眼鏡の神様




 校舎の裏の隅。目立たないような場所にこっそりと、小さなお社が建っている。
 大きさは、百葉箱をひとまわり小さくした程度。
 外観は大昔の卒業生の作だとも言われているが、定かではない。
 もちろんこれは本物のお社ではない。だから中に納められているのはお稲荷様でも、仏像でもない。
 いや、ある意味ご神体といえば、ご神体だろう。
 ただし中にあるものが振るっている。
 なにしろお社の扉をそっと開いてみると、そこに鎮座ましましているのは一台の眼鏡なのだ。
 有り体に言うならば、まるでベンゾウさんが掛けるような、ぶ厚いガラスの瓶底眼鏡である。
 実はこれこそが、この高校に代々語り継がれている眼鏡の神様なのだ。
 しかも意外なことに、この眼鏡の神様はかなり霊験あらたかな神様でもある。
 もしも何か叶えてほしい願い事があるならば、こっそりと裏庭へ赴くといい。そして拍手を打ってお社の戸を開き、中の眼鏡のレンズを三度磨く。
 それから眼鏡をかけて願いごとを唱える。


『眼鏡の神様、どうかこの願いを叶えてください』


 すると果たして、その願いは必ず叶うのだ。
 ただし願いの叶えてもらった生徒は、きちんと眼鏡の神様にお礼をしなければいけない。
 御神体の眼鏡を、今度は百回磨かなければならないのだ。
 なかなか骨の折れる大変な作業だが、これを怠ると大変なことになる。
 実は眼鏡の神様には両目がついていない。それゆえに人気のない校舎に一人残っていたりなどすると、この神様がやってくる。
 そして背後から足音もなく近付いて来て、君の耳元に囁くのだ。
 お前の願いは叶えてやった。だからその代わりに——、




「お前の目玉をくれーっ!!」
「ぎゃあぁぁっ!」


 互いに抱き合って情けない悲鳴をあげる後輩達の様子に、俺は堪えきれず爆笑した。
「……なにアホなことやってんだよ」
 ふいに蛍光灯の明かりがつけられる。すると雑多にものが積み上がった我等がハンドボール部の部室の様子が明らかになった。
「おお、祥一」
 その声にけたけたと笑いながら振り返ると、同級生の野木祥一が呆れた表情で立っていた。
「部室締め切って、いったい何をやっているのかと思えば……」
「暇だったから怪談でもしようかなって」
 運動部が活発なうちの高校は、昼休みは持ち回りでしか校庭が使えない。今日もあらかじめ他の部活の割り当ての日だとは分かっていたのだが、なんとなく習慣でみんな部室に集まっていた。
 ただ、だからといって特にやることがあるわけでもないので、たいていはこうして阿呆なことで隙を潰すのが常だ。
「ちなみに今の話のオチは?」
「眼鏡の神様……つまり目が無(ね)えの神様」
 にやりと笑って答えた俺の言葉に、さっきまで震えていた後輩達ががたがたと崩れていった。
「先輩……っ!」
「てか、駄洒落かよーっ」
 恨みがましい視線を向けて来る後輩達に俺は心外だという表情を向ける。
「後半は確かに俺の創作だが、前半はマジだぜ。前に上の学年の先輩から聞いた」
「ええー、マジっすか〜?」
 なにやら疑い深くなってきた後輩に対する返答として、俺は律儀にカーテンを開けている祥一を顎で示す。
「祥一だって知ってるぞ」
 その言葉にうなずいた祥一を見て、ようやく後輩達は信じたようだ。
「野木先輩が知ってるって言うなら、本当っぽいな」
「だなぁ〜」
 そう言って頷き合っている。というか、先輩としての俺の立場はどこに消えた。手近な後輩を一人捕まえて、こめかみを拳でグリグリと抉りながら教育的指導をしていると別の後輩が尋ねてきた。
「そういえば、先輩方はその眼鏡の神様の御社とやらを見たことがあるんですか?」
「どんなもんでしたか?」
 そう言って後輩達は無邪気な視線を向けて来る。しかし俺ははたと黙り込んでしまった。
 そういえば、こうした怪談モドキのネタにすることはあっても、実物を見たことはまだ一度もない。俺はちらりと時計に視線を向けた。
 まだ昼休みは少し残っている。
「よし、ちょっくら実物を拝んでくるか。行くぞ、祥一!」
「なんでオレまで……」
 そうぶつぶつと文句を言いながらもきちんとついて来るのが、祥一の律儀なところだ。
 そんな訳で、俺達は昼休みが終わらないうちに校舎の裏へと足を運んだのだった。



