七話 / 公開SMはお好きかな?
お前が何でここに存在しているのかと。力いっぱいに聞きたい。聞いてやりたい。
千夜理は深い渓谷を刻む眉間にぐっと力を入れながら、打ち震える拳を握り締めた。
秀と一緒にクラスに戻ってきた千夜理の目に飛び込んできたのは自称"弟"であり紛れもない変態・ルーファウスの姿。家においてきたはずの頭痛の種がいったいぜんたいどうして千夜理の席に座っているのか――しかも絶望という言葉におあつらえ向きな負のオーラを身に纏って。
神に懺悔するように組まれた手は額に当てられ、うつむいた横顔には涙の跡と沈鬱さが滲んでいる。ぶつぶつと小刻みに動く唇は「あにうえあにうえあにうえ」と呪怨を絶えず紡ぎ、恐らくマグニチュード8程度の貧乏ゆすりは、もはや机に対する凶悪な膝蹴りへと化していた。そこを中心としてクラスの雰囲気が壊滅的に澱んでいるのは決して千夜理の気のせいではない。
廊下を歩いている間中纏わり付いてきて、そのつど叩き落していた秀の手が千夜理のそれを握る。しかし、にぎにぎしてもなにも反応を返さない千夜理に首をかしげ、秀はその視線を辿った。
「あれ誰?」
「……ヘンタイ」
「ふぅん。はじめてみた」
扉の近くにいた生徒がその会話にぎょっと目を向いたが、千夜理はあっさりと納得した秀に突っ込みを入れられるような精神状態ではなかった。
「ちーちゃん! ……と成田君」
声をかけながら近寄ってきた美弥に、秀は無表情のままこっくりと頷く。千夜理は美弥の声に漸く正気を取り戻し、ルーファウスを指差した。その指先はぷるぷると動揺のためか震えている。
「あっ、あれ! あいつっ!」
「しぃっ! やっと落ち着いてきたんだから刺激しちゃ駄目っ!」
まるで爆発物か猛獣のような扱いである。あれで落ち着いたというのなら、千夜理達が居ないときはどんな状態だったんだろう……千夜理は己の精神衛生上、それを想像しないことにした。美弥は声を潜めると、千夜理にそっと顔を近づける。
「今日、急に転校してきたルーファウス君。ちょっと変わった子みたいなの!」
「転校生って……どこからどう見ても高校生じゃありえないでしょ!?」
千夜理が顔を歪めながらいえば、その言っている意味がわからないと美弥は首をかしげる。もしかしなくてもあの野郎、美弥にまであのうっさんくさいのやったんじゃないでしょうね、と千夜理は一気に殺気を帯びた。険悪な雰囲気に美弥は多少たじろいたようだったが、ちらちらとルーファウスに視線を送りながら言葉を紡ぐ。
「さっきから『兄上はどこだ。死にたいらしいな下等生物共め』とか言ってたんだけど、ついさっきちーちゃんの席に座って『あにうえのにおいがする』って泣きながら動かなくなっちゃったの。ルーファウス君、何か勘違いしてるみたいなんだけど」
彼、実は魔族で、彼のお兄さんの生まれ変わりが私なんだって! ――とは到底、言える筈もなかったし、口に出したくもない。千夜理が引き攣れた笑いを刻んでいると極限に辛気臭い表情のルーファウスがふと顔を上げた。
「あ、に、う、え、ぇぇ!」
まるでリトマス試験紙に塩酸をぶっかけたかのごとく、ルーファウスは喜びで頬を高潮させる。兄上と呼ぶ黄色い声の周りにハートが狂気乱舞していたのは、気のせいだと言う事にしておきたい。
ルーファウスの変貌はまるで出会った時の映像をリプレイしているようだった。しかし両手を広げてこちらに走り寄ってくるルーファウスの表情は般若の如く険しくなる。そのときのルーファウスの眼は獰猛な肉食動物に似ていたから、千夜理は手を繋いでいた秀を本能的に突き飛ばした。ざくり、と抉るような音が聞こえ、あり得ない感じに壁から生えていた手を引き抜きながら、ルーファウスは地の底を這う声で秀を睨みつけた。
「キサマァァァァ! 誰の許可を得て、兄上の御手に触っているっっ!」
