君の音を聞かせてほしい。
どこまでも澄んでいるそれに、
俺の心は共鳴するから。

彼は濃縮された暗闇の中を堕ちていた。まるで深海に沈んでゆく石ころのように。ゆっくりと。
気付いた時、彼は黒い沼のほとりに降り立っていた。ここはどこだ。彼は不安からか辺りを恐る恐る見回した。世界は濃厚な黒い霧につつまれている。そのうちに自分の体まで侵食されてしまいそうだ。
ふと覗き込んだ仄暗い水の底からは無数の声が聞こえた。それらは年老いた男のように掠れているようでもあり、生まれたての赤ん坊のように高くもある。そんなあまたの声が鼓膜に反響し、どうしようもなく、頭が、痛む。脳髄を無理やりかき混ぜられているような不快感。それに耐え切れず顔を背けようとすれば、風もないのにタールのような黒い水面に波紋が起こった。そして、それはぼんやりと誰かの姿を映し出す。
その”誰か”が、彼の名前を呼んでいる。ひきつるような嗚咽混じりの声だ。――泣いているのだろうか。
《さ――》
ヒステリックに叫んでいるのはたぶん、女だ。
次第に鮮明になってきた彼女の輪郭には美の面影が残っていた。しかし、酷くやつれている女は年齢以上に老けて見えた。その容姿は彼自身に似ているような気もする。彼の視線に気がつくと女は、恐怖で喉をひくりと引き攣らせ、その顔は歪む。
《なん……見な――!》
手と髪を振り回し、何かから逃れようと女はがむしゃらにもがく。はらりと生き物のような黒髪が乱れ、踊った。泣いているこの女は。
《――が、るな》
――母、さん?
彼が名前を呼べば、”母”は狂ったように笑い出した。掠れた喉がヒィヒィと鳴る。蔑むような眼差しは次第に、あの少女のものへと変わった。彼女は恐怖で顔を歪めたまま、しかし瞳だけで彼を拒絶し、嗤った。
《――……気味が悪い》
声にならない悲鳴をあげ朔は飛び起きる。
生活感を感じさせない白い箱のような空間には朔の乱れた息づかいだけが響いていた。全身にかいた冷や汗が気持ち悪く、朔は眉間に皺を寄せる。
こうしてうなされて飛び起きるのは久しぶりだった。
もう、忘れたはずだろうが。
自分にそう言い聞かせるが、蓋の隙間からもれだした記憶と感傷は朔の心臓を軋ませる――馬鹿馬鹿しい。朔はひとつ自嘲の笑みを浮かべると、身体を起こしバスルームへと向かった。べったりとはり付く寝間着を脱ぎ捨て一糸纏わぬ姿になると、シャワーコックを捻る。冷たい水滴がしとしとと降り注ぎ、朔の黒髪をより暗い色へと染めあげた。濡れた髪をかきあげると、朔はバスルームの壁へと片腕を突く。透明な水滴が青白い肌を優しく撫ぜていった。そして微かに震えてしまう手が目に留まる。
それを朔は吐き気がするほど嫌悪した――そして何よりも己の弱さを。
衝動的に白いタイルに叩きつければ、刺すような痛みが拳に走ったが、震えは止まった。
紅い血のまざった水が排水溝に吸い込まれていくのを見つめながら朔は掌で顔を覆う。
眠れそうもない。
その他大勢の同年代の若者と同じように、睦月朔は大学に通っていた。
しかし、まとう枯れた雰囲気はどこか老人を思わせ、その眼差しは常に他者を拒絶した。入った当初は声をかけてくる物好きも存在したが、朔はそれに凍りついた視線でもって答える。必然的に朔に近づく人間はいなくなったが、彼もそれをよしとした。
朔は「静」に支配された血の通わぬ虚像の世界で、息を殺して生きてきた。そこでは名も知らぬ人形達が何かを喋り、笑い、呼吸をし、そばを通り過ぎていく。それが現実なのかそれとも夢なのかは、朔にとっては意味を成さなかった。無機質な毎日が通り過ぎるのを朔はその冷めた目でただ傍観していていただけだ。
おそらく。朔はわずかの熱さえ感じたくはなかったのだ。そうすれば、そのうちにきっと自分自身が生きていることさえ忘れてしまえただろうから。
しかし、最近の朔は微かな違和感を感じていた。それはまるで砂をかんだような不快さを伴い、朔の背後からそっと忍び寄ってくるようで。今朝方、見たくもない夢を見たのもその所為なのだろうか。
寝不足で瞼が重かった。今日の講義のスケジュールを思うと、つい舌打ちが漏れそうになる。帰ってしまおうかとも一瞬思った。しかしその時、背中にかけられた声に朔は動きを止める。
「……睦月君?」
そのか細い声は震え、緊張を孕んでいる。朔の胸は重石のようなものに圧迫され、眉間には皺が刻まれた。そして躊躇しながらも朔はゆっくりとそちらの人物のほうに振り向く。
