現実と理想




 トレーを手に持ちちょこちょこと人ごみを縫う動きは、まるで小動物。
 いればだいたいは探すまでもなく、視線が引き寄せられる。
 よくぞまぁ、あんな小さな身体なのに人の中に埋もれてしまわないものだ、と妙な感心を覚える。
 その子に気付いたのはいつからだったか。
 どちらにせよそれほど前じゃない。せいぜい数ヶ月前から。もしかすると4月の入社式あたりだったのかもしれない。
 少なくともそれ以前でないのが確かなのは、ちょうどその頃に眼鏡を買い替えたからだ。
 7年近い間しつこく使い続けていた眼鏡だったけれど、段々視力が下がっていくに連れて度数が合わなくなっていた。
 それでも新しい眼鏡に変えなかったのは、愛着があったからというよりは単に物臭だったせい。お前、顔はいいんだからもう少し身なりに気を使えよというのは、学生時代の悪友たちから耳にタコができるほど言われ続けていた言葉だ。
 それが功を奏したのか、最近は多少ファッション誌などにも目を通すようになったけれど、それでも生来の性質はそうそう変化しないらしい。
 さすがに眼鏡をかけていても周囲が見えづらくなっていたので、年度が変わるに合わせて思い切って眼鏡を新調してみたのだが、そうすると自分がかなり不自由な視界で暮らしていたことにようやく気付き愕然としてしまった。


 俺は杉原瑞樹。見た目と中身にギャップがありすぎることがアイデンティティの29歳。
 今年入社七年目でシステム開発部に勤めている。
 とは言っても、俺の担当は社内ネットワークシステムの構築がメインで、やっていることのほとんどは会社の便利な電気屋さんだ。やれネット回線の調子が悪いと言われれば駆けつけて原因を見極め、やれPCの使い方が分からないと言われれば走り寄り懇切丁寧に説明をする。そうでない時も電算室にこもっていることが多いので、あるいは社内の座敷童さんと言ってしまっても過言では無いかも知れない。
 
 
 そんな訳で、数年ぶりに一新されたクリアな視界での生活を楽しんでいた俺には、もうひとつ楽しみがあった。
 カフェテリアでたまに見かける女の子だ。
 肩につくかどうかと言うところで綺麗に揃えて切ってある黒髪は日本人形を思わせるし、白い肌は薔薇色の頬や桃色の唇を浮き立たせているようでもある。
 小柄な体格に比べてもまだ小さめの手はまるで幼い子供のようで微笑ましい。
 スカートから時折覗く膝小僧に年甲斐もなく視線が吸い寄せられたことも何度かあるが、それは武士の情けだと見逃して欲しい。それはいったいどこのどんな武士なのかと突っ込まれるのは承知のうえだが。
 カフェテリアでレディースセット(レディースと聞くとどうしてもスケ番を連想してしまうのは俺だけだろうか)とお気に入りらしいカフェラテを頼んでリラックスしている姿は、陽だまりで昼寝をしている猫を思わせ、動物好きの俺はその様子を見ているとどうにも和んでしまうのだ。だからいつの間にやら彼女は俺の第一種癒し系アイテムとして指定されていた。
 たぶん今年入ったばかりの新人さんなのだろう。
 下手をするとまだ学生かと思えてしまうような可愛らしい童顔。背丈もあまり高くなく、全体的に細身だから余計に小さく見えてしまう。
 個人的にはもう少し肉を付けたほうがいいんじゃないかと、お父さん的な余計な心配までしてしまう。
 もちろんあんまりまじまじと見ているとストーカーと勘違いされてしまうかもしれないので、たいていは視線の端でそっと眺めているだけに留めている。
 声をかけるなんてなおさらとんでもない。こんなオジサンが声を掛けたとしても、彼女を怯えさせるだけだ。
 俺はこうして遠くから眺めているだけで充分満足なのだから。


