
漸くチャイムが講義の終わりを告げる。
朔はそれが鳴り終わると同時に緩慢な動作で立ち上がった。
相変わらず頭痛は続いていた。時折、思い出したように脈打つこめかみに反射的に目を瞑ることはあっても、我慢できないほどの痛みではない。しかし、不眠のせいで蓄積された疲労は朔の思考を確実に蝕んでゆく。教室内では意味を持たない音がまるで潮騒のようにさざめいていた。朔はいつもの様にそこから抜け出そうとしたが、普段と違ったのは己の名を呼ぶ者がいたことだ。
振り向かずとも、その声の持ち主には容易に思い当たることができた。
それでいて朔は歩みを止めるつもりもなかったが、追いかけて来たその相手に行く手を遮られ、朔はやむなく立ち止まらされる。
その人物――曽根川由紀は不機嫌さを身に纏い強く朔をねめつけた。由紀から流れ込んでくる真っ直ぐな感情に朔は嫌悪感さえ覚える。
「あんた、ねぇ。聞こえてないふりってどういうことよ」
朔は煩さに眉を顰め、存在さえも無視するかのように視線を合わせようとしない。それが気に食わなかったのだろう、由紀の眉はつりあがり声は険を帯びる。
「うんとかすんとか言ったらどうなのよ、このすっとこどっこい」
「用がないなら行く」
口を開くのも億劫で傍らを通り過ぎようとすれば、それを阻むように由紀の手が朔の腕を掴もうとする。触るな、と鋭い声を吐き、朔は腕を跳ね除けた。いい加減、騒がしい相手にも辟易していたし、鬱陶しいことこの上なかった。何よりも人の注目を集めるのは朔が忌避すべきことだ。それに――。
「由紀、睦月君、どうかしたの」
淀んでなにも感じなくなっていたはずの心臓が、ひときわ大きく脈動した。
この場所での由紀との接触を拒否していたのは自分は彼女に――夏生に会いたくなかったのだ。声を聞いてみて初めて、朔は自分が無意識に夏生を避けていたことに気づく。
収縮した血管が脈を刻み、次第に強くなるその痛みに朔は硬く拳を握る。
彼女は心配そうな顔をして二人を見比べていた。身に纏った白いブラウスがハレーションを起こし朔の目を眩ませる。その襟から伸びる首は細く、朔が両手で包み込み少し力を込めれば折れそうなほどに白く儚い。それを欲望のままに手折ったらどうなるだろうか。彼女は泣くのだろうか。それとも――あの人みたいに笑うのだろうか。
その倒錯的とも言える妄想は朔の背筋をぞくりとさせた。
「睦月君?」
不安げな声で名前を呼び、覗き込む夏生の視線に朔ははたりと我に返る。そして己の思考に戦慄した。
蒼白になりながら黙り込む朔に、夏生は更に不安を煽られたらしく、遠慮がちに様子を伺ってくる。反応を返さない朔に痺れを切らしたのか、それとも具合が悪そうだと見て取ってか、由紀も一時的に怒りを引っ込めて朔を見つめた。
「睦月、あんたまた調子崩してんの? どっか悪いんじゃないの、病院行きなさいよ」
「……また?」
ひっかかりを感じたのか、夏生は言葉を反芻すると由紀を振り返る。その問いかけるような視線に、明らかに由紀はしまった、という顔をして見せた。由紀はその失言を後悔していたようだが、夏生にじっと見据えられると観念したのか、渋々といった表情で自分が朔の叔父――航のところで働きはじめたことを白状した。
「この間もキッチンで青い顔してたから……まぁ、私には関係ないし、放っておかなきゃいけないみたいだけど」
じゃあ、私の見えないところで行き倒れてろっつーのよ。
皮肉っぽく呟いた由紀を暗い眼差しでねめつけると由紀も好戦的な性格を剥き出しに朔を睨み返してきた。
「俺の体調が悪かろうが、アンタ等には関係ないだろう」
掠れる声を絞り出し、突き放すように吐き捨てれば、は、と彼女が息を呑む音が鮮明に聞こえた。そして、それに反応し大きく鳴る己の心臓の音までもが。
意図的に傷つけるつもりで、曖昧になっていた己と彼女の境界線を判然と示すつもりで発した言葉だった。しかし、予想していた筈の彼女の反応に、自分が何故、動揺する必要があるのだろう。
「本気で心配してる夏生にまで言う台詞なの、それ」
すっと由紀は能面のように無表情になり、刺すような視線が朔を貫いた。それだけでも相手が先刻とは比べ物にならないくらい怒っていることが見て取れる。人のために本気で怒れる人間――それが朔には吐き気がするほど癇に障った。
朔は頑なに沈黙を守る。それが何よりもの答えだと黙して語ったつもりだった。しかし、彼女の傍を通り過ぎる時には、そちら側の皮膚がひりつくほど強く、その存在を意識していた。
「睦月君――」
彼女が言葉を発した。鈴の音を震わせたような高い、しかし澄んだ音。
その声に潜む凛とした強さは、いつかの彼女を思い出させた。
――無理はしないでね。お大事に。
そう、背中に投げられた彼女の声が、そして言葉が朔の心を掻き乱す。朔は、決壊が崩れ溢れ出しそうな感情を辛うじて残っていた理性でねじ伏せた。振り向いてしまったら必死で守っていた何かが壊れてしまうような気がした。朔は拳をきつく握り締めることでそれを耐えるしかなかったのだ。
小雨から本格的に降り始めた雨を浴びながら、朔は引きずるような足取りで繁華街を歩いていた。途中、大通りから細道へと反れ、転がる空き缶を蹴飛ばしながらも朔は進む。そうしてようやくたどり着いた重厚なドアを開ければ、立ち上る紫煙の匂いが朔の鼻をついた。カウンターに座ったままの航は落とした視線を雑誌から剥がすと、朔のほうへと向ける。そして濡れ鼠になっている朔の姿を一瞥すると、航はにぃと口を歪めた。
