六話 / 兄上と巨神兵


 くすくすと鼓膜をくすぐる女の甘ったるい声に成田秀(なりた さかえ)はまどろみのなかから這い出した。
 さらりとした髪の間に差し込まれた指を感じながら秀はぼんやりと考える。
 ここはどこだろう。白いシーツに踊るカーテン。そうだ、自分は貧血を起こしかけたから保健室のベットに寝にきていたのだ。幼馴染の少女は「キリンみたいだから頭にまで血が上っていかないんじゃない?」と暴言とも取れる仮説をぶちかましていたが、そんな秀の身長は百八十五センチをゆうに越えていたから、あるいはそうかもしれないと、秀は納得した――それにキリンは比較的好きなほうだ。
 そういえばさっきホームルームのチャイムが聞こえたような気もするから、そろそろ彼女が迎えに来る頃ではないだろうか。そこまで考えて秀は自分の身体を這い回り始めた細い手をやんわりと拒絶した。身体に張り付いていた女を押しのけると、彼女はプライドを害されたように綺麗な柳眉をひそめながら赤い唇を尖らせる。
「どうしたのシュウくん、ノリ悪いわね」
 秀の正しい読みは"さかえ"なのだが、初めから正しく読める人物はいたことが無い。そして誰かが呼び始めたシュウというあだ名がいつのまにやら定着していた。目の前にいる彼女然りで、それは多分呼びやすいからなのだろう。とりだてて自分の呼称に関心を払わない秀は自分がどう呼ばれようともかまわなかった。それでも自分の名前を呼ぶ幼馴染の彼女の声は嫌いではないけれど。
 ふと、秀に近づいてこようとする唇を意識すれば、それは人口着色でピンク色に染められ毒々しく輝いていた。嗚呼、不味そうだと思い秀は顔を背ける。
「――刺激的なやつじゃないとのらないから」
 ぼんやりした頭でそう呟くと女は美しい唇に挑発的な笑みを貼り付けた。それは毒を含んだセクシャルな微笑み。
「それって誘ってる?」
「うん。これで俺を刺してくれるなら」
 さらりと真顔で秀は答えるとカッターナイフを懐から取り出した。カチカチと、刃が出されたそれに女はひっと喉に詰まったような悲鳴を上げる。秀がカッターナイフを握らせようとすれば、女は後ずさり転げるようにベッドから落ちると靴下のまま駆け出した。秀はそれを感情のこもらない瞳で見送ってから、パタリと仰向けにベッドの上に倒れこむ。頭には薄ぼんやりとした霞がかかっていて動くことさえ億劫だった。
「……軽いアメリカンジョーク」
「どっこがアメリカンよ。秀のブラックジョークは撃退法にしちゃ悪趣味すぎると思うけど」
「チヨ」
 少女の心底呆れたような声に秀は顔をあげた。白い保健室のカーテンの間から不機嫌そうな彼女が顔を除かせる。それは十年以上も見続けてきた千夜理の十人並みな顔である。しかしその顔が作り出す多彩な表情は、秀の狭くマニアックだと称される笑いのストライクゾーンどまんなかだ。美人は三日で飽きると聞いた事があったから、秀は千夜理が美人じゃないことに感謝さえしていた。以前、自分を楽しませてくれて嬉しいと素直な気持ちを伝えた事があったが、それを聞いた千夜理は烈火のごとく怒り、一週間は顔を見るたびに拳骨で殴られた。秀はいまだに千夜理が怒ったのか理解できていない。秀的にはこれ以上に無いほど褒めたつもりだったのに。

「秀、これで今学期入って何度目よ」
「数えてないから知らない」
「先生はまた?」
 秀は首を傾げると、一呼吸おいてから外を指し示す。あの保険医はいつものように外へとエスケープしていた。一日の半分以上は保健室を留守にしているうえに、堂々と生徒の前でも喫煙するから不良保険医の名に恥じない堕落っぷりである。
「それで秀は放置されたあげく、色情魔に襲われかけた、と」
 その通りだと首を縦に振れば、千夜理はまるで苦虫を百匹噛み潰したぐらいの嫌そうな顔をした。
 ――あ、その表情面白い。
 くすりと笑った秀の肩を千夜理は無言で殴る。半分くらい本気の力だったけれど、体格差を考えれば痛くも痒くもなかったし、それも秀にとっては大事な千夜理とのコミュニケーションなのだ。


