必然の邂逅




 叫び声も空しく、光に眩んだ目が元に戻る頃には、先生の姿は消え失せていた。
 あたしはすごく心細くなって、再びぎゅっと震える体を抱きしめる。そして、化学準備室の冷たい椅子に崩れ落ちるようにして腰を下ろした。
 せんせーは、ああ言ったけど、本当にあたしは元の場所へ戻れるんだろうか。
 考えれば考えただけ、不安が雲のようにあたしを包んだ。あたしはそれを蹴散らす勢いで立ち上がる。
「考えても無駄だよね。今はせんせーを信じて待つだけ……ってそれが不安なんだけど」
 唯一できることが待つだけ、という状態がとてももどかしい。
 あたしはうろうろと檻の中の熊のように化学準備室の中を徘徊しながら、いまかいまかと先生が戻ってくるのを待ちかまえた。
 しかし、待てど暮らせど姿が見えない。
 先生がいなくなってから三分も時間はたってないのだから、そんなインスタントラーメンレベルで解決するようなトラブルはトラブルのうちに入らないが、これは、あたしが経験してきたなかでも、一生で一番の大ピンチなんじゃないだろうか。
 もとはといえば、先生のおっちょこちょいのせいでこんな状態に陥っているのだし、それにこんな状態のあたしを一人にするなんて。
 あたしはやつあたりでちょっぴり先生を恨んだ。
 考えごとをしていても不安を煽るだけだと思い、あたしは気晴らしに、この時代の先生の恥ずかしい秘密でも探ってやろうと思いたった――できれば、三年分ぐらい笑い転げられるやつがいい。
 失礼します、とおざなりに両手をあわせてから、あたしは先生の机の引き出しを開ける。そして、その中にあふれ返っているがらくたに、顔がひきつった。ごちゃごちゃと赤と青の配線が、つめすぎたやきそばのように押し込まれているし、作業途中だと思われる銅板が、何枚も割れた状態で散乱している。カオスだ。
 そういえば、せんせーめちゃくちゃ、散らかし魔だったよね……あたしは自分が化学準備室にきていたときの記憶をたどった。
 そして、視線をうつしてみれば、少し変わったものが視線に止まる。それはとても古びた絆創膏だった。それは猫型ロボットのイラストが入っていて、そういえばあたしも子供の頃に親にねだって買ってもらった覚えがある。調子に乗って怪我した子供に配り歩いてたからすぐになくなってしまったのだが。
 先生の子供のころにも流行っていたのだろうか? それにしても、かなり年季の入っていて、すでに絆創膏本来の目的は果たせそうにもない。先生って猫型ロボットファン? 聞いたことなかったけどなぁ。
 首を傾げながら、さらに机の中をがさ入れしようと手をかけると、がらっと化学準備室の扉が開いた。
 せんせーが戻ってきたのかも、とあたしは期待に胸を膨らませて顔を上げたが、そこにいたのは学ランの胸に造花を飾った卒業生だった。あたしの視線は夕日をしょって佇む少年の顔まで到達してそこでぴたりと止まる。つられて、あたしの心臓もいっしゅん止まりそうになった。



