
どうかしたか。
朔の考えごとを遮るように鼓膜を振るわせたのは、男の低い声だ。
それには心配というよりはどこか面白がるような色が滲んでいる。ここ二、三日は夢見が悪く、朔は慢性的な頭痛に悩まされていた。
男の干渉は朔にとっては煩わしいものでしかなく、朔は不快に眉を顰める。その度にまたずきりと頭が痛んだが、それを目にした男は更に愉快そうに喉を鳴らした。
「いつも無表情で人形みたいなツラしてんのに。風邪でもひいたかのか」
まるで朔が人間であることを忘れていたかのような物言いをし、男は黒いTシャツから伸びるしなやかな腕で朔の額に触れようとした。朔はそれが届く前にすっと身を引き避ける。行き場を失った手をひらひらと泳がせながら男は唇の端を引き上げた。
「今日は雨だ。客足も悪いだろうから俺一人でもさばける。お前は先帰ってさっさと風呂でも入って寝てな。それに――」
「俺に、指図するな」
「拗ねんなガキ。優しい叔父からの気遣いだ。感謝しろよ朔ちゃん」
「その呼び方は、やめろと言っただろう」
朔が苛立ちを含んだ視線で叔父――阪上航(さかがみわたる)を睨みつければ、航は肩を軽く竦めた。
「朔、悪いのは機嫌でも気分でもいいからとりあえず帰れ。普段より更に辛気臭い顔されてたらいい営業妨害だ」
ぶっきらぼうでいて容赦の無い航の言葉。しかし、隠された労わりに気づけないほど、朔は幼くは無い。朔はそれを黙殺し、無言でカウンターに並べられているグラスを磨く。航に気を使われるのは癪だし、いつまでも子ども扱いをされるのは腹に据えかねる――俺はもう何も出来ないガキではない。
航は頭をがしがしと掻きながら、呆れたように息を吐き出した。
「お前、頑固なのは昔からてんで変わらないね。あぁ、さっきの続きだが今日はバイトが来る――押しかけのな。お前が苦手な種類の奴だとは思うが、せめて挨拶ぐらいはしろよ」
聞きなれない言葉に朔はそっと眉をひそめた。
航が経営しているバーは飲み屋街の外れにあり、マスターである航にまったくと言っていいほど商売っ気というものがないから、およそ繁盛という言葉とは程遠い。それでも何とかやっていけているのは、この隠れ家的な雰囲気を好む物好きな客が少なくはないからだろう。
居候の恩返しに店を手伝えと言われたのは朔が大学に入ってからだった。それまで雇っていたバイトが急に辞めたから、というのが表向きの理由だったが、それが朔を外に引きずり出すための航の口実だという事には薄々気づいていた。航はそういうお節介を焼きたがる人間なのだ。
毎日ではないが朔は彼にしては驚くほどの素直さで航の店を手伝うようになった。接客は苦痛以外のなにものでもなかったし、航もそれを心得ていたから、朔の主な仕事は開店前の仕度と雑用、キッチンに篭りつまみや軽食を用意すること、そして次の日講義がない場合にのみ閉店後の片付け、それくらいだった。一度だけ、どうしようもなく忙しいときにシェイカーを握った事もあったが、あまりの無愛想さに客が閉口してしまい、それからは朔がカウンターに立つことはまずない。それでもさばききれないほどの客が来店するときのほうが稀で、新しいバイトを雇う必要もないはずだ。
朔がそう口に出すまでもなく、言いたいことを瞬時に悟った航は、まぁ、事情がいろいろとあるんだよ、と諦めを滲ませた声で呟くと煙草を銜えた。パンツのポケットから銀色のジッポを取り出し、慣れた手つきで航はそれに火をつける。一度、肺の奥深くにとりこまれた白い幽霊は、再び吐き出されバーの天井をしばし旋回すると消えていった。それを観察していた朔に、航が冗談まじりに吸うか? と煙草の箱を持ち上げる。
アルコールを振舞う店で未成年を働かせている時点で既に問題ありだが、煙草まで薦めるなんて不良保護者の見本みたいなやつだ。そんな気持ちを込めて睨むと、くくくと航は喉を震わせて笑った。性質の悪い航のジョークは彼の十八番のようなものだ。ちなみに性質の悪さは当然、航にかかるのだが。
笑いをかみ殺していた航は、ふとその眼差しを細めた。それとも――と唇が開く。
「――依存するのが怖いか?」