廊下の上にひっくり返った秀は、怒りをぶつけてくるルーファウスに動じることも無く、千夜理をじっと見つめると少し寂しそうに問いかけた。
「チヨ、駄目?」
「……別にいいけど手ぐらい」
幼馴染である秀と手を繋ぐなんて千夜理にとっては日常茶飯事だし、駄目だといった所で聞くような男ではない。あっさりと千夜理が頷くと、秀は花が咲いたように笑った。それに反してルーファウスは血の涙を流し歯軋りをしながら悔しがっている。がりがりと実際に削れているような音がしたが、千夜理は気付かぬ振りをした。
「兄上ぇぇぇぇぇ! あれほど御身に触られるのは嫌がられていたのに何故! 何故なのですかぁぁ! ――はっ!」
急に黙ったかと思ったら、ルーファウスはもじもじと手を後ろで組みながら上目づかいで千夜理の顔色を伺っている。可愛い女の子でもあるまいし、骨格の確りした男がそんな乙女チックなポージングをするなんて視覚の暴力以外にほかならない。
「……あのぉ、もし宜しければ、私も兄上の御手に触れたいなぁ……なんてっ!」
キャハ! 言っちゃった! とばかりにはにかむルーファウスに千夜理は顔からすべての筋肉が失われたような気がした。
簡潔に言おう。
ぶん殴りたくなるほど気持ちが悪い。
「死、ん、で、も、嫌!」
「あにうえぇぇぇぇ!」
「煩い! いい加減にぃいしろっ!」
ついにぶちきれた千夜理はルーファウスの右の頬を渾身の力で殴りつけた。抉りこむようにして打つべし! と某アニメの某おっさんを狂喜乱舞させるぐらい鋭い右ストレートである。綺麗な面に叩き込まれたパンチだったが、ルーファウスは少しバランスを崩しただけだった。それでも殴られた頬を押さえながら、時間差でどさぁ、と床に崩れ落ちる。その様は異様に乙女チック、かつ優雅であった。
「ちょ、ちょっとルーファウス君! 大丈夫?」
唖然としながら千夜理とルーファウスのやり取りを見ていた美弥だったが、ルーファウスが殴られて倒れたことではっと正気に戻った。腰を折り、ルーファウスの様子をおそるおそると伺えば、彼の肩は小刻みに震えている。まさか泣いているのだろうか、と美弥は一瞬不安になった。
「……だ」
耳を澄ましてみると、吐息交じりの声がとぎれとぎれに聞こえてくる。
「兄上の拳、久しぶりだ。あの痛み、あの鋭さ。あぁ、幸せだ。愛だ。兄上が私に冷たくされるも照れてらっしゃるからなのだ。兄上ったら、兄上ったらそういう所はやはり変わらず奥ゆかしいのですね……!」
恍惚とした言葉の羅列。嬉し涙まで浮かべているルーファウスに美弥がぎょっとして身体を引くと同時に、ルーファウスの背中にどすん、と足が置かれた。美弥が見上げた千夜理の冷え冷えとした表情といったら――うわぁ、マジ切れしてる。
「こんの変態、変態、変態、変態」
「あ、兄上! 嬉しいです! もっと踏んでくださいっっっ!」
「――美弥、秀、この変態のリクエストにおこたえして一緒に踏んでやってくれる?」
にっこりと笑った千夜理の笑顔は今まで見た中で一番恐ろしかった。秀は「うん」と素直に頷きぎゅむぎゅむと踏み始めたが、美弥は到底動けるはずがなかった。美弥は笑顔で人を踏めるような性格はしていないし、それ以上になんかルーファウスがホンモノっぽくて怖かったのだ。
「貴様っっ、その薄汚い足をどけぬかぁぁぁ! ……あっ、兄上に言ったのではありませんっっっ! そこの木偶の坊に言ったのです! やめる? い、いえっ! そう言わず続けてください! 兄上が心行くまま! さぁっ! どうぞ踏んでください!」
公開SMは逃亡したオギーに代わり、一時間目の先生が来るまで行われ、見事ルーファウスはドMで千夜里のストーカーという称号を貰うこととなる。
――千夜理の受難は今、ここに始まったばかりである。
表紙 次項
|