十七話 / フー・イズ・アロガント?


 頬杖をつきながら見上げた空は、重苦しい灰色している。
 リビングの窓ガラスに貼りついた雨水は、ぐずぐずと蛇行しながら線を描いていった。
 ここ数日は同じような天気が続いており、千夜理の心の中にも低気圧が停滞している。
 しかし、その重たい渦は、大半は天気の所為ではない。
 もともと怒りが持続する性質でもなかったが、あの変態を視界に入れると腐れ切った卵の黄身が滑り落ちていくように心が冷えた。ささくれだった感情はかくはんされ、遂には自分が何に対して怒っているのかさえわからなくなる始末。往来、意地っ張りな性格が仇となって、千夜理は自分から歩み寄ることもできなっていた。さっきも学校で、何か言いたそうに声をかけてきたルーファウスをあからさまに無視して帰ってきたため、千夜理の無駄に正直な罪悪感が呻き声をあげている。
 ルーファウスは謝りたいのだろう。
 それは千夜理にも簡単に予想できた。そして、謝罪を耳にした時点でルーファウスを許してしまうだろう自分自身に、千夜理は一番我慢ならなかったのだ。
 謝るということは、自分の非を認め、相手に許しを請うことだ。
 しかし、ルーファウスにとって謝るという行為は、ただ単に相手の怒りを鎮めるためだけの儀式に過ぎない。なぜ千夜理が怒ったのか、どうしたら同じ過ちを犯さずにすむのか。普通なら考えてしかるべきことをすっとばして、ただ単に謝っておけという根性が気に食わないし、それは根本的な解決に成り得ない。実際に、そういうサンプルが身近にいてしまうから、千夜理の確信は揺らぎそうもなかった。
 ごめんで済むなら警察は要らない。まさに至言だ。もちろん、千夜理も感情的になった部分も勿論あったし、言い過ぎてしまったとは思ったが、ルーファウスの顔を目にすると、出てくるものも出てこなくなる――相手が美弥だとしたら、素直になれるかもしれないのに。
 そんな、詮なき"たられば"を考えながら千夜理が深いため息を吐く。
 ことり、という何かがぶつかる音がした。千夜理がそれにつられて視線を戻すと、母の理子がココアを用意してくれたようで、目の前に置かれたマグカップからは、湯気が立ち上っていた。
「どうしたの、千夜理ちゃん。溜息なんか吐いて」
「んーん。なんでもない」
「そんなに眉間に皺寄せて。癖になっても知らないわよ」
 指摘されて手をやると、寄った眉間はがっちりと強張っていた。げ、と思いながら千夜理がそれを伸ばしていると、両手でマグカップを包み込んだ理子は、ゆったりとした動作で正面へ腰を下ろす。
「千夜理ちゃん、今度の週末、みんなで旅行だから。きちんと用意しときなさいね」
 言われるままにカレンダーに視線をやれば、すっかり家族旅行があるのを忘れていた。毎年、金城家と成田家合同で行われる旅行は、一種の風物詩のようになっていた。新鮮味などまるっきり無いが、特に拒否するほどの理由も無い。今年も代わり映えのしない温泉旅行になるのだろう。
「もう、そんな季節なんだ」
「ええ、家族みんなで行きましょうね」
「家族って……あのさ、それって、あの、あいつも来るんだよね」
 家族みんなで、という言葉に引っ掛かりを覚え、千夜理がぼやかしながらも聞き返せば、理子の表情が困ったように曇る。
「あいつって……もう、千夜理ちゃん。やっぱりルーちゃんと喧嘩してるのね」
「別に、喧嘩してるわけじゃないけど」
 諌めるような口調に、千夜理は思わず口を尖らせてそっぽを向いた。理子に何が原因だとか聞かれても答えられないだろうし、意地っ張りな千夜理の性格を把握している理子は呆れているのだろう。
 姉ってこういう時、理不尽だと思う――ちょいまて、誰があの変態の姉だ。
 千夜理は自分の思考回路にうんざりし、ますます臍を曲げる。
「隣の秀ちゃんとは、秀ちゃんがすぐに謝っちゃうから喧嘩にならないけど、長引けば長引くほど、仲直りしにくくなるから。少しでも自分が悪かったなと思う部分があったら、早く謝っちゃうのよ」
「……わかった」
 諭すような理子には口答えする気も起きない。少しむくれながらも頷けば、いい子ね、と笑った理子は千夜理の頭を撫でる。その柔らかさに、頑なだった心が少しだけほぐれた。
 ずっとこのままにしておくこともできない。それは重々承知だ――けど。
 千夜理はもう一度、カレンダーに視線をやった。今週の週末、家族旅行。その時がいろんな意味で勝負になるかもしれない。千夜理はひとつ、憂鬱を吐き出した。