その声は探るような慎重さで朔の心をそろりと撫でる。意識下で忌避していた理由を言い当てられ朔は弾かれたように顔を上げた。その瞳は怪我をした獣に似た獰猛な光を灯している。航は朔の視線を受け一瞬だけ痛みを堪えるような表情をすると、それを誤魔化すかのように煙草をガラスの灰皿に押し当てた。不自然な沈黙は生温く、朔にはとてつもなく不快に感じられた。
そのとき微妙な空気に頓着することもなくドアが来訪者の登場を告げる。その人物は漂う煙草の香りに少しだけ眉をひそめたが、航の姿を認めると顔をほころばせ手を上げた。
「航ちゃん、お待たせしてごめん! 遅くなっちゃった!」
「誰もお前なんて待ってないぞ。それに三十路過ぎた野郎にちゃん付けはやめろ」
どこか疲れた様子で航は憎まれ口を返したが、朔のものいいたげな視線に少しだけ決まりが悪そうに頭をかいた。
「あぁ、そういや会うのは初めてだったな。この陰気なのが俺の甥っ子だ」
「陰気って航ちゃん口が悪すぎ――って睦月、朔?」
近づいてきた人物は朔に目を留めると、挨拶をしようとした口を開いたまま、零れ落ちるかというほどに大きな目を更に見開いて驚きを表現した。朔もまったく表情には出ないが驚いていたし、いつもシニカルな笑みを崩さない航でさえ少し呆気に取られている。
「なんだお前ら知り合いか?」
「あぁ、うん。同じ大学通ってて……ちょいまち、アンタが航ちゃんの甥!?」
信じられない、とはっきり顔に書きながらその人物――曽根川由紀は叫んだ。その騒々しい声は朔の脳細胞を破壊する気かと思うほど攻撃的に頭に響く。朔にとって由紀がもっとも苦手な種類の人間だという航の読みはどこまでも正しかった。由紀は興味のない相手に干渉するタイプではなさそうだが、彼女が朔に対してどんな印象を持っているかは知っている。航は二人の間にさり気なく体を割り込ませ、朔だけに見えるよう含みのある視線を向けた。
「へえ、朔にオトモダチが居たとは初耳だ」
「……まともに喋るのはこれが初めてだけどね」
どこか不服そうに由紀は言ったが、航の言葉にはからかいが滲んでおり、朔はそれに怒りを煽られる。
「まぁ、仕事は仕事だから。これからよろしく」
見た目通りさっぱりした性格なのだろう、気を取り直したように由紀は手を差し出した。朔はそれを一瞥する事もなくキッチンへと向かう。怒りを含んだ由紀の声と、それを苦笑しながら宥める航の声が聞こえたが、体の底からこみ上げる苛立ちは押さえようがなかった。締め付けるような頭の痛みは酷くなるばかりで仕舞いには吐き気まで覚え、朔は銀のシンクに手をつきしゃがみ込んだ。知らぬ間にテリトリーに踏み込んでこられることに対する嫌悪感。気持ち悪い。最低の気分だ。自分の感情がコントロールできないのは非常に拙かった。まずは心を落ち着けなければならない。いつしか記憶の中で言われた台詞を繰り返し、深く息を吸う。
――何にも心を動かすことのないように。何も感じないように。鎧を纏え。そうだそれでいい。
自己暗示のように言い聞かせる。それは幼い頃から何度もやってきたことだ。ひゅうひゅうと鳴る喉を押さえながら、朔は目を瞑った。その感情が完璧にコントロールされたときに、キッチンに不機嫌そうな顔をした由紀が入ってきた。しゃがみ込んでいる朔に気づけば、その表情は即座に心配するものに変わる。由紀は朔に駆け寄った。
「ちょっと睦月、大丈夫?」
「触るな」
伸ばされた手を避けながら、朔は緩慢な動作で立ち上がった。滲む冷や汗で前髪は額に張り付く。由紀は文句を言いたそうな顔をしていたが、朔の蒼白な顔色を前に口をつぐんだ。そして中途半端に伸ばした手を胸元で握り締めると朔を見据える。
「顔真っ青よ。航ちゃんがやっぱり今日は帰れって言ってたけど、素直にそうしたほうがいいんじゃない?」
「アンタには関係ない。放っておけよ」
冷えた声ではねつける。由紀は形のいい眉を跳ね上げたが、ひらりと手を振り「了解」と皮肉っぽく敬礼をした。窓を叩く雨音が妙によそよそしく聞こえて、朔の頭はずきりと痛む。
――心を殺せ。
そういったのは誰だったか、朔には思い出せなかった。

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