眼鏡+イケメン、それは事件の始まり




 神住(かみす)町の図書館は、普段からあまり人がいない。特に平日の夕方は極端に少なく、利用者といえば勉強熱心な学生か、読書好きくらいである。
 アキカは後者で、下校途中に立ち寄って数時間過ごす事がしばしばある。たまに学校の課題をやったりもするが、目的は九割方読書である。
 高校の図書館とは違い、新しい本が入る事は、遅いどころか殆どないと言っていい。それが利用者減少の原因である事実は否めないが、代わりに現在では入手困難となった貴重なものが見つかったりするので、見方を変えれば宝部屋だと言えなくもない。
 アキカは、この古びた図書館の雰囲気がとても好きだった。家に帰れば口うるさい母や弟妹がいて落ち着かないから、人が少ないがゆえの静寂が心地よいのだ。

 その日の利用者も極端に少なかった。天気が悪く、雨が降りそうだったからかも知れない。
 借りていた本を返そうとして下校途中に立ち寄ったのだが、アキカが来た時に室内にいたのは、老年の司書さんと男子学生がひとりだけだった。
 帰る前に少しだけのんびりして行こうかと考えたアキカは、本の返却を終え、新たな一冊を手にお気に入りの窓辺の席に座った。読み書きの時にだけ使用する眼鏡をかけて本を開き、早速読み始めた。
 それから三十分くらい経過した頃だろうか。離れた席に座っていた男子学生が帰って行ったのが見えた。司書さんと二人きりになってしばらくして、読みふけっていた本から視線を上げ、不意に外に目を向けてみると——
「あっ、雨!」
 わずかに腰を浮かせて、アキカは声を上げた。まだ雨粒が落ちて来る程度だが、時間が経てば本降りになりそうな怪しげな空模様だ。大慌てで本を閉じ、眼鏡を外してケースにしまって立ち上がる。自転車を飛ばして家まで十分、それまで待ってくれ! と念じながら本を棚に戻し、急ぎ足で外へ向かった。
 駐輪場まで一気に走り、鞄に手を突っ込んで自転車の鍵を探すも、なかなか掴めない。苛立ちを覚えながら鞄の口を開いて探っていると、ある事実が発覚した。
「眼鏡がないっ!」
 外してケースに入れて……うっかりしまい忘れたらしい。常にかけているわけではないので予備はなく、しかもあれは先月の誕生日に作ってもらった新品で、ちょっとワケありな代物である。
 近所に新しく出来た店が【祝・開店! 先着五名様にオリジナルフレームプレゼント!】なるキャンペーンをやっており、まさに開店のその日に朝も早くから並ぶという所業を成し遂げた末にゲットした眼鏡なのだ。しかも少々親に無理を言って頼み込んだというオマケ付きなため、忘れたなんて知られたらカミナリが落ちること間違いなしだ。
 小さな花柄をあしらったフレームはお気に入りで、周囲の評判もすこぶる良いため、万が一に紛失などしたら相当ショックである。雨のことは二の次で、アキカは再び図書館に向かって疾走した。転がり込むようにして室内に飛び込み、窓辺の席へと向かう。
 司書さんの姿は見当たらなかった。恐らく奥の事務室に引っ込んでいるのだろう——考えて、窓辺の席に視線を向けて。
 アキカはぎくりとして足を止めた。さっきまで自分が座っていた席に、男がいたのだ。男は読書に集中しているのか、アキカの存在にはまだ気付いていないようだ。
