そして現実




 なんかもう、今日は最悪だわ。
 憧れの彼――杉原くんに激突しちゃった、キャッ! なんて女子高生並みのハッピーさなんて、今の私には微塵もない。むしろぶつかったりしなければ良かったって後悔してる。
 想像(いや妄想?)って怖い。まさかあんなセクハラ発言する人だなんて、思ってもみなかった。若い子って、やっぱり顔とか胸とか重視なのかな。胸大きいの、ひそかなコンプレックスなのに。
 ただでさえ理想が崩れたっていうのに、そのうえ自転車の鍵、失くしちゃった。すごいショック。鍵がないと駅から自転車で帰れないじゃない。歩いてもいいけど……あの辺、夜は結構怖いのよね。
 とりあえず今日一日歩いた場所を探してみたけど、なかった。頼みの綱の“落し物係”にも届いてなかった。信じられない、一体どこで落したんだろ。まさかトイレに流した? なんてことも考えてみたけど、それはない。新しく作るにしてもお金かかるし、予想外の出費は一人暮らしの身にはイタイ。それにあのキーホルダー、可愛くて気に入ってたんだけどな。
 そんなこんなで気分は最悪。帰社時刻になっても、駅から歩きって考えるだけで足が重い。それでも帰らなきゃならないから、仕方なく会社出るけど。何度も溜め息吐いちゃって、暗い空気振りまいてるってわかってる。
 ああ、なんかもう最悪。私、厄年だったかな……項垂れながら、駅までの道をとぼとぼ歩いている時だった。

「辻さん」

 疲れてるのかな、幻聴まで聞こえて来た。

「辻紗希子さん」

 ああ、私もうダメかも。幻聴だけじゃなく、幻覚まで見えてきた!
 しかも目前に立っているのは――杉原くんじゃない!

「顔色悪いけど、大丈夫?」
「ひいっ!」
 いきなり顔をのぞき込まれて、びっくりして悲鳴上げた。その声があんまりにも大きかったから杉原くんは少し慌てていた。
「ちょっ……声大きいよ」
「ご、ごめんなさい。びっくりして……」
 驚かないわけないじゃない。なんで彼が目の前にいるのよ。ていうか、これ以上は私の理想が総崩れになるから勘弁して。
「驚かせてごめんね。呼んでも振り返らないから、聞こえないのかと思って」
 たぶん走って追いかけて来たんだろう。杉原くんの息は少し上がっていた。
 もしかして会社からずっと呼ばれてた? 全然気付かなかった。
「なにかご用?」
 ふと昼間のやり取りを思い出してしまい、私は素っ気ない態度を取る。いきなりなセクハラ発言を忘れたわけじゃない。昨日までの私だったらこのシチュをラッキーと思えたかも知れないけど、今日は手放しで喜べない。
 杉原くんは一瞬「あっ」ていうバツの悪そうな顔をした。多分、私が昼間の件を気にしてるって気付いたんだろう。ちょっと感じ悪いかな……とか反省してみたり。
「ええと、辻さん落し物したよね?」
「えっ?」
 びっくりして顔を上げてみると、目の前に差し出されたのは可愛いキーホルダーがついた自転車の鍵だった。
「ぶつかった時に拾ったんだ。届けようにも部署がわからなくてさ。それで帰り際に捕まえようと思って待ってたんだけど、何回呼んでも聞こえなかったみたいで。もしかして具合でも悪い?」
「いえ、大丈夫です。鍵、ありがとう!」
 本気で心から感謝した。失くしてしまったとばかり思っていた物が見つかった時って、どうしてこんなに嬉しいんだろう。不思議。
 ふと、杉原くんがじっと私の顔を見ていると気付いた。まずい、嬉しさのあまり目の前に彼がいる事忘れてうっかりニヤけちゃってた。うわあ、気色悪いとか思われてたらショックぶり返しだ。
 それはそうと。鍵拾ってくれて、しかもわざわざ待っていてくれたのよね? やっぱり優しいんだ。うん、そこはばっちりイメージ通り。
「あの、鍵本当にありがとう。何かお礼がしたいんですけど」
 ここは昼間のアレコレやイメージどうこうは無関係。助けてもらったんだから、きちんとお礼しなきゃ
 ……あれ? 今一瞬、杉原くんの瞳が異様に輝いたように見えたんだけど、気のせいかな。
 杉原くんは「そんなのは気にしなくていい」って言ってくれたけど、私の気が収まらなかった。何でもいいから考えておいてって言ってみたけど、少し強引かなって気もしてちょっと恥ずかしい。なんて考えていると。
「じゃあ、これからメシ行かない?」
 あまりにも突然の事に私は展開について行けず、疑問を投げかけることも忘れて同意してしまった。