「朔ちゃん、まさに水も滴るいい男だな……まぁ、墓場から蘇ってきたみたいな面してるとこが残念といえば残念か」
航は火のついた煙草を片手で弄びながら、相変わらず悪趣味な冗談で朔を迎える。航の忍び笑いを当然のように黙殺し、朔は厨房へと足を運んだ。雨水を十分に吸い込み、体に張り付いたTシャツを脱ぎ捨てる。そしていつしか制服となってしまっていたYシャツに薄い体を包みこんだ。青白い皮膚の表面を滑る綿の感触と入り込んでくる冷たい空気に肌が粟立つ。最悪なことに頭痛に加えて、悪寒までしてきたような気がした。
その時、ばさりと頭上に何かが掛けられ、朔は弾かれた様に顔を上げる。頭の上にあったのはタオルと微かな重圧。どうやらそれは航の掌のようだった。ぐしゃぐしゃとタオルでかき混ぜてくる力強い腕を朔は拒否する。押しのけられた片手を上げ、航は呆れたような視線で朔を眺めながら、深い溜息を吐き出した。それは微かに煙草の残り香を朔へと運んでくる。
「朔、お前、まだ眠れてないな……それと、気づいてないだろうが、熱あるぞ」
「そんなものない」
朔が強い語調で言い返せば、白けた表情で見返された。航は天井を仰ぎながら、舌打ちすると肩を竦める。それは匙を投げたときにやる、航の癖のようなものだった。
「まぁ、どうせ聞かないだろうから適当にしろよ」
航はそう言い含めると一度は朔に背を向けたが、何か思い出したようで再び首だけで振り返る。
「朔。お前、由紀から何か預かってないか? ちょっとした買出しを頼んでたんだが、今日来れなくなったんで、代わりに朔に預けるって言ってたんだがな」
朔は由紀が学校で話しかけてきた理由を知った。しかし、それは朔にとって特に重要な意味を成さないし、渡されたものなど朔の手元にはない。朔は一言も言葉を発しなかったが、その表情から航は瞬時に何かを読み取ったらしい。あぁ、と低い唸り声に喉を震わせると、航は扉にもたれ掛りながら慣れた仕草で新しい煙草に火をつける。航は珍しくも草臥れた顔をしていた。
「――お前に愛想良くしろなんて不可能なこと言わないが、必要最低限のコミュニケーションはとるんだな。あいつ中途半端に怒らせるとしつこいから」
朔と由紀の性格を熟知しているらしい航には今日の出来事など簡単に予想がついたのだろう。何かを思い出すような遠い目をしながら、航は深い息を吐き出した。ひらひらと煙草を持った片手を揺らしながら航は扉の向こうへと消えていく。そして、去り際には倉庫からアルコールなどの在庫を補充するように言いつけたのだった。
倉庫は店の少し奥まったところにある。
酒瓶や缶詰などが所狭しと置かれている空間は薄暗く、吊り下げられた電気がジリジリと人工的な光で暗闇を押しのける。湿り気を帯び沈殿した空気を震わせるのは朔の荒い息遣いで、それはつまり己が想像するよりも朔の体調が悪化している証でもあった。痛む頭を抱えながら、体が別のものであるかのような浮ついた感覚にも襲われていたが、朔はそんな自分の体が発するシグナルを無視していた。いまや朔は強迫観念のように何かに追い立てられているようで、休む暇もなしに動かし続けた体は悲鳴をあげていたが、断続的に続く頭の痛みと、繰り返し襲ってくる悪夢が朔に安息を許さなかった。極限まで疲弊した体と張り詰めた精神は軋みをあげている。今にも切れそうな神経をつないでいたのは、僅かに残る朔の強靭な精神力のみだったが、それも熱によって危うげだった。
その兆候が出たのは、高棚から酒瓶を何本か取り出し両手に抱えながら踏み台を降りた瞬間だった。いつもの朔なら細心の注意を払って動くところを、先に取り出して置いていた瓶が肘に引っ掛かかる。高い破壊音が鼓膜を突き、むん、と立ち上ったアルコールの匂いに、朔は舌打ちをする。膝を折りしゃがみ込めば、真っ赤な酒はコンクリートの床の上に飛び散り、散りばめられたガラスが余所余所しげな光を反射し緑色に輝いていた。朔は酷くゆるりとした動作で大きな破片を指で拾い上げる。ひとつ、ふたつ、と片付けていくが、そのうちに不用意に触れた指先に鈍い痛みが走った。
それは朔にとっては実に些細な刺激だった。逆に頭痛から気がそれてありがたいとさえ思う。
ぷつりと吹き出た赤い珠が段々と大きくなり、重力に耐え切れなくなった雫がとろりと流れて指に、そして掌に紅の筋をつくる。床に落ちてしまう直前に、朔はそれを強く握りこんだ。そうして開いてみれば、当然のように己の手は自身の血液でべったりと赤く染まっていた。朔は半ば白痴のように意味のない行動を繰り返していたが、はたと正気に戻ってみればむせ返るようなアルコールと混ざる微かな血の香りを強烈に意識する。唐突に襲われた吐き気をこらえ、掌で口を覆ったままで朔はふらつきながらも立ち上がった。そうしてふと見上げた電球に目の前が真っ白になる――眩しくて白い、嗚呼、あれは彼女の。
意識を手放す最後の瞬間に、朔は白いシャツの幻想を見た。そしてそれは何故か、今まで味わったことのないような奇妙な幸福感を朔へともたらしたのだった。

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