十話 / ツッコミ正社員募集中


 大崎美弥という人物は恐ろしいほどの聞き上手で、兄に対するルーファウスの偏執的といえるほどの熱いパッションにあろうことか理解を示した。
 それどころか、兄と自分の膠着状態にあるこの関係を打開すべく、手を貸すと言うではないか。生前もあの美貌とカリスマ的魅力でベリアルには多くの信奉者がいたが、ルーファウスに近づくのは皆、兄を陥れるためか、腐っても王族である自分に恩を売り甘い汁を啜ろうという野心を持ったものだけだった。
 ――なにか裏でもあるのではないか。
 身に染み付いた懐疑心が一瞬、首をもたげたが、美弥の悪意を微塵も感じさせない視線を前にルーファウスは、兄と友人だという言葉を初めて完全に信じることができたのだ。


 そうして意気投合した美弥は鼻血が止まらない状態のルーファウスを心配し、近くだからと自分の家で応急処置を施した挙句、ルーファウスに"けぇき"と呼ばれるものを振舞った。その警戒心の無さにルーファウスは半ば呆れたが、魔界には存在していない"けぇき"というものを食べた瞬間、その他もろもろの思考は吹っ飛ぶ。初めて口にしたそれはルーファウスが涙ぐみながら感動に打ち震えるほどの美味しさだった。そして美弥の母親だという人間に勧められるがまま、ルーファウスは"けぇき"を四個平らげてしまったのだ。


 最後の塊を租借し、口の周りについた生クリームを名残惜しげに舐め取ってからルーファウスは決然とした態度で口を開く。それはまるで死地に赴く兵士のような厳しい表情だった。
「時に美弥殿、明日のニッチョクの戦略を練りたいのだが」
「……せんりゃく?」
 美弥が目を瞬かせながら見つめ返すと、くわっとルーファウスは瞳孔をかっぴろげて拳を握り力説する。
「美弥殿ッ! 忘れたとは言わせぬぞっ! 敬愛する兄上の手となり足となり、誠心誠意、粉骨砕身してニッチョクという責務の助力となると、私は先刻誓ったばかりだっ! そして、出来得ることならば兄上に感謝していただいて、それからお褒めの言葉を賜るという壮大な目標は、完璧なる戦略なしには成し遂げられまい……!」
 喋っているうちに感極まったのか、くぐもった唸り声をあげて俯いたルーファウスに、美弥はさっとティッシュボックスを差し出す。カーペットが血まみれになるのも困るが、流石にこれ以上出血したら死ぬのではないか、と美弥は本気で心配し始めた。
 礼を述べながらルーファウスはティッシュを受け取り、先程、美弥の母親に「これが由緒正しい鼻血の止め方なのよ」と教えられた通り丸め、一切の躊躇なしに血が出ているところに捻じ込む。
 端整な美形の鼻の穴からにょっきりと生えている白いティッシュ。
 その上、少しづつ赤い液体が染み出している絵面はシュールすぎたが、残念なことにツッコミ役が足りていない。
「あの、ところでルーファウス君は、日直ってどんなことするか知ってる?」
 至極根本的な質問をした美弥だったが、ルーファウスの愕然とした表情でその答えを悟ったようだった。縋られる様な視線を向けるルーファウスに美弥は戸惑いながらも説明する。
「えっと簡単に言えば、その日、一日、クラスのみんなをまとめたり先生の手伝いをしたりするんだけど……」
 この世界の常識というものが一切抜け落ちているルーファウスの絶望を宿した目が徐々に据わりはじめたところで美弥は言葉に詰まったが、ふと、何かを思い出したかのように顔を輝かせると指を鳴らす。そして、ルーファウスに少し待つように言うと、美弥は慌てながら階段を駆け上がっていった。
 数分後、重い足取りでリビングへと戻ってきた美弥がその両手に抱えているのはルーファウスから見て、書物のようだった。若い人間の女を模したのだろうか、デフォルメされたような少女が表紙には描いてある。

「これを読んでもらえたら日直の仕事とか、どんな風にちーちゃんを助ければいいのか、少しは参考になると思うんだけど」

 美弥が持ってきたのは数年前に大ヒットした少女マンガだった。
 ストーリーは王道かつベタな展開が目白押しの学園恋愛漫画で、初々しい二人の関係に根強い人気があったのだが、それをルーファウスが知る筈がない。
 ここに千夜理がいれば、それって参考になるの? と冷めたつっこみを入れていただろうが、人材不足は深刻である。

「これは……ニッチョクについての書物、なのか?」
 書の巻数はゆうに十を超えていた。
 そこまで詳しい手引きが必要だとすると、ニッチョクはどれほどの激務なのだろう。いくら生まれ変わる以前の記憶がないとはいえ、そんな肉体的負担を兄に課すとはなんたる蛮行! そして生前から誇り高かった兄を牛馬のようにこき使うなどという暴挙は万死に値する――これは到底、許されることではあるまい。
 澱んだ目には凶悪な光を宿し、ふつふつとした殺気を発しはじめたルーファウスであったが、人の怒気に鈍い美弥はのほほんと訂正した。
「あっ、違うよ! 話の中に日直のシーンが出てくるの! これは恋愛漫画なんだけど……やっぱり男の子だから読まないのかなぁ」