 校舎の裏は人の姿もなく、どこかじめっとしたうら寂しい雰囲気に満ちていた。
 もともとこのあたりは美術室や音楽室の裏に辺り、運動部の俺達にはあまり馴染みのない場所でもある。どこからか吹奏楽部が練習していると思わしき楽器の音が聞こえてくる。
 もっとも俺はかなりあっさりとくだんの社を見つけることができた。
「なんだ、結構綺麗にしてあるじゃん」
 ほとんど朽ちかけたようなぼろぼろの社を想像していた俺は、わずかばかり意外に感じた。もしかすると定期的に誰かが手入れをしているのかもしれない。
 本物のお社に比べれば見劣りすることは否めないが、それでも細部のディティールにまでこだわった立派な社だ。
 とりあえず、俺は社の前に立ち、ぱんぱんと拍手を打つ。そしてお社の扉を慎重に開くとそこには噂どおり、立派な黒縁眼鏡が鎮座ましましていた。
「おお、マジであるよ……!」
 わずかにレンズが曇っているように見えるのは、願いをかなえた多くの人間がこのレンズを磨きまくったからだろうか。
 しかしこんな風に、お社の中に堂々と眼鏡が納まっている図はなにやら滑稽なおかしみがあるものだ。
「と言うか、なかったらお前、後輩たちになんて言い訳するんだよ」
 祥一が呆れたような顔をして言う。
「まぁ、そん時はそん時だ」
「相変わらずアバウト極まりないな、お前……」
 ため息混じりの祥一の声を聞き流しながら、俺は眼鏡を手に取る。触れた瞬間に何かあると思いきや、そこら辺の眼鏡を拾いあげるのと全く変わらず、御神体の眼鏡はあっさりと俺の手に収まった。
 それでもレンズが厚い分、ずっしりとした重量を感じさせるのがなんとも神々しいと思いたい。
 俺は眼鏡のレンズを制服の袖でごしごしと三回擦った。
「おいおい、そんなことをしたらレンズに傷が付くだろう!」
 後ろから祥一の焦ったような声が聞こえるが、気にしない。どうせ俺の眼鏡というわけじゃないし。
 儀式の条件は眼鏡を三回磨くということだけだったから、これで問題はないはずだ。
 俺はおもむろに眼鏡を装着して、願い事を口にする。


「眼鏡の神様、本当にいるのなら俺の前に姿を現してくれよ」


 俺は眼鏡をはずして、祥一を振り返る。
「祥一、お前もなんか頼んでみるか?」
「ちょ…、お前なんて願い事してんだよっ!」
 なにやら慌てた様子を見せる祥一に、俺は首を傾げた。
「だって、せっかくなら実物を見てみたくないか? だいたい俺、別に今叶えて欲しい願い事とかないし」
「だからって、オマエナァ……」
 祥一には願い事がないのだろうと、俺はさっさと眼鏡をお社にしまう。さてさて、これからいったいどうなるかが楽しみだ。
 まぁ、実のところ俺にだってこんな噂は所詮は眉つばもの。結局はなんの起こらなかったじゃん、ちぇーっと笑い話に終わるのは承知の上だ。
 もっともこうした馬鹿げた行為は、それを分かっていてあえてやってみるというのがミソなのである。
「ばちが当たって知らないからな」
「……お前って以外と信心深いんだな」
 一年の時から付き合いのある祥一の意外な面を見た思いで、俺は腕時計に目を落とす。
「あ、やべっ。予鈴まで秒読み」
 俺の声に被さるように、


