十六話 / サドゥンリー・アイ・シー


 千夜理はくしゃみを三つほど漏らした。
 誰か自分の噂をしているのか。そうして考えてみると、真っ先に思い浮かぶ人物像があったが、千夜理はソレを脳内でぶっ飛ばした。そして、手に取った野菜をぽいと買い物かごに放り込む。
 家をあけている母親の代わりに夕食を作るべく、千夜理は大型食料店に買い物にきていた。父親や愛犬のチロル、そして、ルーファウスの腹を満足させるというミッションを何とかこなさねばならない。魔界出身を自称しているくせに、この世界の食べ物に味を占めたあの男は、金城家のエンゲル係数を一人で吊り上げているのだ。
 非常食用のスナック菓子を買い込んでいた千夜理は、ある棚で足を止めた。
 そこには様々な種類のスパゲッティの麺が並べられており、千夜理はぎゅっと眉間にしわを寄せる。むろん頭をよぎったのはあの変態の愚にもつかぬ妄想だ。
 ――あいつはアホか。アホなのか。いったいなにを考えて生きてるのだろうか。
 その質問に対する答えは「いちたすいち」よりも簡単に導かれる。
 息をするより当然のことのように「兄上」って答えるんだろうな。
 あのアホは疎ましいが、その生い立ちの複雑さを考えれば同情の余地はあるかもしれない。だからといって、一つのスパゲッティを二人で食べるという結果は導き出されるはずも無いのだが。
 千夜理はひとつ深い溜息をつくと再び歩きだした。材料は買い込んだし、今日は無難に野菜をぶちこんだインスタントラーメンでいいかと安易に決める。そして千夜理はレジに向かう途中で嫌なものを見た。目撃してしまった。
 スーパーの陳列棚からはみ出して見える銀色の頭。あんな奇天烈な髪の色なんて一度見たら忘れようも無い。しかも千夜理が進むスピードにぴたりと歩調を合わせてくるのだから決定的だった。千夜理は怒りでひくつくこめかみを意識しながら、棚が途切れた場所に仁王立ちになり、その人物に対峙する。
「ちょっと、あんた。ここで……なにやってんの」
 千夜理に声をかけられるのを準備していたような反応の良さで、その銀色の頭が振り向いた。その拍子に長い豊かな髪が放物線を描きながら空を舞う。シャンプーの宣伝にでもなってそうな場違いな優雅さに、千夜理はドンびいた。頬を上気させながら、瞳を潤ませ、喜色満面な気味の悪い笑顔――千夜理の予想を裏切らず、そこにいたのは件の変態、ルーファウスだったのだ。
 ルーファウスは腕を後ろで組みながら振り向くという、アイドルも真っ青な乙女チックポーズを取りながら、こちらを見ている。知らん振りして帰りたいところだったが、そうをすると余計に店に迷惑が掛かりそうだ。千夜理は血を吐く思いで心を殺して、その場に留まった。
「あれっ、兄上! 奇遇ですねっ! こんなところで巡り会えたという奇跡に私は深く感謝するとともに……」
「そういう変な小芝居は即刻やめろ。だから、ここで何をしているのかって私はきいてるんだけど」
「兄上をお迎えに参りました! 気高き兄上の命を狙う不逞の輩が存在せぬともいえませんっ! 兄上は私の命に代えましてもお守りしますのでっ!」
 胸を張りつつそう言い切ったルーファウスに千夜理は閉口したが、本人は心の底から大真面目なのだ。方向性が致命的に間違っているが、最近の千夜理はそれを間単にはねつけられなくなっていた。
 まぁ、荷物持ちさせればいいか、と前向きに考えて千夜理は礼を言うと、ルーファウスをレジへと促した。たかが感謝の言葉一つで悶絶しているルーファウスは無視するに限る。
 そして、会計を済まし、スーパー袋を持ったルーファウスとスーパーを後にした。
 放っておくと天まで登ってきそうなぐらい上機嫌なルーファウスを薄気味悪く感じながらも、千夜理は肩を並べて歩く。
「あにうえっ、あにうえっ、今日の晩餐は兄上、手ずからの料理を食すことができると聞きましたっ!」
「あのね、つっても、インスタントラーメンだから。過剰な期待しないでよ」
「いんすたんとらーめん、ですか? 何にせよ、兄上が手間隙かけて、作ってくださるだけで私にとっては、一番の御馳走ですっ! ――本来なら、兄上の手を煩わせるなどもってのほかなのですが、それでも、嬉しいと感じる心はとめられそうにありませんっ!」
 くるくる、きらきらと変わる表情は、幸福感を前面に押し出していて、千夜理は呆れを滲ませながらも、つられて口元が綻ぶのを感じた。しかし、すぐに我に返り、口を隠すように手で覆う。前のように鼻血でも噴かれたらたまらない。あぶねぇ。