 どうしようどうしよう。これって何だかデートみたいじゃない。
 俯いたまま視線だけを上げてみると、てきぱきと慣れた様子でオーダーする杉原くんの横顔が映る。眼鏡姿が知的で、やっぱり格好いいな……なんて乙女気分に浸ってる場合じゃなかった。
 杉原くんに連れて来られたのは、会社から程近いイタリアンのお店。知る人ぞ知る名店で、職場の女の子たちも「一度行ってみたい」と熱望するほど人気。でもお値段が結構高くて、そのうえ気軽なランチもやっていなくて、なかなか手が出せずにいるっていう店だ。
 お礼をするって言ったからには、支払は私がしなきゃ締まらない。でもこのメニュー見ただけで……お財布が悲鳴を上げそう。どうしよう、最後はカードにお世話になるしかないなこれ。
 正直、もっと安いお店にしてくれれば良かったのにって思っちゃう。ああ、でもお礼なんだから彼に選ぶ権利はあったのよね。仕方無いか。それに私の方が年上なんだから、ここはビシッと格好良く支払った方が先輩としての株も上がりそうだ。
「辻さんは、よくこういう所で食事したりするの?」
 唐突な質問に私は慌てて顔を上げる。
 相変わらずのタメ口も、もうだいぶ慣れてしまったらしい。
「たまに、ですね。頻繁に外食はしないようにしてます」
「なんで?」
「……一人暮らしなので」
 一瞬ためらってから仕方なく話すと、杉原くんは何故か少し嬉しそうな顔をしていた。彼の瞳がまた輝いたように見えたのは気のせいかな。
 というか、こんな高い店でしょっちゅう食事なんかできるわけないじゃない。一介のOLの給料、いくらだと思ってるの全く。
 料理が運ばれて来るまでに、杉原くんはいくつか質問をして来た。それは他愛のない、初めて会った人同士が交わす、いわゆる社交辞令的な内容ばかりだ。どこに住んでいるとか、出身はどこなのか、とかそんな程度。
 でも不思議と彼と話しているのは楽しかった。たぶん、聞き上手なのかも。年下なのにしっかりしてるんだなって感心しちゃった。
 程なくしてオーダーした料理が運ばれてきた。噂通りの美味しさで、その時ばかりは値段のこともすっかりうっかり忘れてた。こんな贅沢もう二度とないかも知れないし、どうせ私が支払うんだから思う存分味わってやる! って大人気なくムキになってみたり。
 そんな私を、杉原くんは微笑ましげに眺めていた。っていうか、なにその上から目線! 年下のくせに何か生意気。やっぱり前言撤回しようかな。
 そうこうしているうちに料理はきっちり完食し、恐怖のお会計タイムがやって来た。正直上司(お局様)のお小言より恐ろしい。しっかり食べちゃったし、ここは男らしく支払う以外にない! と思いつつ、恐る恐るオーダー表に手を伸ばしたんだけど。
「こらこら、これは俺の役目でしょ」
 そう言ってにこやかに笑みつつ、杉原くんはオーダー表を奪ってしまった。え、待って! と思っている間にも彼はさっさと会計に進んでしまっている。なにこの有無を言わさない行動の速さは。慌ててバッグを手に取り後を追ったけど、もたもたしている間にすっかり会計は済んでしまっていた。
「あの、支払います! お礼しなきゃならないの、私ですし」
 ウェイターさんに丁寧に見送られて店を出た所で、勢い良く詰め寄った。でも財布をがっちり握った私の手を、杉原くんはやんわりと押し返す。
「いや、お礼なら充分なくらいしてもらったし」
「は?」
「食事に付き合ってもらったでしょ。これがお礼」