 まず目についたのが、周囲の風景に不釣り合いな金髪だった。それも脱色や染色といった人工の色ではなく、まさに北欧系の外国人のように自然な色合いである。
 一瞬だけ見とれていたアキカだが……ある事実に気付き、目を見張った。その金髪男がかけているのが——自分の眼鏡だったからだ。
「ちょ、ちょっとすみません!」
 慌てて声をかけると、金髪男はようやく顔を上げた。
 その顔を見たアキカの乙女心は、不覚にも跳ね上がってしまう。年齢は少し上くらいだろうか。瞳は青みがかった灰色、そして例にもれず……ハリウッド俳優もビックリなほどのイケメンだったのだ。組んだ足はその長さを持て余しているようにも見え、立ち上がれば間違いなく長身であろう。なんとも麗しい男であった。
 いやしかし、見とれている場合ではない。男が顔を上げたことで、眼鏡が自分のものであるとハッキリ確認できたのだ。あの小さな花柄入りのフレームは間違いない。
「あ、あの! それ、私の眼鏡なんですけどっ」
 というか、この人はなぜ勝手に他人の眼鏡を装着しているのか。全くイケメンとはいえ図々しいというか、かなり怪しさ炸裂である。
 当のイケメ……いや金髪男は、アキカの勢いを怪訝に思ったらしく、眉間にしわを寄せていた。そんな素振りさえも麗しい男は様になるのが心底憎い。が、うっかり見とれてしまったなんて事実は決して認めるものか。
「……何言ってんの? これ、俺のだけど」
 男は、気だるげなのんびり口調で言いやがった。
 しかも、エライ流暢な日本語で。
「あ、あんたこそ何言ってんのよ! それ、ここに置き忘れてあったやつでしょ! ケースはどこにやったのよっ」
「……知らない」
 よくもぬけぬけと! アキカは怒りに奮えた。思わず口調がきつくなり、言葉も荒くなってしまっていたがこの際どうでもいい。
 大体このイケ……金髪男は何処からやって来た外人だろうか。外に駆け出した時には誰ともすれ違わなかったはずだ。
「とにかく、返しなさいよっ」
「……返すも何も、俺のだし」
 男が花柄フレームなんて、鼻で笑ってしまいそうだった。流暢な日本語に加え、独特の間とまったり感漂う喋り方が憎らしさを倍増させてくれていた。
「とにかく、それ私の眼鏡! 返してよっ」
 一向に引き下がらないアキカにうんざりしたのか、金髪男はあからさまにウザそうな顔で溜め息を吐いた。
「……そんなに言うなら、かけてみればわかるよ」
 言いながら、男が眼鏡を差し出した。
 それをひったくり、早速装着して……アキカはすぐに異変に気付く。
「強っ!」
 視界がぐにゃりと歪み、すぐさま眼鏡を外した。自分の目には強過ぎる。
 アキカは驚愕の表情で眼鏡を見つめていた。フレームは間違なく自分のもの。けれどレンズはまるで別物。この短時間でレンズだけを交換するなんて不可能だ。一体どんなマジックだ。
「……だから言ったのに」
 早く返してよと言わんばかりに手を差し出され、アキカは条件反射で眼鏡を渡してしまった。受け取った眼鏡を再び、難なく装着し、金髪男は立ち上がりながら面倒臭そうに溜め息を零す。
「……納得した?」
 できるわけないでしょ! という心の叫びは声にはならず。
 去って行く男の背中を呆然と見送るしかなかった。

