四話 / どMの疑いありです
「ただいまっ!」
千夜理は跳ね飛ばすような勢いで玄関の扉を開けた。全速力で走ったから息は著しく乱れていたが、ルーファウスの姿が見えないことに千夜理は心の底から安堵する。靴を脱ぎ散らかしながらあがりかけ、しかしあとで母親に小言を言われるのは目に見えているので思い直しておざなりにそろえた。そして、いつも帰ってくると一番に迎えてくる姿が見えないことに首をかしげる。
「チロル? ちろる〜? いないの?」
リビングに続く廊下を覗き込みながら名を呼ぶと、ひょっこりと小さな愛すべき動物が廊下の角から顔を除かせた。千夜理の愛犬、豆芝のチロルはくりくりの眼を輝かせながら、転がるように千夜理に向かってくる。
「チロル! たっだいまぁ〜!」
わふっ、と答えるように鳴いたチロルは飛び跳ねながら尻尾を千切れんばかりに振っている。あまりの愛しさに抱き上げて頬擦りをすれば、チロルは親しみをこめべろりと千夜理の顔を舐めた。しかし、ご機嫌な様子だったチロルはすぐにうーうーと低い声で唸り出す。チロルは匂いに敏感で、千夜理が嗅ぎなれない匂いを拾ってくると途端に不機嫌になるのだ。確実に今日、遭遇してしまった変態の匂いに反応しているのだろう。千夜理はなだめる様に撫でたが、チロルは随分と気が立っているようだった。
「チロル、今日は変な男に捕まってさ。ほんとにまったくとんでもない目にあったわ」
「兄上」
「そうそう、兄上なんて言われて……ってオイ! いつの間に侵入しやがったのよ!」
もちろんチロルが喋ったわけではない。
その言葉を発した主はぽつんと寂しそうな風情で突っ立っていた。玄関が開くような気配もしなかったし、唐突に、そして当たり前のようにルーファウスはそこに居たのだ。
ルーファウスは泣きはらした瞳に更にこんもりと涙をもりつけて、恨めしげな視線で千夜理とチロルを見つめる。そしてぷるぷると唇を震わせながら切ない口調で訴えた。
「あにうえっっ! いつもお願いしていますが追跡訓練をやるのならば一言でも前置きしてからやってくださいっっっ! しかも私の前でそんな畜生を可愛がるなんて! 酷いですあにうえぇぇぇーー!!」
どうやらルーファウスは千夜理が逃げた事を訓練かなんかと勘違いしているらしい。どうやって追いかけてきたのかは解らないが、これはストーカーよりも性質が悪い。主人を守るためか、それとも畜生と呼ばれたことに腹を立てたのか、なんとチロルが勇敢にもルーファウスに飛び掛った。がぶりと腕に噛み付いたチロルを一瞥すると、ルーファウスは不快そうに眉を顰める。
「犬畜生がいい度胸だな。光栄に思え、痛みを感じる暇も無くただの肉塊へと還してやろう」
物騒な口上を口にしていたルーファウスははっと何かに気付いたようにふんふんとチロルに鼻を寄せる。そしてうっとりと夢見心地になった。
「――兄上の移り香が」
「即刻、チロルを離せ! このド変態がぁぁぁーーー!」
今にもむしゃぶりつきそうになっている変態から愛犬を奪い返すと、千夜理はぎゅっと守るように胸に抱いた。チロルも身の危険を感じたのか、がうがうと威嚇するように歯を鳴らしている。ルーファウスはそんなチロルを指をくわえて物欲しげに見ていたが、ふと千夜理の後ろに視線をやった。千夜理もつられるように振り返ってみれば、ぱたぱたとした足音で姿を現したのは、千夜理の母、理子(さとこ)である。
「千夜理ちゃん、お帰りなさい。あら、この方、お客さん?」
理子はルーファウスの面妖な格好に目を丸くしたが、初対面の人物に対する礼儀は持っていた。しかし、ルーファウスの目が再び怪しく瞬いたかと思うと、理子の表情は虚ろになる。
「……千夜理ちゃん、チロルちゃん、ルーちゃんもご飯よ。すぐに手を洗ってきなさい」
「るるる、るーちゃん? お、お母さん、何言ってるの、この人変質者なんだよ?」
千夜理が母親の言葉に絶句しながら、ルーファウスを指差すと、理子はからころと面白い冗談でも聞いたみたいに笑い声を上げた。
「何言ってるの千夜理ちゃん。ルーちゃんはあなたの弟でしょう?」
ルーファウスの腕をひっつかみ千夜理は足音も荒く手洗い場に向かった。そしてドアを閉め、二人きりになるとルーファウスに憤怒の形相で向き直る。
「アンタ……一体、お母さんになにしたの」
「あにうえ、ご心配には及びません。ちょっとした幻術ですので身体に害はありませんよ」
悪びれないルーファウスにさらに千夜理は怒りを煽られ声が大きくなった。
