先日の事件(注:訴因は眼鏡 参照)で、僕は眼鏡を壊されてしまった。
 仕方がないので前に使っていた眼鏡を引っ張り出して掛けているのだが、当然度が合わない。微妙にぼやけた視界は不快そのものだ。眉間に皺が寄る。
 療養期間なのか謹慎中なのか微妙な兄さんは、朝御飯を食べていた。ドテっ腹に穴が開いたわりに旺盛な食欲だけど、良いんだろうか。内臓を傷つけているなら食事制限が掛かりそうなものだけど。まぁ死にそうにないので放置しておく。
「休みの割に早起きだね」
「あぁ。学校に行くんだよ」
「は…?学校って?」
「我らが酒乃高校だよ。お前、この間学校の連中と殴りあったんだって?保護者にお呼び出しが掛かりましたー」
 …保護者?兄さんが?
 何だろう…この微妙な屈辱感。
「何で兄さんが…」
「母さんは福島のばあ様のところに行ってるだろうが。親父は相も変わらずアメリカ。――俺しか居ないだろ?はは、久し振りだなぁ高校」
 残念なことに、兄さんの出身高校と、僕の高校は同じだった。
 未だに兄の残した爪痕が彼方此方に残る、僕の学校。



無愛嬌な弟です




 教師歴はそこそこ長いが、生徒とのこういう形での再会は初めてだった。
 ――かつての教え子が、生徒の保護者としてやって来たのだ。
 かつての教え子という頭痛の種。芽吹いて開花したようだが、一体どんな人生を送っているのやら。
 今じゃ学校入るのにこんな札が要るんですね、と榊糺は感心したふうに言う。
 糺が首からぶら提げた札には来校者と書かれている。これを付けていない部外者は不審者であると一発で分かる仕組みだ。数年で学校の管理体制もかなり変わった。それだけ社会環境が変わったということでもある。
 数年の時を経た糺は勿論成長していた。あの頃よりも背が伸び、骨格がしっかりしている。身に着けた背広とネクタイも着慣れていた。…真っ当な勤め人に見えないのが非常に残念であるが。
「俺が高三の時の体育祭でつけた鉢巻、まだ取ってなかったんですね」
 暢気にやって来た、保護者と名乗るかつての問題児は相変わらずの調子で笑う。
 校舎とよりも高い銀杏の木、その頂点近いところで今なお揺れるリボン。付けられた当初は鮮やかな赤だったが、今ではかなり色褪せている。
「あのな、あの高さを登る馬鹿なんざお前ぐらいだ」
「ははは、何なら外して帰りましょうか?」
「これ以上問題起こすな馬鹿」
 このやり取り…何だか昔やったような気がする。それだけ進歩がないということかもしれない。お互いに。
 糺はもそもそと居住まいを正すとすっと頭を下げる。
「今回の沙汰の件…ご迷惑をおかけしました――と、とりあえず言っておきます」
「心の底から言えよ」
「我が身にも覚えがあるので言えません」
 な ん だ こ の 保 護 者 。
 もう少し悪びれろ。
「大体、沙汰が病院送りにした連中、相当前科があるらしいですね」
 眼鏡の奥、糺の目がすっと底光る。表情の変化だけでここまで凄みが利く。年を重ねた分、威圧感が増していた。あの頃は、上から叩き潰す感じだったが、今は足場から崩壊させられる感じだ。
「裁判になっても和解してる…訴えても直ぐ取り下げが掛かる…被害者に裏工作仕掛けているようだし」
「詳しいな」
「まぁ本職ですから」
「…お前今何やってるんだ」
「おまわりさんです」


 本日二度目の衝撃が、頭を襲った。



 ――兄弟が帰って行く後ろ姿を見送った。
 結局大した話はしなかった。
 昔話に花を咲かせて終わった感がある。
 ――沙汰は訳無く人様と喧嘩しませんよ。
 ――今回の件も、その餓鬼どもが素直に謝ってたら何もしなかったでしょうしね。
 ――無愛嬌な弟ですが、よろしくお願いします。
 いつになく兄の顔をした糺はそういって眉尻を下げた。実は糺が言ったことは、糺と沙汰の父親が言ったことでもある。――訳無く人様と喧嘩はしない――頭が別の意味で悪い息子だが、よろしくお願いします――と。本当に彼らは兄弟で、家族だ。
 その後、授業を終えた沙汰を交えて三人で話をしたが、三者面談の形を取っているに全く実りがない会話になった。沙汰の様子からして相変わらず糺は家族の認識を超えた生き方をしているらしい。糺の職業を知った時の沙汰の話など、もうどう反応して良いやら分からない。
 …本当に、人間どう変わっていくのか、生きていくのか想像がつかない。可能性というのは色々な方向に開けているのだと痛感した。
 楽しいことを追求していた糺は警察官になった。
 静かに暮らすことを望んでいるという沙汰はどうなるだろうか。


 人間は面白いのだ。
 あの家族は面白い。…事後処理を考えなければ。

しかしあいつらが就職ってのも何だか予想外なんだが、結婚して子供ってなると更に想像が出来ないな…と、二人を知る古参の同僚と笑った。
 楽しい未来だ。
 予想外の吉報があることを、待っている。

 だから教師は辞められない。

《了》


※ この作品はイラストとセットになっています。

前項
作者 / 今野 些慈