 図書館閉館時まで、それこそゴミ箱をひっくり返して探したが、眼鏡どころかケースさえも見つからなかった。司書さんに聞いてみてもわからず、仕方なく帰る事にしたのだが、外に出た頃には雨足はかなり強まっており、結局全身ずぶ濡れになって帰宅したのだ。
「有り得ないんだけどっ!」
 びしょ濡れの髪をタオルで拭きつつ自室のドアを勢いよく閉めたのち、アキカは不満を吐き出した。全くあの金髪男は何者なのか。何処から現れたのか。そもそもあんな流暢に日本語を話す奴が外人であるわけがない。きっとどこかのマジシャンに違いない。というか、うっかり名前やらを聞きはぐってしまったではないか。
 何より問題なのが、眼鏡が無くなってしまったことで、どうやって親に言い訳したらいいか……本気で最悪だ。

 しかし、最悪な事態はこれだけで終わらなかったのだ。

 すっかり冷えてしまった身体を温めるため、さっさと風呂に入り、アキカは部屋に戻った。
 明日は土曜で休みだし、予定もないし遊びにでも行こうかなあと考え、親友のハルミに電話しようとテーブルに置いた携帯電話に視線を向ける。風呂に入っている間に着信とメールがあったらしく、“不在着信”を知らせる黄色と“新着メールあり”を知らせる赤のランプが交互に点滅していた。
「おっ、ハルミかな?」
 さすがは親友、ナイスタイミングだ! などと喜びつつ、アキカは携帯を手に取り、画面を確認して……驚愕した。
「何コレっ!」
 新着メールが三十通、不在着信が二十件、ほんの三十分の間に残っていたのだ。
 しかも奇妙な事に、メールは件名や本文どころか、送信者名も真っ白。さらに着信も発信者名が空白である。非通知が可愛く思えるほど、見事に全てが真っ白なのだ。
「やだ、なにこれ……きもい!」
 温まったはずの身体に鳥肌が立った。誰かのいたずらか、それとも何か大元の会社のシステムミスとか、そういう関係なのだろうか。様々な憶測が一瞬にして過るも、とにかく一言、気持ちが悪い。
 とりあえずこの恐怖を誰かに伝えたくなり、親友ハルミに電話をしてみようと思った矢先——メール受信のメロディが鳴り響いた。
 ドキリとしてほんのり青ざめつつ、アキカはその新着メールを開こうとした。その瞬間に今度は着信メロディが流れ、再び心臓が跳ね上がる。ディスプレイに表示されるはずの発信者名は、やっぱり空白だった。
 メールと着信は数通、数件と続き、さすがに気持ち悪いを通り越して恐ろしくなったアキカは、親に相談してみようと考え、携帯を手に部屋を出た。
 その時だった。
 再び着信メロディが流れ、アキカはぎくりとして立ち止まった。もう怖くて携帯を見られずにいた。
 先程から続く奇妙な着信は、ほんの数秒ですぐに終わっていた。けれど今度は違う。大好きなアーティストのメロディは、切れる気配を見せずに流れ続けた。
 今度こそハルミかもしれない……震える手を持ち上げ、サブディスプレイに視線を落としてみる。そこに表示されていたのは親友の名ではなく、“トーマ”という文字だった。
 ——だれ?
 トーマなどという名の知人はいない。それ以前にアドレスに登録していないし、未登録の場合は番号が表示されるはずだ。
 無視しようとしたが、どうしてか着信音が鳴り止まず、留守電にも切り替わらずで延々続いている。まるで出るまで許されないような気がして、アキカは恐る恐る携帯を開き、ボタンを押した。
「……はい」
 震える声でようやっとで告げると。

『……やっと出た』

 まさかとは思ったが。
 電話の向こうから聞こえる声に、アキカは聞き覚えがあった。
 この独特の間と、まったり感を漂わせる声は——図書館で会った、あのイケメン……もとい金髪男である。
「あんた、図書館の!」
『……ああ、覚えてた』
 忘れるわけないだろうが! とアキカは拳を握り締めて憤怒した。
 そして、もしや……という考えが脳裏をよぎった。
「さっきのもあんたでしょ! キモイからやめてよ! ケーサツに通報するからね!」
『……何のこと?』
「しらばっくれる気? メールとか電話とか、しつこく何十通も何十件もしてきたじゃない!」
 いきり立ちながら、アキカは己の声が震えていることに気付いた。感情の高ぶりと共に目には涙が滲み、今にも零れそうになる。なんで、こんな見ず知らずの男に嫌がらせされなきゃならないのか。眼鏡も返して欲しい。
 アキカの勢いに圧されたのか、それとも震える声で微妙な心情を察したのか、男はしばし押し黙った。そうして数秒の後。
『……困ってるなら、助けてあげようか』
 流暢すぎる日本語が、はっきりとそう言った。

 全てが謎に包まれていたものの、アキカは眼鏡を返して欲しいのと、そして嫌がらせに対する文句を言ってやりたい一心で、トーマと名乗る例の金髪男と会う約束をした。もちろん、一度顔を合わせただけの、見ず知らずの男と二人きりで会うなんて怖かったからハルミに同行を願おうと思った。けれど向こうの指定が“二人きり”だったため、仕方なく一人で行く事に決めた。
 指定された日時は、翌日土曜の午後三時。場所は、例の図書館だった。三時といえば、土曜日の閉館時間の三十分前である。
 とりあえず場所が図書館であったため、ほんのり安心した。きっと司書さんがいるだろうし、他に利用者がいるかも知れないので、その分危険は減少するからだ。

 そして日付変わって、現在土曜午後二時五十五分。
 アキカは図書館の前に立っていた。
 指定された時刻まで、あと五分。別にデートするわけじゃあるまいし、何で五分前行動してるんだ! と己に突っ込みを入れつつ、ドキドキと鳴りやまない心臓を落ち着けながら、意を決して室内に足を踏み入れるのだった。

《続》


表紙 / 次項
作者 / 水那月 九詩