十四話 / 不変の誓いを貴方に


 千夜理は激怒していた。
 頭の中ではアホバカオタンコナスという言葉が火にくべられ踊り狂っている。
 ルーファウスの手首を右手で捕まえて、肩を怒らせながら千夜理が向かった先は保健室だ。扉を思い切り開き、視線を走らせてみたが、案の定、あの不良保険医はエスケープ中のようだった。千夜理は鋭い舌打ちをしてから毒づくと、ぐったりしている美弥を空いているベットへ寝かせておくように言いつける。
 ルーファウスもそれを直ぐに承知し、重力を感じさせないほどゆっくりと美弥をパイプベットへと横たえた。

「……兄上、美弥殿は大丈夫でしょうか」
 なんとも暢気に美弥の具合を心配するルーファウスの脳天を、千夜理はカチ割ってやりたい衝動に駆られた。しかし、今はそれどころでは無い。
 千夜理は憮然とした表情でルーファウスの手を引き、置いてあった椅子に座らせた。そして戸惑うルーファウスを睨みつけ、押し殺した口調でルーファウスの絆創膏だらけの手を広げる。
「あんた、大怪我してるんでしょうが。見せて」
「兄上、私の傷はそれほど深いものでは」
「いいから、見せろってんでしょうが」
「――お目汚し失礼します」

 もとより兄に絶対服従のルーファウスは、少しだけ困った顔をして覆いを外す。
 その下から現れた凄惨な傷だらけの手に、千夜理は息を呑み、顔を歪めた。
 そんな千夜理の様子に、ルーファウスは悲しそうに目を伏せる。

「――どうやら私は、また兄上を不快にさせてしまったのですね。」

 千夜理は気が狂うかと思うぐらい腹が立った。
 体の真ん中を駆け抜けていく怒りに、千夜理は仁王立ちになる。千夜理は眩暈がするほど激昂していている自分を自覚した。

「黙れ馬鹿――自分の腕をなます切りにしてるのに、何が"兄上が不快に"、だぁ? 私が怒ってるのは、アンタが自分のことをないがしろにしてるからだ。何か反論はあるか、この馬鹿」
「兄上、お言葉ですが、私は"特殊"な体質なので、傷なんて直ぐ治りますし、見た目ほど痛くないのですが」
「そういう事をいってるんじゃない……見てるこっちが痛いっつってんだ、マゾ男っ!」

 千夜理は声に出してみて、初めて、自分の気持ちに気づいた。
 自分がルーファウスを拒んでいた、もうひとつの理由。
 それは、ルーファウスが兄の――千夜理の前にすべてを――それでこそ命でさえ投げ出してしまうことが解っていたからだ。
 それは千夜理にとって、逃げ出してしまいたくなるほど重く、怖いことで、同時に酷く虚しくて、悲しい。ルーファウスの命を背負ってしまえるほど千夜理は強くないし、ルーファウスが自分の為に進んで死を選び、なんでもない顔をしていられるほど薄情でもない。
 薄々は気づいていた。ただ、千夜理は認めるのが怖かっただけだ。
 事は既に、二人が初めて出会った時、千夜理がルーファウスに手を差し伸べた瞬間、手遅れになっていたのだ。



 無言で包帯を巻く千夜理を前にして、ルーファウスは少し戸惑っていた。
 千夜理に連れてこられた白い部屋は、どうやら学校における薬師の部屋であるらしく、独特な匂いが鼻をくすぐる。魔族である自分にとって、放っておけば治癒するような傷であったし、まさか兄上が気になさるようなこととは露にも思わず、兄自ら処置をしてくれるのだと気づいたときは光栄の余り卒倒しそうになった。
 そういえば、生前の兄、ベリアルも、どんなに制裁を加え、ルーファウスが瀕死で虫の息になろうとも、最後にはルーファウスのちぎれそうな片足を引き摺って回収してくれるのが常だったし、そういうところは変わっていないのかもしれない。
 幼少のルーファウスはその複雑な生まれ故、人の悪意には敏感で、そして同時に愛を渇望していた。
 もしかしたらルーファウスの信じるベリアルの"愛"はルーファウスの強い欲求が生んだ、只の幻想だったかもしれない――だが、ベリアルはいつも自分の傍に存在してくれたから。美しくシニカルな笑みに包まれたベリアルの感情が見えなかったとしても、ルーファウスは満足だったのだ。
 それに比べ、脆弱な人間に転生した兄、千夜理はどうだろう。
 顔を歪め、声を上げて、感情を剥き出しにする。
 それはルーファウスが敬愛した冷酷なベリアルとは似ても似つかなかった。まさかあの呪いは兄の強靭な精神まで蝕んだのだろうか、とルーファウスが思うほどに。
 初めは、それは兄が自分と共に魔界に帰ることへの障害になるのではないかと、ルーファウスはその変化を恐れた。
 しかし、千夜理の理解し難い感情表現に、一喜一憂しながらも、ルーファウスは兄上としての千夜理を受け入れていたことに気づく。ルーファウスは千夜理の脆弱さまでを尊崇していた。
 今現在にしたってそうだ。
 険しい表情に相反して、驚くほど優しい手で千夜理はルーファウスに触れる。
 それからは愛――そう、紛れも無い愛が! 感じられる気がして、ルーファウスはその幸せな幻想に、しばし酔いしれた。