 すらりと均整のとれた体に、理知的な顔つき。
 眩暈がするぐらい制服が似合っている凛とした少年は間違いなく、あたしの恋してた雨宮くんだった。三年ぶりに見た雨宮くんは、相変わらずかっこよくて、あたしの胸は見えない手で握りしめられたみたいにきゅうと痛くなる。雨宮くんも化学準備室の中に先生以外の人物がいたことに驚いたようで、先生の机の中をのぞき込んでいるあたしを不審そうな目で見た。もしかしなくても怪しまれている。
「あっ、雨宮くん! えと、これは誤解で……ちょっと捜し物をしていたというか」
 焦って弁解するように立ち上がると、その端正な顔がさらに強張った。
「なぜ、俺の名を知ってるんです?」
 しまった、と思ったときにはすでに遅い。
 あたしは失言をつむいだ口を縫いつけたくなりながら、汗びっしょりでなんとか言い訳をひねりだした。
「か、春日って知ってるでしょ? 雨宮くんの同級生の。あたしは、その春日の姉で、ここには柴崎先生に用事があって来たの」
「……春日のお姉さん、ですか」
「そ、そう。なんだか懐かしくなっちゃってさ。挨拶でもしようかなぁ、なんて」
 嘘を吐くことに抵抗がなかったわけではないが、あたしはこの場を切り抜けようと必死だった。
 雨宮くんは今一つ腑に落ちないような顔をしていたが、あたしをじいっと見て、どうやらその嘘を信じてくれたみたいだ。
「――俺も柴崎先生に少し用があったんですが、先生はどちらへ?」
「あ、ええと、ちょっと出てるみたいだけど、いつ戻ってくるかはちょっとわからないなぁ」
「戻ってこられるまで、俺もここで待たせてもらってもいいですか」
「あ、えーと、いいんじゃないかな」
 実はもろもろの理由――先生帰ってきたときぼろが出そう、というより二人きりは緊張するから! ――であまり居てほしくなかったが、そんなことは口に出せない。雨宮くんは机の下に入っていた四角い椅子を手前に引き、あたしとテーブルを挟んで向かい側に座った。
 あたしは緊張でがちがちに固まっていたが、次第に沈黙にもなれ、雨宮くんとの距離にまで懐かしさを感じていた。あたしはぼんやりと雨宮くんのさらさらの髪を昔と同じように観察する。
 その艶やかな髪に一度も触れることはかなわなかった。
 勉強を教えてもらう傍ら、勇気がなかったあたしはそのきりっとした横顔を盗み見るぐらいしかできなかったのだ。
 ぶしつけなあたしの視線に気づいたのだろう。雨宮くんは、ふっと視線をこちらにむける。やばっ。
 落ち着いたダークブラウンの瞳に縫いとめられ、あたしは笑顔を浮かべることも出来ずに、じいっと雨宮くんを見返した。雨宮くんはまじまじとあたしをみて、含みのある笑みを浮かべる。
「春日のお姉さん、本当に春日にそっくりですね。春日が少し年をとればこんな感じになるんだろうな……まるでここだけ時間がとばされたみたいだ」
「えっ? あ、雨宮くんって面白いこと言うんだね」
 冗談だということはわかっていたが、確信に迫る言葉にあたしは乾いた声で笑った。雨宮くんって頭いいから、下手したらすぐにばれてしまいそうだ。どうせこんな突拍子なことを信じるとは思えないけど、気をつけなきゃ。
 あたしは必死に取り繕った表情を作っていたが、ふと落とした視界のはしに、雨宮くんが持っていた卒業証書が目に入る。
 この日がわたしが雨宮くんを見た最後の日だったんだ。勇気がなかったあたしはその気持ちを伝えることはできなくて、それをあたしは忘れた振りをしていたけど、心のどこかでずっと後悔していたのだろう――だけど、今更伝えてどうなるのだ、と冷静なあたしがつっこむ。
「――どうかしましたか」
 黙りこんだあたしに雨宮くんは声をかけたが、あたしは誤魔化すように首を振って笑った。
「そういえば、今日、雨宮くんは卒業式だったんだよね。おめでとう」
「ありがとうござます。短いようで長い三年間でした」
 雨宮くんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、少しシニカルな笑みを浮かべて頭を下げる。
 普通逆じゃないのかなぁと思ったが、周りのあたしたちよりも早熟だった雨宮くんだ。もしかしたら物の見方が違ったのかもしれない。
 あたしはさりげなさを装って、ずっとずっと、本当は聞きたかったことを口に出した。