 そんな風に思っていたのが、甘かった。


 その日は忘れもしない。資材部のご老公から大至急ちょっと来てくれと呼び出しをくらった時のことだった。
 このご老公、ワードの使い方が分からないだったりローマ字打ちをカナ打ちに変えてくれだったりと、しょうもないことでほいほいと人を呼び出してくる。あまりPCを使い慣れていない年代なのだからそれも仕方がないといえば仕方がないのだが、一度なんかは青ざめた顔で、会社のPCでこっそりエッチなページを見ていたらウィルスに感染したかもしれないからどうしよう、などと相談された時はこっちの方がどうしてくれようかと思った。まぁ、結局はウィルスではなかったから一安心だったのだが。
 はた迷惑なことこの上ない爺さまではあるのだが、年長者は敬えという祖父母の教えと和をもって尊しとする生来の性格から大人しく言うことを聞いている状況だ。
 今回の呼び出しは、さてはまたアダルトなページを見ていてワンクリック詐欺に引っかかったかと頭を抱えながら足早に廊下を歩いていたのだが、そんな物思いにふけっていた所為で前方が不注意になっていたようだ。廊下のど真ん中で人とぶつかってしまった。
 弾かれたように転びかけてしまった相手の腕を間一髪で掴めたあたり、自分の反射神経を賞賛したいところだけれど、その代償というべきか変えたばかりの(とは言っても数ヶ月前だが)眼鏡が吹っ飛び、首から提げていたピクチャーケースの中身が散乱した。
 おいおいと自分の不運さに呆れながら落ちたものを拾い集めようと思ったが、そのためにはまず眼鏡を探し当てなければならない。
 これは難儀だな、なんて考えているとぶつかった相手が謝罪の言葉とともにカードを拾い集めてくれた。掴んだ腕の感触でたぶんそうだろうと思ったが、相手はどうやら女の子のようだ。この距離からでも眼鏡がなければ顔さえも識別できないが、それでも背丈の高さからずいぶん小柄な女の子であろうことは充分推測できる。
「あの、これ」
 いやぁ、いい子だなぁなんて思っていると、その途端。
「うげっ!」
「うげっ?」
 思わず聞き返す。胸元に昼に食べたナポリタンのソースでもついていただろうか。
「いえ、何でもないです。すいませんでした」
「いや、俺もよそ見していたし」
 むしろぼんやりしていたのはきっと俺のほうだ。利かない視界の中、それでもなんとか相手の顔をよく見ようと前髪をかきあげる。これは俺の自覚している数少ない癖のひとつで、特に緊張していると良くしてしまう。なにしろ、あまり女の子と話すのは得意じゃないのだ。
 だから、ついついぶっきらぼうな話し方になってしまう。
「あのさ、悪いけど眼鏡探してくれない? 俺、目が悪いから良く見えない」
 まぁ、とにかく視界が利かない状況じゃ何も始まらない。厚かましくもそう頼むと、彼女はきょろきょろとあたりを見回して眼鏡を探してもってきてくれた。
「これですか」
「ああ、どうも」
 親切な彼女の顔をしっかりと見たくて、すぐに眼鏡を装着する。しかし、視界がクリアになった途端、俺は自分の目を疑ってしまった。そしてまじまじと相手を見る。
 なんとぶつかった彼女は、俺の第一種癒し系アイテムじゃないか!
 なにやらびくついている様子はハムスターやハツカネズミのようで、その微笑ましい様子に思わず顔がにやけてしまう。きっと昼休みのときみたいにちょこちょこと動き回って仕事をしていたんだなと思うと、初めてのお使いに出た子供を相手にしているような気分で勝手に口が回りだした。
「新人さん? 気をつけなね。君くらい可愛ければ、ぶつかられて嫌がるおじさんはいないと思うけど」
 偶然の出会いに、俺もちょっと舞い上がっていたのかもしれない。ぶつかったときの感触で、俺の心配が杞憂だったことが判明したこともそれに拍車をかけた。
「辻さんって言うんだ。細身なのに、結構胸あるんだね」
 釈明を述べさせてもらえるなら、悪気はなかった。むしろ俺としては最上級の褒め言葉のつもりだった。
 だけど俺はここで学生時代の悪友からよく言われていた、お前、顔はいいんだからもう少しデリカシーというものを覚えろよ、と言う言葉を思い出すべきだったのだ。
 彼女は薔薇色のほっぺたをさらに紅潮させると、まるで子犬のように俺に向かって吠えかかってきた。
「セ、セクハラで訴えますよ! それに私は新人じゃ、ありません。入社四年目です」
「嘘……」
 そんな様子も可愛いなと思ってしまったのは蛇足として、俺は彼女のその言葉に愕然となった。
 これまでずっと新人だと思っていた俺の思い込みはいったいなんだったんだ。
 むしろ彼女の言葉に間違いがないのなら、四年間同じ社内にいながらこれまで一切彼女に気付くことのなかった俺の視力は、本当にとてつもなく悪かったんだなといっそ呆れ果てる思いでいっぱいだった。
「失礼します」
 彼女は落ちていたクリアファイルを拾い上げると、こちらを見ることもせず肩を怒らせ廊下を足早に立ち去っていく。
 毛を逆立てた猫のような後姿を見送りながら、俺は眉根に皺を寄せ、ぼりぼりと困りきって頭をかく。
 どうやらずいぶんと怒らせてしまったようだ。
 これからは昼休みにカフェテラスで姿を見るだけでも気まずい思いをしてしまいそうだと、俺は自分の迂闊な言動にどっぷりと落ち込んだ。
 なにやら一生分の墓穴を掘ってしまった気分だ。可能ならば彼女のぶつかってしまった時点まで時間を巻き戻してやり直したいと切に思うが、残念ながらそんなSFじみた特技は持ち合わせてない。
 再び大きなため息をついて俯いた俺の視界の中に、ふいに銀色の何かが飛び込んだ。
 一体なんだろうと拾い上げるとどうやら自転車の鍵のようだ。
 俺はバスと電車の通勤で、自転車の鍵は持ち合わせていない。可愛らしいマスコットのついたキーホルダーをしみじみと眺めると、そこには『SAKIKO』とマジックで名前が書かれていた。
 俺はピクチャーバッチに書かれていた彼女の名前を思い出す。
 そう、確か彼女の名前は――、
「辻紗希子ちゃんだ……」
 さて、これを一体どう活用するべきか。
 ぐるぐると思案を重ねていた俺は、ふいに妙案を思いつく。
 どうやら俺は汚名を返上する機会を手にすることができそうだ。
 実は自分の趣味からしてぴったりあっているマスコットのついたキーホルダーを手の中に握り締め、俺はにんまりと笑みを浮かべた。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 楠 瑞稀