 手当てを終え、今度、こんな怪我したらぶっ飛ばすよ、と言った千夜理の声は刺々しい。しかし、それは甘い睦言のように聞こえて、ルーファウスは、善処します、とこれ以上ないほどのふやけた笑みを浮かべた。それに千夜理は不快そうに眉を跳ね上げる。
「善処、じゃなくて、一切やめろって言ってんだけど……本当に信じられないほどの馬鹿だな」
 ふてくされているその表情までが愛しい。
 それは千夜理流の心配の仕方だと、ルーファウスはようやく掴みかけていた。
 突き上げられるような感情に素直にしたがって、ルーファウスは心の底からの忠誠を、今再び誓う。
 
「兄上の為なら、私はどれだけでも馬鹿になれるんです――貴方に笑って頂けるのならば、この矮小なるルーファウスの命、いつでも捧げてみせましょう」

 生前の兄上は、あの時、妖艶なる美貌を崩すことなく、唇の端だけを吊り上げてこう言った――『へぇ、なら、今は俺の暇つぶしの為に必死に生きろ。俺が飽きたら即刻、死ね』
 しかし、転生後の兄、千夜理は怒った顔でルーファウスを睨みつける。そして、まるでルーファウスが言ってはならないことを述べたかのように静かに激するのだ。

「私の為になんて言葉、聞きたくない。アンタは、アンタの為だけに生きれば? アンタみたいな奴の命、重たすぎて欲しいとも思わない」
 すげなく断られてしまい、ルーファウスは苦笑した。
 言葉と意味合いは違っても、どちらの兄上も自分に"生きろ"という。
 そして、飽きたら死ね、といったベリアルでさえ、命を奪うことはせずにルーファウスを置いて逝った。そして千夜理も、人間として生きている限り、ルーファウスが瞬きしているほどの間に死ぬのだ――ルーファウスにとって兄の為に生き、兄の為に死ねること以上の幸福は無いというのに、いつになったらこの切望は果たされるのだろう。
 兄上はいつも私には何も望まない。それはルーファウスにとって、喜びよりも少しだけ悲しみが勝った。
 平行線を辿る会話に終止符を打つために、ルーファウスは感謝の言葉を述べる。それは了承の言葉ではなかったが、こんな自分のことを思いやってくれた兄への心からの謝辞だった。
 不服そうな顔をしながらも、千夜理はルーファウスを真っ直ぐ見る。その視線に震える心を意識しながらもルーファウスは兄の言葉を待った。

「……こんなところでぼさっとしてたら、昼休み終わっちゃう。アンタも御飯食べるなら、行くよ」

 それは初めての千夜理からの誘いだった。ルーファウスは舞い上がって昇天してしまいそうになる自分を叱咤激励して、先ほど美弥のアドバイスを思い出す。

 ひとつ、無駄に奇声を発しない。
 ひとつ、むやみやたらに血を流さない。
 そして、そっと遠慮がちに微笑んで、お礼を言うこと!

 その教えを遵守しながらルーファウスは口を開く。
 少し千夜理は驚いたように体を引いたが、ルーファウスが立ち上がるまでじっと待っていてくれた――美弥殿感謝いたします。


 微妙な距離をとりながら歩く二人の影が近づくことは無かったけれど。
 ルーファウスはちょっとだけ千夜理の心に触れられたような気がしたのだった。



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