「じゃあ、ファミレスのもやっぱりアンタの所為だったわけね! いいからお母さんにかけたうっさんくさいの解いて。それから即刻、私の目の前から消えて!」
「それは無理です。私は兄上の傍に居たいのですから。記憶を取り戻されて魔界に来てくださるまでお傍を離れません」
居直り強盗ってこんな感じだろうか、とズキズキしてきた頭を押さえながら千夜理は嘆いた。考えれば考えるほど荒唐無稽な展開にうんざりし、千夜理は深く考えることを放棄する。
……そうだ、まずはご飯食べよう。そうすれば少しはいいアイディアが見つかるかもしれない。しかしその前に。
千夜理はルーファウスの襟首をむんずっと捕まえた。
「あのね、言っておくけど。チロルも含めて私の家族を傷つけるように真似したらぶっ殺すわよ」
自分より遥かにいい体格をしている相手にぶっ殺すも何もなかったのだが、千夜理は本気で脅しをかけるつもりでぐっと下から睨み上げる。するとルーファウスはふにゃんと顔を歪めた。また泣き出すんじゃないかと千夜里が身構えると、ルーファウスは頬を赤らめながら、溶けた表情でのたまった。
「兄上に殺すって言われたのひさしぶりです――もう一度言ってください」
「このド変態が。死ね」
「兄上っ! もう一回!」
真性マゾのプランクトン馬鹿は放っておくに限る。
煮物の魚をつつきながら、千夜理はめろめろと熱い視線を送ってくるルーファウスを半眼でねめつける。会社から帰ってきた父親もあっさりと洗脳されて、皆で食卓を囲んでいる様は、薄ら寒いホームドラマのようである。
「兄上! ご飯、美味しいですね!」
「黙って喰え。変態」
「はいっ!」
千夜理の突き刺さるような絶対零度の言葉にも、ルーファウスははきはきと嬉しそうな返事をする。兄が言葉を返してくれたというだけでルーファウスの脳内はお花畑なのだ。
「あらあら、駄目よぉ、千夜理ちゃん。ルーちゃんを苛めちゃ!」
指を立てて叱った理子にルーファウスは千夜理の擁護をする。
「母上! 兄上は私のためを思って言ってくださったのです! 食事中は無駄口を叩かずに静かにせよと!」
「ルーは千夜理思いの良い子だな。なぁ、千夜理、お前もルーを見習うんだぞ」
兄上という呼称に対する突っ込みをすっ飛ばし、父までそんな事を言い出す始末である。食卓の下でこぶしを握り締めながら、千夜理ははやく食事時間が過ぎる事を心の底から願った。
ストレスで胃がキリキリするような食事は終わり、この家で生まれ育って初めてお風呂に鍵をかけての入浴後、千夜理はパジャマを着て二階の自分の部屋へと続く階段をあがった。すると自分の部屋の前にうずくまった人影が目に入る――ルーファウスだ。
ルーファウスは千夜理の姿に気が付くと顔を上げた。その表情は期待に満ち満ちている。千夜理は精一杯厳しい表情で腕を組むと、ドスを利かせた声を出す。
「なにしてんのアンタ。そこは私の部屋なんだけど」
「兄上、一緒に寝ても」
「……それ以上続けたら兄弟の縁切るから」
もともとミジンコほどにも兄弟なんて思ってなかったが、その言葉は千夜理が思った以上にルーファウスの痛いところを付いたらしい。口をつぐんだルーファウスはちらりちらりとこちらを未練がましくみているが、千夜理は痛くも痒くもなかった。誰がこんな変態と一夜を共にしなければならないのだ。
「さっさと消えてくれる?」
びしっと廊下の奥、ルーファウスが与えられた元・空き部屋のほうを指差すと、ルーファウスはしょんぼりしながらものろのろと歩きだした。その背中をしっかりと見張っていた千夜理は、足元に擦り寄ってきたチロルを抱き上げる。千夜理の体から香る石鹸の匂いに反応してか、チロルはふんふんと鼻を鳴らした。チロルにめろめろな千夜理はその何気ない動作に胸がきゅんとしてしまう。チロルをぎゅっと抱きしめて扉を片手で開けながら、千夜理は自分の部屋の中に入った。
「じゃあ、チロル寝よっか」
「あにうぇぇぇぇー! な、なにゆえ! その畜生はよくて、私が添い寝するのは駄目なのですかぁぁぁぁーー!!」
いつのまに瞬間移動したのか、ルーファウスが扉の向こう側で叫んでいる。ガリガリガリと扉を引っ掻く音が聞こえているのは気のせいではないだろう。鍵をかけていて良かったと心底思いながら、明日の朝、扉に傷でも付いていたら百発ぐらい殴ってやろうと堅く決心した千夜理だった。
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