 夕日の差し込む教室で、ルーファウスはひとり佇んでいた。
 つい先刻、名前を呼んだルーファウスの声を振り切るように背を向けた、千夜理の姿が目に焼き付いていた。
 兄上はもう家に着いただろうか。途中で不埒な悪漢に襲われはしなかっただろうか。
 そんな懸案から、千夜理の後をついて離れないのが常だったが、強い拒絶を受けたルーファウスの足は地面へと縫い付けられた。その程度で怯む自分の脆弱な精神を、ルーファウスは強く唾棄する。
 あの時、己の我執が深く千夜理を傷つけたことは間違いなかった。
 本来ならば、許しを請うどころか、千夜理の前に姿を現すことさえおこがましいのかもしれない。しかし、ルーファウスのさもしい心が、尚、兄を欲してやまない。これほどまでに兄を崇拝しながらも、その兄の意志を犠牲にしても、傍に居たいと願うのか。兄の為に死にたいだと? その兄本人が己を必要としていないのに? ――とんだ、お笑い草だ。
 ルーファウスは皮肉な笑みを零した。
 放課後のグラウンドには、蟲のような人間共が蠢いている。
 ルーファウスは、机の間をすり抜けながらも、ひとつの机の前で立ち止まった。
 まるで神聖な祭壇にでも触れるが如く慎重に、その机の表面に手を伸ばせば、指先には冷たい感触が伝わってくる。掌をくっつけ、愛撫するように手を動したが、返ってくるのは無機質な堅さだけだ。
 ルーファウスが深く嘆息すれば、教室の扉が静かに開け放たれた。警戒を含みながらもルーファウスは顔を上げ、招かれざる人物に鋭く舌を鳴らす。
 無駄に長細い四肢に覇気のない顔。そこに立っていたのは、ルーファウスが一方的に天敵視している成田秀だった。兄の愛情を当たり前のように享受し、その権利を有すると頭から信じきっている痴れもの。その存在をこの世から消し去ることなど、赤子の手を捻るより容易かったし、頭の中で、それを何度夢想したことだろう。ルーファウスは吐き気がするほどの嫉妬を秀に覚えていた。
 相変わらず何を考えているのか良く解からない表情で、ルーファウスを一瞥した秀は、のらりくらりと歩を進める。不快感を露わにしたルーファウスは、その表情を隠すこともなく、己が敵を睨みつけた。普段、秀はルーファウスに話しかけるどころか、視線が合うこともなかったが、今、秀は明確な意思を持って、ルーファウスに接近していた。歩みを止めた秀は、千夜理の机に触れるルーファウスの手に視線を落とす。
「そこ、チヨの席」
「貴様に関係ない。失せろ」
 ルーファウスは犬歯を剥きだしにして威嚇するが、秀は無感動にルーファウスを見返した。その鈍い光を宿す瞳は、観察するかのようにルーファウスの顔を撫でる。
「チヨが君のことヘンタイって言ってたから、つまり、ヘンタイ活動の一環か」
 質問に対する答えを求めていたわけではなかったのだろう。秀は独り言のような呟きで納得したように頷いた。そしてじ、と視線を据えながら首を傾げる。
「このまえのケンカ、部屋から丸見えだったけど、きみ、ヘンタイじゃなくて宇宙人?」
 刹那、ルーファウスは人間の限界を超えた速度で秀の首を掴み上げ、その痩躯を教室の壁に叩きつけた。必要以上に力が入ってしまったかもしれないが、手足が引き千切らないようにする程度の理性は残されている。そして、秀の顎を下げさせると、目を覗き込み、記憶を奪う術を施した――はずだった。しかし、苦痛で少し歪んだ秀の瞳は正気を失わず、その虹彩を保ったままだ。
 魔力の干渉を受けない体質の下等生物もいると文献では読んだことがあったが、初めて遭遇したのがこの男だとは。ルーファウスは憤りが臓腑を焼くのを感じた。憎悪のまま秀を縊り殺してしまう前に、ルーファウスは秀の首から手を離し、突き放すように遠ざける。体を折り曲げながら咳き込む秀を鋭くねめつけた。
「即刻消えろ。殺されたくなければ俺の素性は他言せぬことだ。尤も、信じる人間も居るとは思えぬがな」
 秀を害する理由が出来たことにルーファウスは暗い喜びさえ得ていた。しかし、命の危険を身をもって知ったはずの男は、締め付けられていた喉を押さえながらも立ち上がり、ルーファウスの警告を無視して、その場に留まる。かっと焼き切れる神経と、身も凍る様な激憤が入り混じり、自制心を失いかけたルーファウスの動きを止めたのは、秀という男の、下等生物らしからぬ感情を廃した無機質な目だった。ぽっかりと空いた黒い穴に、褐色の硝子玉が、ルーファウスを見つめ返す。
「だめだ」
 声帯を傷つけたのか掠れた声が、しかしそれが純然たる事実であるかのように告げる。
「チヨはだめ。君のものにはならない」
「貴様に口を出す権利なぞないッ! いい加減に口を慎め、下郎がッ!」
「君が宇宙人だろうが、ヘンタイだろうがなんだっていい。興味ないから」
 秀は淡々と言葉を紡ぎ、瞳には感情が映る。
「だけど、チヨが嫌がることは、俺がさせない。チヨは俺のだし、俺はチヨのだから。チヨを不用意に傷つけたくせに、君は一方的に何かを望むだけ」
 そういうの、ええと、厚顔無恥って言うんだっけ、惚けた表情で秀は頭を掻いた。
 ――ねぇ、君が見てるのは、本当にチヨなの?
 研ぎ澄まされた刃物の様な質問。それはすっとルーファウスの心臓に突き刺さる。言葉に詰まったルーファウスに勝ち誇った顔を見せるでもなく、秀は緩やかな微笑を浮かべた。
「チヨは……乱暴な所もあるけど、おひとよしで、おせっかいで。意地っ張りなのに、ナイーブなところもあって――チヨはそんなチヨのままだからいいんだ。それさえも分からない君に、チヨの傍に居る資格なんて無い」
 貴様に俺と兄上の何がわかるのだ、貴様が口を挟むことではない。
 思い上がった男にどのような手段を用いても理解させるべきだったが、その意志とは反して、ルーファウスの体は石のように動かなくなっていた。
 これまで、誰よりも兄を想っていることをルーファウスは信じて疑わなかった。自分こそが兄上の幸せを願い、その幸せを守ることが出来るのだと。
 しかし、秀の突き刺すような言葉に、その自信には微かな亀裂が走る。
 本当に思い上がっているのは誰なのか。
 今のルーファウスは明確に答えを出すことができなかった。



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