 成田秀は金城千夜理の幼少時からの幼馴染で、そんな彼は幼いころから不思議な雰囲気を持つ少年だった。
 小学校ぐらいから伸び始めた手足はバスケットボール選手が羨ましがるぐらい長くなっていたが、やせぎすでそのうえ虚弱体質な彼は物干し竿か骨格標本に似ているといわれたこともあるし、中学の頃のあだ名は巨神兵だった。しかし、終始無表情だが整っているといえなくも無い容姿、折れるほどに細い腰、そして血管が浮くほど蒼白い肌をもつ秀はどこか影がある雰囲気(千夜理にしてみればただの根暗)と相まって妙な色気を放っていたらしい。それは年を重ねるごとに徐々に顕著になり、少し変わった趣向を持つ人間を秀はまるで花の蜜に誘われる蝶のように惹きつけた。そうして先程のように寝込みを襲われることは、高校に入ってからは数えきれなくなり、秀も淡白なうえに拒むような覇気も無く、究極にものぐさ体質だったことがそれにますます拍車を掛けたのだ。
 しかし、初めて迎えに来た千夜理に最中を見られた時は、流石の秀もそれがまずいことだったと本能的に悟った。保健室の空気は凍りつき、次の瞬間、千夜理は見たことの無いような能面で女を叩き出すと、それから一ヶ月間、秀と話すどころか眼も合わせてくれなかった。ずっと小さいころから傍に居た千夜理に無視されるなんて生まれて初めてだったし、その寂しさに秀は人生で初めて死を意識した――痛いの絶えられなくないけど嫌だから死という選択肢はなかったが。
 それを伝え、心から許しを請うこと百とんで三十八回目。千夜理は本当にうんざりとした表情でこう言った。
「寂しくて死ぬって青いウサギでもあるまいし」
「俺はチヨの青いウサギだから、もう二度と冷たくしないで」
 本気で肯定したらかまされたのはローリングソバットと「キモイ!」との言葉。少しだけ傷ついたが、それより千夜理の声が聞けたことが秀は嬉しかった。
 千夜理は普通の性癖を持つ少女だから、秀の自分自身に対する無関心さが理解できないのだ。これが赤の他人だったなら関係ないと放っているところだが、十年以上連れ添ってきた幼馴染であるからこそ、なんとか更生できないかと口を突っ込んでくるのだろう。それは秀にとって煩わしいものではなかった。要するに秀は千夜理にかまってもらうのが好きなのだから。


 結局は秀の世話をやいてしまう千夜理は、唇をひん曲げながら秀をにらみつけた。この表情は説教モードだと秀は予想する。
「秀、その無駄にフェロモンを撒き散らすのは不可抗力だとしても、その貞操観念の無さどうにかして。一度くらい『やめろ、俺に近づくな』とか言ったらどうなのよ。いい加減にしないとおばさんが泣くよ」
「頑張る」
「頑張る、じゃないよ。このすっとこどっこい。前もそう言ってたのは私の気のせいか? あ゛ぁん?」
「チヨがそう言うんだったら、気のせいじゃないと思う」
 あっさりと肯定した秀に千夜理は疲れて諦めたような顔をした。そして深いため息をひとつ吐き出すと掌を差し出す。
「ほら、行くよ」
「うん」
 伸ばされた千夜理の小さい手に自分の骨ばった手を重ねる。その手はいつも暖かくて微かに湿っている。それは子供頃からずっと重ねられてきた儀式のようなもの。全身の力を込めて引っ張り上げた千夜理にもたれるようにすれば、両足で踏ん張るようにしながらも支えてくれた。
「ぐっ、秀! 重いっ! 自力で立ちなってば!」
 百五十センチをちょっとオーバーしたぐらいの身体は小さくて、長い腕を背中に回せばすっぽりと秀の腕の中に入ってしまう。体重を思い切りかければ、耐え切れずに千夜理はぐえっと蛙がつぶれるような声を上げる。壁に強かに後頭部をぶつけながら痛みに悶えている千夜理に、いまだぬいぐるみにでも甘えているような秀。
 秀が千夜理にアイアンクローをかまされるまで、あと五秒。



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