十一話 / 幸子様にお願いっ☆


 ぱらりぱらり、と室内には紙がめくられる音が響いていた。
 その音は時折、早くなったり、遅くなったり、そしてそれがぴたりと止まったときは鼻を啜る音が混じる。
 時刻は深夜丑三つ時、狭い部屋の中で、ルーファウスは布団の上に正座しながら溢れ出る鼻水と涙が零れてしまわないように上を向いた。天井には人工的な光を放つ蛍光灯が輝き、煌々とルーファウスを照らし続けている。その厳粛かつ、清廉な様は彼が殉教者であるかのような雰囲気を醸し出していた。

「嗚呼……幸子……なんと不憫であることか……!」

 くっ、と唇を噛み締め、ルーファウスは言葉を詰まらせ、ふるりと感極まったように体を振るわせる。
 ルーファウスの手元にあるのは美弥に借りた恋愛漫画。
 彼は既に三回、これを読破していたが、台詞をすべて記憶し始めた四回目となろうとも、ルーファウスは主人公の幸子と一緒に挫け、悲しみ、そしてヒーローの一挙一動に一喜一憂していた。ちなみに一番のお気に入りシーンは、幸子が苛められ泣いていたところに颯爽と太郎が現れたところで、ルーファウスの脳内で太郎はそっくりそのままベリアルに描きかえられている。
 体格のいい男が部屋で一人正座で少女漫画を読み、吐息を荒くしながら、涙目で体をくねらせている――どんなホラー映画よりも怖い。

 そうして、日直のシーンを集中的に三十八回読み返したところでルーファウスは詰めていた息を吐き出した。ふと視線を落とすと、さっき千夜理がルーファウスに差し出してくれたタオルがたたんでおいてある。それは床の血だまりを拭いたせいか、ルーファウスの血を吸い込んでどす黒くなっていた。
 高貴なる兄上のかんばせに鼻血、という許されざる粗相をした自分を兄上は軽いお仕置きで許して下さった――流石、兄上、その寛大さも変わっていらっしゃらない! 嗚呼! 兄上!
 転生した兄上は以前の記憶を取り戻す様子も見せず、最近ではルーファウスの存在さえも黙殺するようになっていた。それにルーファウスは身を切られるような痛みを感じていたが、先刻のことをよく考えてみると、兄上が玄関で佇んでいらっしゃったのは、もしかして自分のことを気に掛けてくれたのではないか、とルーファウスは思う。
 その幸せすぎる妄想でルーファウスは気絶しそうになったが、自分の腕に尖った爪をつきたてることでなんとか意識を保った。景気よく鮮血があふれ出したが、ルーファウスの中ではそれは痒みほどにも入っていない。
「確かに美弥殿が仰った様に、今が好機であることは確かのようだ……ここで兄上の助力となり、誠心誠意仕えることで、自分のことを見ていただけるようになったら……!」
 明日のことを考えるととうてい眠れる筈もなかった。
 自分がどのように千夜理に振る舞うか、というシュミレーションも何万回と頭の中で繰り返したし、その他に予想されうるありとあらゆる外敵から兄を守る準備は出来ている。ほぼ完璧と言ってしまっても問題はない――だが。
「何か――他にも兄上に喜んで頂く術は無いものか……」
 生前の兄が喜んでいた記憶を搾り出してみようとしてみたが、脳味噌をひっくり返してみても出てくるのは、女、酒、殺戮などの物騒な単語のみである。兄は生け捕った魔獣の肝の酢漬けなんてものも好んで食べていたが、流石に脆弱な人間ともなると、その趣向は変わっている確率が高いし、明日には到底間に合いそうも無い。
 どうすべきか、と頭を悩ませていれば、ふと少女漫画が目に入る。
 その瞬間、ルーファウスは電撃が落ちたかのような衝撃を受けた――そうだ! この手があった!