 ――この世界には恋愛の啓蒙書があるのか。
 特殊な環境で育ってきたルーファウスにとって書とは、読むことにより様々な知識を得る為のもので、恋愛小説という大衆向けの娯楽的要素が強い書物が存在することすら知らなかったし、漫画という異世界の文化など、もはや想像の範囲外である。
 ルーファウスは差し出された書を受け取ると、恐々と項をめくり視線を落とす。そこでは表紙に描かれていた少女が嬉しそうに頬を染めていた。
 文字が極端に少なく、それに反して絵が多いのは識字率の低さを補っているのだろうか? しかし、兄が通っているガッコウというところでは皆、流暢に読み書きしていたから、この世界の教育水準は随分と高いのだと認識していたのだが――。
 しかも、ルーファウスが手にした書物は不可解なことに項の全面に絵が書かれている。ルーファウスが顰め面をしながら視線を右往左往させていると、美弥は右から左に読むんだよ、と笑いながら説明した。
「……私が読むのは些か困難なようだが」
 戸惑いながらもそう言ったルーファウスに、美弥はそっかぁと少し残念そうな表情をしたが、無理強いする気はさらさらないらしい。
「これ片思いの主人公が好きな人に振りむいてもらえるように頑張るっていう話だったから、ちょっとルーファウス君とちーちゃんみたいだなって思ったんだけど……じゃあ、違う方法を考えなきゃ――」
「是非、貸して頂きたいッッ!」
 がしり、と力いっぱい書物を握り締めながらルーファウスは即答する。美弥は少し吃驚していたが、それならまだ続きがあるからもってくるね、とルーファウスに背を向けた。リビングから出て行きかけた美弥をルーファウスは反射的に呼び止めた。首を傾げながら自分の言葉を待つ美弥にルーファウスは、戸惑いがちに口を開く。
「――今日までの私の非礼を許して頂きたい。そして、美弥殿の協力に深く感謝する」
 美弥は愁傷なルーファウスの態度と言葉に目を丸くしたが、その一瞬後には嬉しそうに笑いながら頷いた。
「ううん。私も友達同士が仲良くしてくれるの嬉しいしねっ!」
 美弥に友達だと言われたルーファウスははっと息を呑み、恥じらいながらも口ごもる。

「申し上げにくいのだが……兄上のこと、これからも美弥殿に相談していいだろうか?」

 顔をやや俯かせ、じいっと美弥の様子を伺うルーファウスを前に、美弥は妙な高揚感と感慨を感じていた。
 昔から色々な友達の相談に乗っていたが、こんなに全幅の信頼を寄せ、自分を頼ってくれた子がいただろうか。最初はとっつきにくくて変わっているという印象だったが、さっきのお礼の言葉を聞いて、美弥の中のルーファウスの評価は一変した。
 ちょっと不器用なだけで実はすごく一生懸命な良い子、しかも仲良くしたい意中の相手が自分の親友である千夜理だというのだから余計に力が入る。
 最近の失恋でなんとなく人の相談にのることを敬遠していたが、捨てられた子犬のようなルーファウスを前にして、美弥のお人よしの血は一気に沸き立った。
 ――私がなんとかしてあげなきゃ!
 そう決心して美弥はきゅっと口を引き結んだのだった。


 そうして、千夜理がまったく感知も想像もできないところで、
 地上に舞い降りたお人よしキューピッド大崎美弥と兄上オーマイソウルのブラコンルーファウスという最凶のボケボケ暴走コンビが成立してしまったわけである。




 既に日は暮れ、ルーファウスは浮き立つような気分で玄関の扉を開ける。
 今日、美弥とともに過ごした時間はルーファウスにとって非常に有意義なものだった。美弥はいつでもルーファウスの相談に乗ると約束し、連絡先として"けいたいでんわ"の"ばんごう"と"あどれす"というものを教えてくれた。どうやら"けいたいでんわ"は小さな通信機械で、"ばんごう"や"あどれす"は個人を識別するためのものらしい。この世界の人間は魔術を使えないが、機械というものがその代わりを果たし、人々の生活の細部に入り込んでいるようだ。
 なるほど、美弥から話を聞いて、直ぐに幻術を用いて手に入れた"携帯電話"は軽く、少しでも力を入れたら破壊してしまいそうなほどに小さい。更に驚嘆すべき点は、このニホンという国のほぼ全域で、相手の識別番号を知っていれば時を選ばず会話できるというのだ。
 同時についてきた手引書には不可解な専門用語が多かったが、それも美弥の懇切丁寧な説明でなんとか理解することができた。流石は兄上のご学友、寛容なお心といいよく出来たお方である、とルーファウスは賞賛する。
 そうして、ぎこちない手つきながらも設定をし、美弥とアドレス交換をしてから、心からの感謝を述べ、大量の漫画本を抱えてルーファウスは帰路に着いたのだった。