 きーんこーんかーん


 授業開始5分前を告げるなんとも小憎たらしい鐘の音が響き渡った。次の授業はおおらかな宮下先生だからそれほど急ぐ必要はないとは言え、遅刻してしまうと言い訳に面倒だ。
「祥一、行こうぜ」
「はいはい。ようやく気が済んだみたいだな」
 偉そうに肩をすくめる祥一の頭を追い越しがてらどつきながら、俺は昇降口まで走る。
 そこには俺達と同じようにぎりぎりまで校舎の外にいた生徒や、グラウンドでの体育の授業に向かわんとする生徒でごった返していた。
 俺はヌーの大群を思わせるような人ゴミの間を、苦労しながらすり抜ける。
 やはりみんな遅刻をしたくないという思いは同じらしく、焦るあまりか肩や背中を容赦なくぶつけられた。
 そんなに焦るくらいならもっと余裕を持って行動しろよ、などと思わないでもないが、それを口に出せば「そう言うおまえはどうなんだ」という至極もっともな言葉が返ってくるのは予想の範囲内なので、賢明な俺は何も言わない。どうにか人混みを抜け出て、俺はほっと息をついた。
「やれやれだぜ」
 たかだか移動距離は数メートルなのに、まるで五百メートルを全力疾走したかのような疲労感がある。
 特に、最後に思いっきり背中にぶつかってきた奴。あいつだけは次に会ったらしっかりお礼をしてやると思うが、残念な事に顔を見てはないので個人の特定は不可能だ。
 まったくもって腹立たしいなどと考えていると、いつの間にやらはぐれていたらしい祥一がようやく追いついてきたらしく、ぱたぱたと走り寄る足音がした。
「よう、いったいどこに消えちまったかと思ったぞ。まさかヌーの群れに飲み込まれたかと俺は心配で夜も眠れず……」
「お前、背中になにを付けてるんだ?」
 軽口を叩きながら振り返った俺の目の前にあったのは、なんとも怪訝そうな祥一の顔だった。
「はぁ?」
 むしろ俺の方がその意味を理解できず、眉根を寄せる。もっとも背中というには背中になにかあるのだろう。訝しく思いながら背中に腕を回した俺の手に触れたのは、かさりという乾いた感触。
 なんだこりゃと慌てて引っ張った俺の手にあったのは、ノートをちぎって作ったと思わしきA4の紙だった。しかもそこには殴り書きにも近い文字で、


『気付かなかった君が悪い』


 と、記されてある。
 俺はきょとんとしてその紙をまじまじと見る。祥一も俺の手元を覗き込んで首を傾げた。
「なんだ、悪戯か?」
「ああ、そうだな。たぶん……」
 いまどき小学生でもしそうにない低レベルなイタズラ。俺もそう考えて祥一の言葉に頷こうとする。
 しかしその直前で、俺の脳裏にまるで天啓のような閃きが舞い降りた。
 俺は紙を握りしめたまま、大急ぎで踵を返して今来た道を駆け戻る。
「お、おいっ。どうしたんだよ、いきなり」
 数歩遅れて祥一もついて来た。
 傍若無人な勢いで、俺の背中にぶつかってきたあの生徒。顔は見ていないが、後ろ姿と背格好ならまだ覚えている。
 あの生徒がこの張り紙を貼ったに違いない。
 そしてなにより、俺の勘が正しければ奴こそが、
「眼鏡の神様だよ!」
 俺は祥一を振り返り、一声怒鳴る。
 相手は校庭には出ずに、俺達とは逆方向に廊下の奥へと向かっていた。つまり今ならまだ間に合うかもしれない。
 ハンドボール部で鍛えた脚力でもって全力疾走すること数十秒。視界の中に見覚えのある後ろ姿が映りこんだ。
 場所は折しも別棟へと続く一階の渡り廊下。俺は声を大にして怒鳴る。
「そこのやつ、止まりやがれっ!」
 うわんっと声が校舎の壁に反響する。
 ふいに奴の足取りが止まった。それにつられたかのように、俺の足も自然に歩みをやめる。後ろから息を切らした祥一が到着したのが分かった。
「おい……、こっちを向け」
 俺は先ほどよりは抑えた声で呼び掛ける。震えているわけじゃないぞ、と心の中で言い訳する。もっとも多少緊張していたというのは否めないだろう。
 だからこそだろうか。振り返った奴を見て俺は思わず息を飲む。後ろでも祥一の驚いた様子が気配で知れた。
 振り返っても、その生徒の顔ははっきりとは分からなかった。
 なにしろその生徒は、あまりにもださすぎる、あの黒ぶちのぶ厚い瓶底眼鏡を掛けていたのだ。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 楠 瑞稀