声をかけてきた彼女の表情は、朔の予想に違わず強張っていた。用心深く朔の反応を伺っている彼女の表情は、鼻っ面を叩かれるのではないかとびくびくしている犬を連想させる。朔の感情は小石を落としたかのようにさざめき、彼女を酷く傷つけてしまいたいという気持ちが鎌首をもたげる。それを冷えた心の奥に押し込め、朔は立ち止まり彼女の次の言葉を待った。
少し前までの朔は彼女を形作るものすべてを嫌悪していた。
弱いところ、人の顔色を伺うようなところ――それでいて無条件に守ってくれる存在が傍に居るところ。彼女を見ていると、嫌でも弱かった自分を思い出してしまうから、そして最後の一つは唯の妬みだ。
それはあの時に少しだけ変化した。その不可解なものは朔の感情をゆらす。それが良いものか悪いものかは朔自身にも判断ができなかった。以前のように彼女を無視をすることはなくなったが、以前のよりももっと、衝動的に彼女を傷つけたいと思うようにもなっていた。今のところは、まだ理性で押しとどめる事ができていた。しかし、そのうちにこの衝動は押さえ切れないほど大きくなってしまうだろう。朔は自分の意識外でそうぼんやりと予感していた。
彼女の名前はまだ知らない。ほんの数日前までは知りたくもなかったし、今となっては聞くタイミングも逃してしまった。
なだらかな下降をたどる眉と、きゅっと引き結ばれた唇はかすかに震えている。黒々とした大きい瞳が朔が捕らえたとき、必ずといっていいほど”怯え”と呼ばれる感情が一緒に写りこんでた。しかし、それもあの時から僅かな変化を遂げていて。それはどちらかといえば”怯え”というよりは、”緊張”――。
「あの、おは、よう」
「……ああ」
彼女は長い逡巡の末に、そう一言だけ零した。つい噛んでしまったのだろうか、薄くリップが塗られた唇が赤くなっている。噛み付いたらいまにも血が滴りそうなぐらい、それは紅い。
何故か感じた後ろめたさにそこから目を逸らして、朔は無感情な声で相槌をうった。彼女はほっと力を抜き、そして少しだけ音量を上げた。
「一緒に教室、行っても、いいかな」
くだらないことをきくな、とは思ったが口に出す事は何故か躊躇した。その代わりに朔は浅く頷いて背を向ける。彼女はそれを了承ととり、朔の背中を慌てて追いかける。コンパスの違いもあってか、彼女の歩みは一歩二歩遅れている。楽しく会話なんてする気分ではなかった朔は口を開く事も、彼女のほうをみることもできなかった。彼女もそれを心得ているのか、黙ったままで小走りで足を動かした。しかし、その表情だけはまるでお菓子を貰った子供のように嬉しそうで。
何故、そんな事にいちいち喜ぶことができるのか、朔は理解に苦しむ。
そして、これまで朔が彼女にとった行動を思い出し、同時に苦々しくも思った。
物好きな女だ。しかし、自分の本質を知ればこの女もすぐに離れていくに違いない。そうすれば、この不可解なものも消えてしまうだろう。
朔はそう自分に言い聞かせる。それは安堵ともに僅かな失望を生んだ。ずきずきとこめかみが痛みを訴える。
朔が教室に姿を現すのは、常に開始数分前かチャイムと同時だ。それは無用な他者との接触を避けるためでもあったが、それ以外の理由として、朔があまり朝が得意ではない事があげられるだろう。教室に飛び込んだ彼女はあがる息を必死で整えていた。もともとそんなに運動が得意なタイプにも見えない。肩を揺らしている彼女を見つけて、ある人物が手を振った。
「夏生っ! 今日はぎりぎりじゃん! こっちこっち!」
隣に並んでいた朔に視線を移すと、その人物――確か曽根川といったか――は微かにげっと声を漏らした。朔は無表情で、講義室の前のほうへと移動する。他者が自分をどう思っていようが、朔はどうでもよかった。それよりも朔の頭を占めていたことは、彼女の名前が「なつき」だったこと。そういえば何度も呼ばれていたのを聞いたような気もする――どのような漢字なのだろうか。
そこまで考えて、朔は自分の思考にうんざりした。なぜ彼女のことを考えている? 下らない。
空いていた席に腰をかけ、ノートを広げる。そこには自分の字が神経質に整列していた。
講義が始まれば、痛みのせいか教授の声が頭を素通りしていった。ふと、彼女の申し訳なさそうな視線を感じる。多分、彼女の事だから友人の失礼とも言える反応を気にしているのだろう。彼女はまるで偽善者のように優しいから。朔が傷ついたのではないかと哀れんでいるのだ。
不可解なものがごぽりと質量を増す。
――頭が、痛い。

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