「あの、さ。雨宮くんは、卒業後に留学するんだってね」

 喉がからからに乾いて、あたしは言葉につまる。雨宮くんはゆっくりとこちらみて、感情の読み取れない顔で頷いた。
「ええ、あと少し片付けることがありますが……それは春日から聞いたんですか?」
「ううん――柴崎先生からちらっと聞いただけだから」
 もちろん嘘だった。
 雨宮くんは、とても優秀な生徒で、なにかの奨学金で外国の大学に留学したらしい。あたしがそれを風の噂に聞いたのは卒業してから数ヶ月はたったあとだった。
 あんた知らなかったの、と友達にいぶかしげに聞かれて、あたしは呆然としながら首を振ることしかできなかった。それなりに仲良くしていた、と思っていたのはこちらだけだった、という事実はあたしをサンドバックのように打ちのめしたのだ。
「あたし……の妹、雨宮くんにはすごくお世話になってたから、お見送りぐらいはしたがると思うんだけど」
 なんで言わないの? ――なんで、教えてくれなかったの?
 あたしの目にはそう書いてあったのだろう。クールな雨宮くんの表情がそこで初めて罰が悪そうに曇る。そういえば、雨宮くんはあたしと一緒にいるときに何度かこういう顔であたしを見ていたときがあった。そしてそれは直ぐに、元通りの淡々とした彼の表情に塗り固められるのが常だった。
 だけど、この時の雨宮くんは、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で何かを囁いて、でも、あたしの耳はそれをとらえることが出来なかったのだ。
 雨宮くんは、気を取り直すようにひとつ咳払いをする。そしてその瞳にはすっと普段通りの冷静さが戻った。
「ところで――柴崎先生、帰ってくるの遅いですね」
「えっ、そうだねぇ」
「そもそも戻ってこられるんですか?」
 それはどういう意味だろう、とあたしは雨宮くんを凝視した。雨宮くんはあたしの心を覗き込むかのような深い瞳を向ける。しかし、雨宮くんは先生が未来にタイムスリップしてるなんてこと知らないんだし、家にでも帰ってしまったのではないか? とでも問いかけたのだろう。あたしはそう早合点して答えた。
「帰ってくるとは思うんだけど、本当にいつ戻ってくるのかわかんないから。雨宮くん、もしよかったらあたし、伝言なら引き受けるよ?」
 そう善意で引き受けたのに、雨宮くんの眼光の鋭さは増した。その強い光にあたしの心臓はすくみ上がる。
「春日――のお姉さんは、柴崎先生と付き合っているのですか?」
 そんな頓珍漢な問いかけに、あたしは腰が抜けそうになった。衝動的に立ち上がり、首と手をぶんぶんと横に振って否定する。好きな人――好きだった人? あぁ、解りにくい! ――に誤解されるのが不本意で、あたしの顔は燃えるように熱くなった。
「はぁあ? まさか! ないない!」
「じゃあ、なぜ、春日はここに?」
「だから、あたしも柴崎先生に用事が」
 すると雨宮くんは、あたしの名前を呼び、ゆっくりと腰をあげる。あたしが何をするんだろうと訝しげに見つめると、雨宮くんはあたしにゆっくりと近づいてきた。その表情は厳しくて、あたしは雨宮くんが、まるで一瞬にして別人に入れ替わったかのように錯覚する。
 一歩づつ近づいてくる雨宮くんの妙な迫力に気圧されて、あたしも次第に窓際へと追いやられる。あたしも三年前よりは身長は伸びていたが、見上げるほど長身の雨宮くんは近くでみると更に威圧感がある。そうして追いつめられたあたしの背中がついに窓枠に触れる――もう逃げ場は無い。
 あたしは生唾を飲み込んで、雨宮くんを見上げた。彼の端正な顔があり得ないほど近くに迫っていて、あたしは心臓が止まるかと思った。そして雨宮くんはあたしの脳味噌をとろかす、刺激的な低音で囁くのだ。

「春日――俺に言うことがあるでしょう? 隠せば隠すだけ後で辛くなるのは自分ですよ」

 気づけば、雨宮くんはあたしのことを、姉ではなくて春日と呼んでいた。
 気づいていた? いつから? なんで? ――でもそんなこと、今はどうもでいい。
 なぜ、という疑問は浮き上がる前にぱちぱちと空気中に蒸発していく。まともな思考は雨宮くんの強烈な存在に蝕まれ、あたしは蜘蛛の巣に吸い込まれる蝶のように口を開いていた。

