一話 / 兄を尋ねて三千里


 千夜理はその日、いつもと変わらない休日をおくっていた。
 朝は腰に手を当ててヤクルトをぐびぐびと男らしく一気飲み。
 『近来稀に見る月の接近!』という三面記事もふーんなんて思いながら流し読みした。
 愛犬チロルの散歩も欠伸をしながらもこなして、昼にはコンビニでお菓子をたんまりと買い込む。そして漫画を見ながらごろごろするのが、最高に贅沢な休日の過ごし方だと千夜理は思っていた。
 その当たり前な幸せが無残にもぶっ壊されるきっかけは、コンビニからの帰り道に起こる。そう、千夜理の視線が向こうから歩いてきた男に惹きつけられたことからだ。
 容姿は銀髪に赤い眼と平均的日本人からぶっとんでいる。つまり目立つ。周りの風景から浮きに浮きまくっていて下手くそな合成写真みたいだ。そして顔の作りはまるでハリウッドスターのように整っていて、氷のような美貌はまさにこんな感じだろうと思わされるぐらい綺麗だった。
 ――しかし、その男が纏っている服装で千夜理の評価は百八十度ひっくりかえった。そう。ちゃぶ台をひっくり返す頑固親父も顔負けな勢いで。
 真っ黒な布はずるずると長くポンチョのようだし、その上彼は裸足だった。ふらふら、うろうろと、酔っ払っているのか、彷徨っているかのような怪しげな足取り。
 スリーストライクアウツだ。
 「びじゅあるけいの変質者」
 と頭の中で警戒音が鳴り響き、君子危うきに近寄らずと千夜理は踵を返そうとした。そのタイミングがもうちょっとでも早ければよかったのだろう。しかし、そうは問屋が卸さない。
 その男は千夜理が逃げ出す前に、こちらに赤い双眸を向けた――瞬間、唯一誇るべきであった氷のような美貌はどろどろに溶けて崩れる。
 母を訪ねて三千里。
 その表情は少年が母に逢えた時と酷似していた。
 そして、その外人はあろうことか、長い腕をこれでもかというほど広げて千夜理に飛び掛ってきたのである。

 勿論、千夜理は逃げた。
 精一杯に逃げまくった。むしろ音速の貴公子になりたかった。
 それでも決して長いとはいえないコンパスでは無駄な努力というもの。千夜理はものの十秒でがっちりと捕獲されてしまったのだ。蛇足ではあるが、千夜理の体育の成績は五段階中五。つまりは男は驚くべき速さで千夜理に追いついたというわけだ。



「あの、とりあえず離してもらえませんか?」
 身動きが取れなくなってからきっかり五分は経っただろうか。叫び声をあげようと吸った息は、男の「兄上発言」でへなへなと抜けきっていた。自分の体にべったりと張り付いている男を刺激しないように、千夜理はなるべく穏やかな口調でそう諭す。男は千夜理の体をきゅうきゅうと抱きしめながら、首をふるふると横に振った。
「嫌ですっ! もう、兄上がいってしまわれるのは!」
「――だからぁ人違いですってば。いい加減にしないと警察呼びますよ」
 千夜理がうんざりとしながらそう言い放つと、男はようやく千夜理の体を解放する。しかし男は「警察」ではなく、千夜理の声に混じる不機嫌さに反応したらしい。ざっと音が聞こえるかと錯覚するぐらいに勢いよく血の気が引き、蒼い顔で男はぶるぶると全身を震わせている。そして、色を無くした顔の中心で爛々と光る赤い瞳からは、どっと勢いよく心の汗が溢れ出したのだ。
 そう。
 男は有り得ないほど豪快に泣き出した。千夜理の目の前で。

「あっ、兄上に捨てられたら!私はっ! 私はどうしたいいんですかぁ! どうかっ、どうがっ、私を見捨てないで下さいぃぃぃ! あ゛に゛うぇぇぇぇ」

 目の前で悲劇のヒロインよろしく泣き崩れるいい年した大人を前に一体、どうしろと。
 自分に突き刺さるご近所さんの訝しげな視線に、千夜理は曖昧なスマイルを浮かべながら、心の中では頭を抱えていたのだ。



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