唇に言葉をのせて。

 その奇妙な人物との出会いは、一人になりたくない茜の願いを、この両親の形見である眼鏡と、流れ星が聞き届けてくれたのかもしれない、と茜は思ったのだ。



 長閑な朝を連想させる鳥の鳴き声。それとともに茜は目を覚ました。
 硬いベッドから飛び起きると、茜は手早くセーラー服に着替えを済ませる。顔を洗い、化粧水と乳液をつけてから、セミロングの髪をブラシでとかした。そして身支度を終えると茜はリビングへと続く扉を開ける。
 ここのキッチンは小さく、必要最低限のものしかそろってなかったが、それでも茜は手際よく朝ごはんを作っていた。ねぎを刻み味噌汁にいれ、炊飯器の代わりに鍋で米を炊く。そしてひと段落着いたところで、まだ確実に寝ているであろうこの部屋の主を呼ぶ事にした。
 茜は事務所と彼が呼んでた部屋のドアを遠慮なく開け放ち、そして目に入った予想通りの体たらくにうんざりする。
 男は革張りのソファの上で眠っていた。上着は脱いでいるが、ズボンはダークスーツのまま――皺になっているからクリーニングに出さなければならないだろう。顔の上には顔を隠すかのように置かれた山高帽。そして鼻につくのはアルコールと煙草が混ざったようなすえた匂いだ。かろうじて眼鏡は机の上に置かれていたが、昨日も例に違わずしこたま飲んできたに違いない。茜が入ってきた気配に気づいたのか、男は低い、犬のような声で唸った。
「フィリップ。起きて朝だよ」
 見た目は明らかな日本人であるのにフィリップと呼ばれた彼は、窓から差し込む光を忌々しげに睨んだ。
「……太陽の奴はこれだからな。せっかちな野郎は女にもてないってのをいつか教えてやろうと思うんだがレディはどう思う」
「はいはい。ぐだぐだしてないで、ご飯できてるんだからさっさと起きてね」
 フィリップのよくわからない憎まれ口も聞き流し、茜は窓を開けて酒気が漂う空気を外に追い出すことにした。窓の外から聞こえてくるのは車の通り過ぎる音と、通学中の子供達の声――なんにせよ爽やかな朝である。



 あの日、胡散臭い男――フィリップにすべてを吐き出した茜は、なぜか気づいた時には彼と同居する事になっていた。半ばすてぱちになってしまっていた勢いもあったのだろう。そうでもなければ、見も知らぬ男にのこのこついていくなんてこと、茜がするはずもない。
 フィリップは探偵事務所を営んでいて――といっても総勢一名の私立探偵だったわけだが――茜は同居の条件として一切の家事を引き受けることにした。茜の出来る事といえば小さい頃から培ってきた料理、洗濯などのスキル以外にはないし、そうでもしなければ家賃を受け取ろうとしない相手に対しての茜の気もすまない。
 そして結果的に一部屋しなかった寝室を茜が奪ってしまう形になったのだが、本人はまったく気にしていないらしく、二週間ほどたった今では、ソファの上でアルコールの匂いを漂わせている彼を起こすのが茜の日課になってしまった。
 フィリップはとても奇妙な男だった。
 出会った時も相当変だったが、こんな風に一緒に過ごすようになったらことさらそう感じる。
 まずそのテンプレートにはめられたような服装。そしてその斜め四十五度をいく言動。どうやら彼はハードボイルドというやつを気取っているらしかった。酒と煙草がない処になんて住みたくないな、とは彼がよく口にしていることではあるが、影でこっそりホットミルクを飲んでるのを茜が知らないとでも思っているのだろうか。
 よくわからない人だわ、と茜は冷めた眼で、箸を握り締めながら頭痛に苦しんでいるフィリップを眺めた。
「レディ、朝から味噌汁と米とは……これは俺の胃に対する挑戦と取っていいか?」
「もしそうだって言ったら、男の中の男としては受けないわけにはいかないよね。ってことでいただきます」
 フィリップは苦虫を噛み潰したような顔をして味噌汁を飲み込んだ。
 「男の中の男」という台詞に極端にむきになるということはリサーチ済みで、ある意味こんなに扱い易い男もいないかもしれない。のろのろとしているフィリップに、洗っちゃうから早く食べてね、と釘を刺すと茜は熱いお茶をずずっとあおった。そして机の上に置いてあったスーパーのチラシに素早く目を通す。それは母親と暮らしていた時からの茜の日課で、これほどタイムサービスを熟知している高校生にはなかなかお目にかかれない。ぱらぱらと物色していると、ひとつのチラシがはらりと茜の手を逃れ床に落ちた。
 『七夕祭』という大きな見出しに、柔らかな線で描かれた織姫と彦星と笹が描かれている。
 ――あぁ、そういえば亡くなった母とは毎年のように行っていたな。お守りしてたのは私だったけど。
 茜が思いに耽っていると、フィリップのわざとらしい咳払いが聞こえてきた。
「――レディ、もしかして行きたいのか」
「『七夕祭』に?」
 本気で聞いているのだろうか、と茜が聞き返すと、フィリップは神妙な面持ちで頷いた。心なしか表情が硬く、緊張しているようにも見えて、茜は訝しげに思う。自分はお祭りに行きたがるような年でもないし、それに自分が頷けば「連れていってやろうか」とでも言い出しそうな勢いではないか。
 何考えてるんだろうこの人。
 茜はなぜか意地悪な気持ちになって、わざとすました態度をとった。
「あれ、フィリップ。今夜は女の人と約束してないんだ」
 フィリップは言葉に詰まり、あれは依頼人だ、と苦し紛れの言い訳をする。
「昨日の女の人も綺麗だったね」
「……そんな昔のことは覚えていないな」
 そっぽを向くフィリップに茜は忍び笑いを漏らした。ハードボイルドの名文句もフィリップにかかっては拗ねた小学生の言い訳に聞こえてしまう。茜にからかわれることに気づいたのか、フィリップは憮然とした表情で唸り声をあげた。
「で、レディ、行きたくないのか」
「ううん。行く。行きたい。一緒に来てくれるの?」
「あぁ、レディが望むなら、この世の果てまでお供するさ」
 フィリップは調子を取り戻しにやりと片頬を吊り上げる。
 少しだけ浮き立つ気持ちを隠すように、茜もにっこりと笑った。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 佐東 汐