「幸子、どうか私に力を分けてくれ――」

 戦友を見るかのごとく決然とした目をしたルーファウスは、静かに立ち上がった。



 早朝、いつものように千夜理は秀をひきずりながら、そして魑魅魍魎のような表情のルーファウスにへばりつかれて登校してきたが、それを迎えた美弥の様子が今日は少し違っていた。
 美弥は千夜理と秀に朗らかな声で挨拶をすると、その視線をルーファウスに向ける。

「ルーファウス君、おはよう」
「美弥殿、おはようございます」

 美弥がにっこりと柔和な笑みでルーファウスに挨拶をし、ルーファウスもそれに答えたものだから、千夜理は傍らに立っていたルーファウスの襟首を衝動的に掴み上げた。
「――こんっの変態……美弥に変な術かけたわね!」
 歯をぎりぎりと噛み合わせながら押し殺した声で千夜理は唸ったが、当のルーファウスは恍惚の表情で天を仰ぎながら、うふんもっとあはんと言っている。キモイ上に絶望的に話が通じない。
 それなら拳に聞くまでよ、と反射的に拳を固めると、美弥は焦ったように千夜理の腕に飛びつき、ルーファウスを擁護した。
「ちっ、ちーちゃん、怒らないでっ! 私たち昨日、お友達になったの! そうよね! ルーファウス君!」
「おとも、だちぃ?」
 千夜理は疑いの眼でルーファウスを睨みつけたが、変態が頬を染めたので鋭い舌打ちをしながらすぐに視線を逸らす。そして、低く威嚇するような声で、千夜理はルーファウスを吊るし上げながら問い詰めた。
「――嘘付いたら承知しないわよ?」
「はい! 兄上っ! 高潔なる兄上に誓って私は真実を述べますっ! 私は美弥殿の大河のようなお人柄に感服し、友人関係を結んだというわけです! 流石は兄上のご友人! 博識であり、ひとかどの人物とお見受けいたしましたっ!」
 ふーん、と千夜理はまだ納得していなかったが、美弥の表情をみてようやくルーファウスの襟を開放した。不機嫌な表情をしながらも、千夜理はルーファウスの鼻先に人差し指を突きつける。
「いい? 百歩譲って友達だっていうのは美弥に免じて信じるにしても――私の大切な友達に指一本でも触れたらどうなるのかわかってるでしょうね」
 この変態にもしも万が一、美弥が襲われでもしたら、一生地獄を見せてやる。
 千夜理は殺気を滲ませて変態に忠告したが、ルーファウスはふるふると体を震わせながら唇をひらいた。
「――まさか、まさか兄上直々に、ぶ、ぶち殺して下さるのでしょうか? このルーを」
「だからいかにも期待してますっていう顔で頬染めるんじゃねぇよ! この変態っっ!」
 ついでに自分のことをルーって呼ぶな! きもい! と鳩尾に膝蹴りを入れると千夜理は美弥と秀を引っ張ってずかずかと席へと戻った――後に残されたのは喜びに身悶える変態のみである。



 千夜理は昨日の美弥の言葉を思い出し、そして五十秒たっぷりと数を数えてから、目の前の人物に半眼を向けた。出来るだけ穏やかな声をかけようと努力したつもりだったが、それは見事なほどに失敗に終わる。

「で? なんでアンタがここにいるわけ?」

 日直は前にでてホームルームをはじめろ、と担任の小川に言われて千夜理が教卓にあがると、なぜかルーファウスが電信柱のようにそこに突っ立っていた。
 また厄介なことでも企んでるんじゃないだろうな、と千夜理が眉を跳ね上げると、ルーファウスはこれ以上にないほど澄んだ瞳をきらきらと輝かせて拳をぎゅっと握り締める。
「きょ、今日は私がニッチョクというものを、つ、つとめさせていただきたいと!」
 その妙にやる気満々な態度が不気味で、千夜理は一歩後ずさりながらも、ちらりと一緒に日直をする予定だったクラスメイトに視線をやった――彼は案の定、虚ろな目で空を見つめている。千夜理は無言でルーファウスの足を甲を思い切り踏んづけた。
「だから無駄に変なの使うなって何度言えばわかんの? なにか悪影響がでたらどうすんのよ!」
「で、ですが私は、兄上と一緒に日直が! ――ところで兄上、足の裏の感触が至福の心地であります」
「……へぇえ、足の骨砕けるまで踏んで欲しいって?」
「は、はいっ! 是非っっ! あにうえっ!」
 絶望的な温度差の二人に、呆れたような小川の声がかけられた。
「こら、日直。いちゃついてねぇでホームルームを早いところ……って金城、冗談だよ、冗談。ったく睨むなよ」
 千夜理は小川を鋭い目つきで一瞥すると、深いため息を吐きルーファウスの足の上から自分のそれを退けた。名残惜しそうに自分の足と千夜理のを見比べているルーファウスの首根っこを捕まえると、千夜理はどすのきいた声でしっかりと言い含める。
「――アンタが何を企んでるかはしらないけど、こうなった以上、厄介ごとだけはごめんだから」
 千夜理の言外の意を汲み取ったのか、ルーファウスは飛び上がりそうなぐらい喜色満面で頬を高潮させる。