 やっと家の前まで辿り着き、鍵を取り出そうと鞄をあさっていると、何故かルーファウスが立ち止まっているのが目に入った。じいと空を見上げるルーファウスにつられて、千夜理も上を向く。そこには上弦の月が浮かんでいた。月がどうかしたのかと問いかけようとしたが、いつもとは違い、憂いを含んだ雰囲気に、千夜理は声を掛けることを躊躇う。
 すると、ルーファウスはゆっくりと千夜理に視線を移し、真剣な面持ちで名前を読んだ。
「兄上――兄上は核の封印を解かれる気はないのでしょうか」
 その質問に、ルーファウスが出会った時の事を思い出す。ルーファウスが千夜理に見せた赤い宝石。あれのことを指しているのはわかった。急に何を言いの出すのだと千夜理は眉根を寄せる。ルーファウスは、そこに何事にも変えがたい宝が仕舞われているかのように、そっと胸元を押さえた。
「こちらの世界は穏やかで、その御身が危険にさらされる危険性は魔界とは比べるべくもありませんが、それでも万が一、ということもあります。核を再び身体に取り込めば兄上は以前と同じ強大な魔力を宿し、御身を傷つけられる心配もなくなりますゆえ」
「そうやって私が頷いたら、今度は魔界に連れて行こうっていう魂胆なわけ? ……もし仮に、魔界がなんてところがあるとすればだけど」
「そっ、そんな、下心は、まったく無いとは、言いきれませんが」
 言い淀むルーファウスに、千夜理は深い溜息を吐く。
「あのねぇ、少しぐらい嘘吐いたら? そんなこと言われて、私が言うこと聞くわけ無いでしょうが。言っておくけど、私は魔界なんて所に行く気はこれっぽっちも無いし、百歩譲って、私があんたのお兄さんの生まれ変わりだとしても、前世の記憶を思いだしたいとも思わない」
 ルーファウスが人間離れした存在だというのは、認め始めていたが、魔界だとか、前世の記憶だとかいう世迷い事を千夜理はまだ信じた訳ではなかった。それに、明らかに怪しい赤い物体を体の中に取り込むなんてぞっとしない。
 きっぱりと言い切ると、ルーファウスはくしゃりと顔を歪めた。すぐに泣き出してしまいそうな気がして、千夜理はぎくりと体を強張らせる。動揺している自分を感じ、千夜理はさらに戸惑った。そんな千夜理の気持ちを知ってか知らずか、ルーファウスは懇願するように千夜理に迫る。
「私は……私は兄上に記憶を取り戻して頂きたい。これは私の我侭だとは重々承知しております。しかし、兄上と共に過ごしてきた時間が、記憶が、全て失われているという事実は、私にとっては耐え難い苦痛なのです。こうして再会できた僥倖を噛み締めながらも、時に、無性に不安にかられるのです――兄上が、再び、私を置いていってしまうような気がして」
 失われた記憶が、ただそれだけが、ルーファウスと兄を繋ぐ楔であるかのようにルーファウスは言った。そうして、吐露された不安は、千夜理の心をも、もやもやと曇らせる。しかし、それが何であるかはわからなかった。
「前世の記憶が戻ったら、"私"の記憶はどうなるのよ」
 その気持ちを振り払うように、千夜理は強い声で問いかける。ルーファウスは痛いところを付かれたようで言葉に詰まった。
「それは――わかりません」
「なに、それ」
 なんなのそれ。千夜理は心の中で繰り返す。
 混乱していた頭は怒りで急速に冷えていった。千夜理の顔から表情が失われていく事に気付き、ルーファウスの顔は強張る。
 千夜理は半眼になりながら、ルーファウスをねめつけた。何故か、酷く、腹が立った。
「ねぇ、あんたは、私が今の生活を全部失ってもいいと思ってるわけ? お父さんや、お母さんや、チロル、美弥のこと、すっかり忘れてもかまわないって――それは、今、あんたが感じてるのと同じ気持ちを、みんなに味あわせるってことだって、わからないの?」
 は、とルーファウスが息を飲む音がする。しかし、どうでもよかった。
 千夜理は、無性に、情けないような、泣きたくなるような気分になったが、それは絶対に気のせいだ。自分が、変態に感情を揺り動かされているなんて思うだけで苛立つ。千夜理は、きつくルーファウスを睨み上げた。
「あんたの世界にはけっきょく、"兄上"しか存在してないのね。それ以外はどうでもいいって……私はあんたみたいに、一つのもののために他の全てを捨てることなんて出来ない。あんたはただ、あんたの"兄上"の思い出を、記憶を、私に押し付けて駄々こねてるだけでしょうっ!?」
 自分でも酷いことを言っている自覚はあった。しかし、身の内に燻った怒りは、それを留めることが出来ない。千夜理は吐き捨てるように言うと、ルーファウスの傷ついた顔を見る前に家の中に駆け込んだ。
 荒い息を整えようとしたが、炎のような怒りは冷めそうも無かった。
 今の千夜理の記憶がどうなろうと、自分の知っている兄上として傍に居て欲しい。
 ルーファウスは千夜理に暗にそう言ったのだ。それを自覚しないまま口にしているのだからなおさら性質が悪い。しかし、それは恐らく、ルーファウスの本質的な望みなのだろう、と千夜理は思い知った。
 これまでやってきたこと全ては、ルーファウスが敬愛する"兄上"のため。そんな事、とうに解っていたはずだった。一体、いつの間に勘違いしていたのだろう。あいつは"兄上"が誰よりも大好きな、ただの変態だったのに。千夜理は唇を噛む。
 何故か裏切られたような気分になってるなんて、馬鹿なのは私だ。
 飼い主を心配してか傍によってきたチロルを抱き上げ、その体に顔を埋める。
 そして、じわじわとこみ上げる吐き気を、千夜理は無理矢理飲み込んだのだった。



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