「――只今、戻りました!」

 声を張り上げ帰宅を告げれば、いつもは理子が優しい笑顔で迎えてくれていた。
 しかし、そんなルーファウスの予想を遥かに裏切る人物が目に飛び込んでくる。
 そう、それはルーファウスが心の底から敬愛している兄――千夜理だったのである。




 あにあにあにあああああにあに。
 顔を赤くしたり青くしながら言葉にならない音を発するルーファウスを前に、千夜理は不機嫌な表情でさっとその姿を一瞥した。
 服装は朝出て行ったときのままの学生服だし、小脇には何か大きな紙袋を抱えているのが疑問だが、傷ひとつなく五体満足である――鼻に突き刺さっている赤く染まったティッシュは全力でスルーだ。突っ込んだら負けである。
 それだけを確認すると、千夜理は無言で踵を返した。
「ああああああああ、あああああにうえ! 兄上? おおお、怒ってらっしゃるのですか? 何かわたくしが兄上の気に触るような事を!?」
 ガタン、びたん、ずるぅり、という一連の音が千夜理の背後から迫ってくる。
 嫌々振り返れば、足元にナメクジのように這い蹲るルーファウスが転がっている。
 その恨めしげなアングルといい、顔の穴という穴から水をこぼし許しを請う阿鼻叫喚の表情といい――オマエはB級ホラー映画の殺されて怨霊となったキャラクターか。
 しかし、ひたりと湿った掌が自分の足首を掴んだ瞬間、千夜理の問答無用の逆足ドライブシュートが炸裂。軽く衝撃で浮き上がった身体にはっと我に返り、千夜理はルーファウスの安否を気遣ったが、当の変態といえば、頬を紅潮させ芋虫が如く喜びに身体をよじっている。
 アッ、あにうえぇ……もっと……という喘ぎの吐息がむき出しの踝に当たって、千夜理は全身にぞぞっと鳥肌が立った。
 ハァハァ、喘ぐなッッ!!!!! キモイ。もう、キモイっていうよかキショイ!!!
 自分が無視した所為で落ち込んで、そこらへんの道路で泣き崩れてるところを車に跳ねられてるんじゃないか……その衝撃で川に落ちて、太平洋まで流されてるんじゃないか、とか荒唐無稽なことまで考えてたのに――少しでもこのド変態を心配した自分が世界で一番のアホだった。
 がっちりと足首を掴み外れようとしない魔の手から逃れようと千夜理は、がすがすと変態の背中を踏みつけたが、恐ろしいほどのうたれ強さを誇るドMを余計に喜ばせているだけである。兄の愛情を久しぶりにその身に受けることのできたルーファウスは感激にむせび泣き、涙と鼻水で顔中がべしゃべしゃになっている。
「ほんっといいっ加減に離せっ! このっ変態がああああああ!」
「ばびっ! すびばせんあにうえっっ!」
 ある程度、千夜理の洗礼を受けて満足したのだろうか、あまりにも唐突にルーファウスは千夜理の足首を開放した。その聞き分けのよさに拍子抜け、なんとなく殴る蹴るの暴行をしていた手前、そのまま放置するわけにもいかず、千夜理は決まりが悪く咳払いをする。
 そして、ゆっくりと立ち上がったルーファウスの目前に、千夜理は風呂上りで首に掛けていたタオルを突き出した。

「……あに、うえ?」

 自分よりも高い位置で首を傾げたルーファウスの紅の瞳が、じっと千夜理を捕らえる。
 ――いつもは好きなだけ人の行動をポジティブに誤解するくせに、こんな時だけ鈍いだなんて態とじゃないのか。
 照れくささも相まって、千夜理は思いっきり顰め面を作ると、タオルを握った拳をルーファウスの胸に押し付ける。見た目よりも堅い胸板がびくりと震えるのが千夜理の指に伝わった。

「顔――拭けば」

 視線を逸らしながら千夜理はいつも以上にぶっきらぼうに言う。
 この変態のことだからどうせ涙を流しながら受け取るはずだと思い込んでいたが、当のルーファウスといえば、微動だにせずうんともすんとも言わない――なん、か調子が狂う。
 妙な沈黙に耐え切れず千夜理が言葉を発しようとした刹那、ぽたり、と何か生暖かい液体のようなものが額を濡らした。まさか雨漏りでもしているのだろうかと不審に思いながらもそれを拭うと視界に飛び込んでくるのは――鮮血の赤。
 そして、反射的に顔を上げた千夜理の顔面に、あろうことかルーファウスは派手に鼻血をぶちまけやがったのだ。

 千夜理は大きく振りかぶったタオルで変態の顔面を強打! 強打! 強打!
 ターミネーターの如く冷酷に相手をぶちのめし、金輪際、優しくしてなるものか、と千夜理は堅く心に決めたのであった。



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