 私は唖然とした。たかが自転車の鍵を拾ったお礼が、高級イタリアンで御馳走する事? 意味わかんない。しかも相手は昼間初めて言葉を交わしただけの、単なる同じ会社の人よ? 完全に自分が損してるじゃない。
「あの、どう考えてもあなたが損していると思うんですけど」
 私の疑問を、杉原くんは「そんな事ないよ」とあっさり否定した。
「気になる子のアレコレが聞けただけで、俺は充分嬉しいけどね」
 一瞬、思考が止まった。いや本気で。
 この人、いきなり何言ってるんだろう。ていうか、またしてもセクハラ発言? 正直ドン引いたんだけど!
「ど、どういう経緯でそうなるんですか? またセクハラですか?」
 胡散臭げな視線を向けると、杉原くんはちょっとだけ慌てた。
「セクハラって……ああもう、正直に話すよ! 実はさ、少し前から君のことカフェテリアで見かけてて。可愛い子だなって思ってたんだ」
 照れくさそうに頭を掻きながら、杉原くんは言った。
 うそ、それってまるで私と同じじゃない。
「昼間ぶつかったのは本気で偶然だったんだ。初めて話が出来て嬉しかったよ。ちょっと、その、余計な事言って不愉快にさせたみたいだけど」
「い、いえその……とんでもないです」
 何だか急激な展開に、思わず俯いてしまった。微妙に声も上ずって恥ずかしい。むしろセクハラとか言った自分が愚かしくなってきた。
「で、その後の鍵のことなんだけどね。君の名前は知った事だし、部署は調べてすぐにわかったんだ。届けようと思えばいくらでも出来たけど、お近づきになりたい下心というか……まあセクハラと言われても仕方ないんだけどさ。でも、もしかしたらそのせいで嫌な気持ちにさせたかと思って。とりあえずお詫びも兼ねて御馳走してみた。本当にごめんね」
 申し訳なさそうに謝られてしまって、私は困惑した。この数時間でそこまで気を遣ってくれていたなんて全然気付かなかった。
 むしろ私は、自分の子供っぽさが情けなくなってしまった。確かに最初の“胸大きいね発言”はセクハラ以外の何物でもないとは思うけど、彼だってきっと悪気があったわけじゃない。それをいつまでも根に持って、何て心が狭いんだろうって悲しくなった。年下なのに、ほんとしっかりしてる。見習わなきゃいけないな。
「私の方こそごめんなさい。鍵を拾ってもらって、そのうえ食事まで御馳走になったのに、失礼な事を言ったりして」
「いやいや、そこは全然気にしないで。セクハラって言われても仕方のないことしてるしね。二十九にもなるとさ、年下の可愛い子ってついついちょっかい出したくなっちゃうんだよ。これもオヤジへの走りなのかな。元々ガサツ者だから、ダチにも気をつけろよってよく言われるんだけどね」
 あはは、と杉原……くん? は屈託なく笑っていたが。
 え、待って。私の聞き違いでなければ、彼はいま己の年齢を二十九と言ったか?
「あの、つかぬ事をお聞きしますが、杉原く……さんは、入社何年目ですか?」
「え、今年で七年目だよ。辻さんよりも結構先輩だね」
 うそでしょっ! その容姿で年上って、しかも三十路近いって、有り得ないんだけど! それを今まで“くん”呼ばわりし、あまつさえ生意気とか思っちゃった私って、私って……。
 ガタガタと何かが音を立てて崩れた。
 現実って、案外残酷だ。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 水那月 九詩