「あたし、あたしね、あたしは――雨宮くんのことが大好きなの」
「…………は?」

 え、なんなの、その反応。



 気の抜けたような声を発した雨宮くんに、あたしの頭の中のもやみたいなものはさっと消えていく。あたしの三年遅れの一世一代の告白は、雨宮くんの反応に打ち砕かれた。しかし、あたしが思ったよりもショックを受けていなかったのは、なによりも告白を誘導した――とあたしには感じられた――雨宮くんが明らかにうろたえているからだ。
 自信満々であたしの告白を聞き出そうとしていた一瞬前の怖い雨宮くんは、高校時代のあたしが見たことのないような動揺を見せている。在学中からクールで飄々とした雰囲気の少年だったが、あたしははじめて年相応の雨宮くんを見た気がして、ちょっと暢気にもラッキーと思ってしまった……案外、あたしも重症らしい。

 雨宮くんは口ごもって戸惑っていたが、なんとか平静を保ったらしい。きゅっと唇と引き結び、眉間に皺を寄せた。
「そんなことが聞きたかったんじゃあない。俺の質問の意味は」
「あたしの一世一代の告白がそんなこと!?」
 いたいけな乙女の告白の返事としては最低だった。
 あたしが目をつり上げると、雨宮くんのポーカーフェイスは、再びぐらぐらと揺らぐ。
「言い方が悪かった。そういう意味じゃあなくて……くそっ、共犯者じゃなかったのか?」
「共犯者? 雨宮くん、いったいなんのこといってるの?」
 雨宮くんの口から飛び出た不穏な言葉に、あたしの心臓がひやりと冷える。もしかしてあたしは何かとんでもない勘違いをしているのではないだろか? あたしのなかのアラームが鋭い警戒音を鳴らしている。
 次第にぽつぽつといつの間にか降り始めた雨雲が、世界を灰色で包み始めていた。
 それに伴って、ごろごろと獰猛な猫が喉をならしているような音が聞こえてくる。
 次第に対峙した雨宮くんの顔が見えなくなり始めていたが、その時、空を割った閃光が雨宮くんの顔を照らし出した。雨宮くんの顔は苦悩に歪んでおり焦燥感に満ちている。そして、そんな雨宮くんがあたしの肩に手を延ばそうとしたところで、化学準備室は何の予告もなしに暗転した。
 一寸先は闇。
「……停電か? 春日、危ないですから動かないで下さい」
 訪れた暗闇の中で雨宮くんが舌打ちをしたのが聞こえた。
 あたしはその存在が遠ざかることに少しだけ安堵する。目の前にいる雨宮くんは何かを隠していて、それにはどうやらあたしが関わっているらしいことは解った――そして、あたしの推測が当たっているとすれば、たぶん、キーパーソンは柴崎先生だ。
 あたしが雨宮くんに言われたとおりに、窓際に体重をもたせかけて、動かないようにしていると、暗闇の中から、にゅっと延びてきた片手に右手を捕まれた。その冷たさにあたしは、ひゃっと叫び声をあげる。
「どうしましたか! 春日!」
「春日君、黙って僕に付いてきなさい」
 あたしの手をとったのは、柴崎先生だった。いきなり手をとられて、しかも至近距離でそっと囁かれて、あたしの心臓は恐怖でばくばくいっていたが、思った以上に強い力で引っ張られてあたしはつんのめる。その体を包み込みながら柴崎先生は恐らく化学準備室から脱出しようと、あたしを誘導した。
 その気配を察したのか、雨宮くんは鋭い声で叫ぶ。そして、その内容はあたしにとってちんぷんかんぷんだった。

「アリス=シバサキ! やっと尻尾をみせたな! 俺は時空課特別捜査員のクウガ=アマミヤ! 貴様には時空跳躍法違反の逮捕状がでている! これ以上、罪のない現代人を巻き込むのはやめろ!」

 アリス? 時空課特別捜査員? 時空跳躍法違反? 現代人ってあたしのこと? ねぇ、いったいぜんたい、どう言うこと?
 あたしは、呆然としながら雨宮くんのファンタジックなシャウトを聞き、柴崎先生の顔を見上げた。廊下に飛び出した柴崎先生はこちらを見ようともせず、まっすぐと前を見据えながら疾走している。
 柴崎先生がかけたアラレちゃん眼鏡だけが、蛍光灯を反射して不気味な光を放っていたのだ。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 佐東 汐