「はい! 兄上の仰せのままにっ! 兄上の手となり足となることは、私にとって至上の喜びなのです! この身が果てようとも、私は兄上を助け、その命を遂行することを誓います! もしもこの誓いを違えるような事があった時には、私は自らこの胸を裂き、心臓を兄上へと捧げるでしょう!」

 教壇の上で片膝を付き、まるで騎士が剣を捧げるがごとく宣言したルーファウスに、千夜理を始めクラスメイトは心の底からドン引きした――唯一、感動で涙を滲ませながら拍手した美弥と、寝ていて顔をあげようともしない秀を除いては。



 そうして妙な緊張感の中で始まったホームルーム。
 ルーファウスの熱っぽい視線が至近距離で頬に突き刺さるのを感じながらも、千夜理はそれを意図的に無視しながら司会を進めていた。
 徐々に近づいてくる変態の荒い息がとても耳障りだ――あと三センチ近づいたらぶん殴る、問答無用で目玉突き刺す、と千夜理は顔を引き攣らせながらも平静を装っていたが、その張り詰めた空気を破ったのは、当の変態本人だった。
 ルーファウスはピクリとその耳を反応させると、獣のような形相で突然、咆哮した。

「貴様ぁああああ!!!!! 兄上の麗しき唇からこぼれる真珠のようなお言葉を前に、その汚らしい口を開くとはっ何事だっっ!!!!!!!」

 その絶叫がびりびりと鼓膜を直撃し、千夜理は眩暈を覚えた。
 そして、本気でルーファウスが発狂したのだと信じかけたが、いまさら不安がらずとも変態はもとから狂っている。
 しかし目を回した千夜理の様子に何を思ったのか、ルーファウスは更に激昂し振り上げた片手を教卓に叩きつけた。そして不幸にも人外の馬鹿力をその身に受けた机は、ばりん、という悲鳴を上げて二つに裂けたのである――教室内には通夜のような沈黙が落ちた。
 教室の端のほうを獲物を狙う鷹のような目で睨みつけていたルーファウスの視線を辿るに、どうやらクラスメイトの一人がちょっと雑談をしていたらしい。千夜理もそれには気づいていたが、至近距離でハァハァやられているほうが、数千倍、煩わしいことは明白である。
 千夜理は今にも飛びつかんばかりにいきりたっていたルーファウスの肩を強く掴んだ。そして、期待に胸を膨らませ、潤んだ瞳でこちらを振り返った変態に能面のような表情で対峙する。

「あっ、兄上! 耳障りな下等生物は私が"ニッチョク"として、責任をもって即刻、息の根止めてきますのでっ! その素晴らしいご高説を引き続き永遠に承りたく存じますっ!」

 その顔面に褒めてという単語が刻み込まれ、ついでにどこに興奮する要素があったのか、滝のような鼻血が噴出して全身血だらけである――なんというか、もういろんな意味で千夜理は限界だった。
 千夜理はルーファウスに背を向け、適度な距離をとると、くるりとルーファウスに向き直った。その表情は菩薩のようで――そのアルカイックスマイルがとても怖かったとクラスメイトは後に語る。
 そして思い切り助走を付けると、千夜理はルーファウスに向かって跳躍した。

 ――お前こそが永遠に黙れ!
 はいッ! 兄上の仰せのままにぃッ!

 絶叫が隣の教室まで響き渡り、ホームルーム時点で壊れた学校の備品、教卓と教室の扉。
 こうして千夜理にとって地獄の日直当番が始まってしまったわけである。



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